奈良名物の茶粥 ~ 私の愛する「おかいさん」


奈良の茶粥の画像

昨今、線状降水帯という耳慣れない気象予報用語を聞くようになり、大規模な干ばつが起きたり、冷房の必要のない地域に大熱波が押し寄せたりと、地球のあちこちから悲鳴が聞こえてくる様に感じます。連日真夏日が続くと、食いしん坊で元気な私でも食欲が落ち、食べたいと思うものがなくなってきます。あれほど麺類の好きな私でもラーメン・蕎麦・うどんそして素麺なども連日続くと飽きて、それほど食べたいとも思わなくなります。そんな時、生まれ育った奈良吉野の名物「茶粥」を思い出し、無性に食べたくなりました。

奈良吉野の記憶

私は、ソメイヨシノ(桜)で有名な奈良県の吉野の近くで生まれました。
  
奈良吉野の桜の画像

終戦から2年後の1947年生まれです。私の家族はもともと大阪に住んでいたのですが、戦時中に母親の出身地であるこの奈良の山奥に疎開していて、私はそこで生まれました。

このあたりは山また山で平地は殆どなく、稲作地も猫の額ほどしかありません。地元の人たちは稲作より果樹栽培や林業に従事している人が多く、私の住んでいた地区では林業に関連した割り箸作りが盛んでした。

当時はまだまだ食糧事情が悪く、おまけに稲作に不向きなこの地域では白米を毎日食べられるような家庭は少なかったようです。今でも記憶の中には、幼少期の私が見た、茶碗の中のくっきりと線が入った麦粒の残像があります。白米に比べて麦は味がなく、粘り気がなくパサパサした食感で、子供心にも麦ご飯は美味しくないと思ったものです。

夏の思い出の「おかいさん」

今と比べて食料事情が悪かった当時ですが、良い記憶もあります。

開け放たれた扉の向こうでアブラゼミがミーンミーンと鳴く夏の暑い昼下がり、井戸水で冷やした鍋の中に「おかいさん」が入っていて、それを囲んで母や兄姉たちと食事している景色です。

額に汗を浮かべ、キュウリやナスの浅漬けをおかずにして「おかいさん」を夢中にかき込みました。あの時の浅漬けの美味しかったこと!しっかりと満足感もあり、見渡すと家族もお腹いっぱいに食べた幸せな表情をしていました。
  
奈良の茶粥の画像

茶粥とは

「おかいさん」とは私の育った地元の言葉で「お粥」、つまり茶粥のことです。

茶粥とは読んで字のごとくお茶を用いて作られるお粥で、他には豆、芋を入れることもあります。一種の混ぜご飯、炊き込みご飯でもあります。
地域によってほうじ茶、番茶、粉茶など、お茶の種類が異なり、醤油や塩の味付けも異なります。
西日本では一般的な食べ物ですが、特に「奈良茶粥」は古くからよく知られています。

ドラマ「おしん」でも、ご飯に大根を混ぜた大根飯を食べるシーンがありました。
昭和30年代頃までは、日本のほぼ全域で米を節約して食べており、支配階級に属する人や裕福な商人などは別にして、庶民は今日ほど白米を食べられませんでした。そのため、雑穀や野菜などの安く手に入るものを、米と一緒に炊き込んでカサ増しして食べていましたが、茶粥はその活用手段の一種だったようです。

愛すべき「おかいさん」

この茶粥は奈良県の吉野地方では古くから「おかいさん」の愛称で呼ばれ、親しまれていました。
茶粥は和歌山県や三重県の伊賀地方でもよく食べられていたらしいですが、「おかいさん」と呼ばれていたかどうかは分かりません。

食べ物に「おかいさん」とは何とも愛らしい呼び方ですね。
このような呼び方になったのは、「かゆ」に尊称の「お」が付き「おかゆ」となり、更に親しみを込めた「さん」を付けて「おかゆさん」になり、そこから訛って「おかいさん」なったと思われます。

奈良の地で名産品になるほど茶粥が愛されていたことが良くわかります。

東大寺造営の時にも活躍した茶粥

奈良の東大寺の画像

明治政府が編集した百科事典の中に、奈良の農家では1日に4〜5回も茶粥を食べていたと書かれています。
また、遡って8世紀に奈良の大仏が建立された時、人々は粥を食べていたとの記述があります。奈良の大仏は茶粥のパワーで建てられた、と言えそうです。

752年から今日まで続く、東大寺二月堂の法要「お水取り」でも茶粥は登場します。
この伝統的な行事を執り行う僧侶に供される食事に、「あげ茶」や「ごぼ」があります。「あげ茶」とは茶粥を煮て汁を取り除いたもの、「ごぼ」は茶粥の汁の多い部分だそうです。

これらのことを考えると、奈良では1200年以上前から茶粥が食べられていたことになります。まさに奈良(大和)のソウルフードと言えると思います。茶粥はお坊さんから一般庶民に広がったのでしょう。「おかいさん」と茶粥を尊称で呼ぶのは、この辺りの茶粥の成り立ちから来ているのかもしれません。

私の母親が茶粥のことを「ごかいさんしょうにん(ご粥さん上人)」と最上級の尊称で呼ぶことがありましたが、このような歴史の影響と思われます。

江戸に伝わった「奈良茶」

奈良(大和の国)の地で郷土料理となっていた茶粥は、17世紀中ごろに江戸にも伝わったようです。

奈良を訪れた旅人が気に入って江戸に持ち込んだのかもしれません。浅草寺付近で「奈良茶」の呼び名で茶粥を出すお店が多くできたと伝えられています。江戸の地では、奈良の茶粥よりも水分を減らした堅い粥が好まれていたようです。

人々が日本中から集まる江戸で根付いたため、その後、茶粥は全国の各地に伝えられました。大豆などの穀物や様々な野菜や木の実を入れることで手軽な栄養食になり、満腹感を満たしやすかったことから支持されたのでしょう。

お粥事情の色々

お粥はどちらかというと西日本で良く食べられていましたが、北前船の往来があったことから、北陸や東北でも食べられることがあったそうです。

お粥には地方によって様々な特色がありますが、近畿であれば、茶で炊く奈良の「茶粥」、何も入れない京都の「白粥」、泥のように固く炊き上げる大阪河内の「どろ喰い」などがあります。

各地で愛されているお粥ですが、一方で「塩分が多くサラサラして熱い茶粥を食べることが胃がんや食道がんのリスクを高める」という説が唱えられたことがあります。胃がんに関しては医学的根拠を見つけられませんでしたが、茶粥に限らず熱すぎるものを食べると食道に炎症が起きて、食道がんになるリスクはあるようです。

食糧事情の向上や嗜好の変化もあり、現在では以前ほど茶粥は食べられなくなってきているのも事実です。

「入れ茶粥」VS「揚げ茶粥」

奈良県の一般家庭では晒し木綿の袋「ちゃんぶくろ」にほうじ茶を入れて煮出し、冷や飯を入れて煮ることが多いと思います。

前日に炊いた冷やご飯を利用したもので、これを「入れ茶粥」といいます。
一方で、米から炊く茶粥を「揚げ茶粥」といいます。

どちらが美味しいかは人それぞれで何とも言えませんが、個人的には米から炊く「揚げ茶粥」の方が好きでした。「揚げ茶粥」は「入れ茶粥」に比べてよりサラッとしていて食べやすく感じます。
  
茶袋を使った揚げ茶粥の画像

奈良名物「茶粥」の作り方は至って簡単

【1】 「ちゃんぶくろ」(茶粥専用の木綿の袋)にほうじ茶を入れ、水と一緒に鍋で煮出し、きれいなほうじ茶色になったら、袋を取り出す。(あるいは、急須(またはポット)にほうじ茶と熱湯を入れてお茶を淹れる。)
※どちらも、水が少ないとサラッとしないため、たっぷりのほうじ茶を作る。
   

「揚げ茶粥」の場合

【2】 鍋に【1】のほうじ茶と洗ってすぐの白米を投入し、蓋をせずに、煮立つ寸前の火加減で煮る。
【3】 米がふっくらとしたら出来上がり。
【4】 好みで塩を加える。
   

「入れ茶粥」の場合

【2】 鍋に【1】のほうじ茶と冷やご飯を投入し、煮立てば出来上がり。
【3】 好みで塩を加える。
   
「揚げ茶粥」でも「入れ茶粥」でも煮る際は、しゃもじでかき混ぜ過ぎないようにしましょう。混ぜすぎるとドロドロして奈良の茶粥らしく無くなります。
一般には熱いものを食べますが、夏には冷やして食べるのも一興です。

茶粥に合うおかずとしては、食欲のない夏には浅漬けの漬物が最高です。それだけだと栄養が足りないので、卵焼、干物、それに梅干し・塩昆布・佃煮類を付けましょう。汁物以外であれば何でも良いですが、脂っこいものは避けた方がいいでしょう。
   
炊き立ての茶粥の画像

茶粥「おかいさん」の欠点2つ

先ず、茶碗に口を付けて流動性の高いものを掻き込むため、よほど気を付けないと上品さを損なうという点です。

次に、食べた直後の満腹感は高いですが、2〜3時間経つとお腹が空いてきます。これは米を水分でカサ増ししているためで、身体から水分が出ていくと空腹感を覚えます。

後記

私が小さい頃、父親が「茶粥は卑しい食べ物なんかじゃない。あれは高級な食べ物なんだ!」と、言っていました。

大阪生まれで大阪育ちの父親がどうしてそんなことを言うのか、当時はよく分かりませんでしたが、今こうして茶粥の歴史を知ると、歴史好きだった父親の言っていたことがまんざらいい加減な話ではなかったと分かります。

昔、貧しい家では「天井粥」と言って、茶碗に天井が映るような水分の多い粥に仕立てていたと聞いたことがあります。そのためか、どちらかというと貧しさを象徴する食べ物としての認識がありました。
しかし、今では「おかいさん」を口にすると、食べやすく身体に馴染む食べ物だったのだと感じます。奈良育ちではない妻の大好物の一つにもなっています。

食欲が落ちている方は、是非一度お試しあれ!

この記事を書いた人

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青井 三郎
食いしん坊侍のスタッフ青井三郎。
戦後、奈良に生まれて大阪で育つ。6人兄弟の末っ子だったせいか、幼少の頃から食べることへの執着が強い食いしん坊だった。
野球少年だったが読書好きでもあり、日本や世界の文化や歴史に強い興味を持つ。大学時代には世界に触れたい欲求が高じ、1ドル360円の時代ではあったが、ヨーロッパ、南米、アフリカを3か月ほど巡る旅をした。結婚し東京で4人の子供を育て終えると、アメリカ西海岸のポートランドに10年間住む。
現在は、美しい海と温暖な気候に惹かれて沖縄に移り住み、気儘に読書や釣りやゴルフを楽しんでいる。

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