「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」。1966年から30年以上にわたり放送されたテレビ番組「日曜洋画劇場」の解説、とりわけエンディングのこの決めセリフで親しまれた映画評論家の淀川長治(09~98年)。彼が生まれ、38年に上京するまで育った生家は、柳原蛭子神社(神戸市兵庫区西柳原町)のすぐそばにあった。淀川が本紙に寄稿した「わが心の自叙伝」(91~92年)では西柳原を「私を染め上げた(街)」と記している。彼の足跡をたどりながら、この街の盛衰を追った。(西竹唯太朗)
たこ焼きに唐揚げ、カステラ、リンゴあめ…。十日えびすの本宮を迎えた同神社周辺は、300を超える露店が並び、商売繁盛、家内安全を願い参拝する人波であふれていた。
「空襲で焼けるまではこの辺りに商店街があってにぎやかなところやったんやけどね」。柳原出身で東京大学名誉教授の肥前栄一さん(84)は振り返る。
同神社の記念誌には、昭和初期の「柳原商店街」の復元図が掲載され、神社へ向かう通りには、喫茶店や理髪店、精肉店、八百屋など100店舗以上が立ち並んでいる。花街もあり、淀川は、その中にあった芸者置き屋の息子として産声を上げた。
「確かこのあたり。知人がそう言っていた」と肥前さんが教えてくれたのは、淀川の生家があったとされる場所だ。現在の国道2号沿いの北側、今は跡形もなくマンションが建っていた。肥前さんは「花街の雰囲気は今でもかすかに覚えている。夜になるときれいにちょうちんがともって、子どもながらに“ここは別世界だな”と思った」と口にする。
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商店街だった現在の場所を歩いてみた。かつての面影はなく、都会のどこにでもある路地になっている。唯一、当時から残る店舗があった。
うどん店「ちから」。
34年の創業で、神戸空襲で一度は焼けたが、疎開先から戻って来た先代店主が営業を再開させた。先代店主の妻猪師節子さん(81)は「昔はにぎやかなところだったんだけどね」とほほ笑む。
戦争時、同店と同じようにほとんどの店は焼けたが、その後、戻って来て店を復帰させる店主は少なく、商店街は事実上解散となったという。その後も、ほそぼそと続く店もあったが、阪神・淡路大震災がダメ押しとなった。
「ここがにぎわいを取り戻すのは十日えびすの日だけ」。参拝に向かう人波を見つめながら猪師さんはつぶやいた。