8月29日にライブハウス「チキンジョージ」でライブ(チケット完売)をするもんたよしのり=神戸新聞社(撮影・長嶺麻子)

 2021年にデビュー50周年を迎えた神戸市東灘区出身のシンガー・ソングライターもんたよしのり(72)。ライブ活動がストップしたコロナ禍の期間は「普通の年寄りになってしまった」と自嘲するが、大阪の自宅には近所の子どもたちが集まり、毎日一緒に遊んだという。大ヒット曲「ダンシング・オールナイト」の誕生秘話も語ってくれた。(藤森恵一郎)

■近所の子どもと「だるまさんがころんだ」

 -コロナ禍では大変な苦労があったのでは。

 「ライブができひんいうことになって、どてっとなってしまった。そしたら、やっぱり年齢が出てくるやん。決して若くはないからな。自分の人生にとっての武器みたいなもんがなくなった時、普通の年寄りになりだした。俺にとっては音楽がいかに栄養剤やったんかというのが分かった」

 -ほとんど家の中にいたんですか?

 「そうやな。家にスタジオもあるから。コロナ禍の間に近所の子どもたちとは思いっきり遊んだな。ピンポン鳴らして『おっちゃん遊ぼう』って毎日集まってくる。30人や40人。下は幼稚園から上は中学生くらい。俺は、子どもとうまく遊ぶ特技があるみたいやな。メインは『だるまさんがころんだ』やけど、いろんなオリジナルの遊びを考えて。別に子どもを集めて、おれが指導者になるわけじゃなくて、単純に子どもと一緒におるとエネルギーをもらうんやな」

 -一方でライブをしていないことで、ミュージシャンとして危機感を募らせていた。

 「一回離れたら、元に戻ることはものすごい大変。音楽をやれへん自分、音楽に日々立ち向かえへん自分がいて、ものすごい嫌な、情けない自分が出てきた。俺にとって音楽がどういうものなのか、分かりだしたというんかな。だから、そこから目覚めて、音楽に真摯に向かおうと思った。発声から始めて、ありとあらゆる練習方法をああでもない、こうでもないって考えて。ちゃんと歌うには徹底的に練習して、しっかりしたのどを作り続けなあかん。体も鍛えている。若い時には結構サボっていたことをシビアにやらなあかん。それをおもしろいと思える境地になってきているな。だから、新しい自分が出来上がってきた。今、ものすごいフレッシュやねん」

■デビュー50年を迎えて

 -コロナ禍の21年にデビュー50周年を迎えました。

 「激動やった。子どもの時から反抗しまくってきたタイプ。なんか違う、なんか違うという思いが強くて、世の中や家庭で反抗しまくってきた。自分でも『なんで俺こんなに反抗してんねやろ』『なんでこんなに怪しげな道を進もうとするんやろう』と思いながら、ただかすかな信号というんかな、それをずっと伝っていたような気がする」

 「昔は人の価値観、世の中の価値観に乗っかることがすばらしいという時代やった。でも、今はそのうそがばれたというんかな。今の若い子はもうみんなそれに気付いているやん。だから、今の時代の方が自由で、俺は素直に受け入れられる」

■「ダンシング・オールナイト」誕生秘話

 -神戸・三宮にあった「宝石」というダンスホールで、高校生の時に歌っていたそうですね。

 「歌い出したきっかけの場所やな。今考えたらミラーボールがあるくらいで、ほんまになんもない。高校生の時、丸坊主で出入りしていた。隅っこの方でじっと大人が遊んでいる姿を眺めているだけ。でも、それで幸せやった。高校の先輩がバンドをやっていて、欠員が出たから『おまえ歌ってみるか?』と言われて、初めて人前で歌った」

 -1980年、もんたさんが29歳の時にリリースした「ダンシング・オールナイト」が大ヒットしました。「宝石」のイメージが入っているんですか?

 「そうやな。俺の中では実はあんねんけど、それもすごい淡い感覚。聴く側にそれが伝わったかどうかすら分からへん」

 -曲を作っている時に、淡いイメージとして「宝石」のきらびやかな雰囲気などが頭にあったと。

 「それは覚えてないねんけど、当時ヒットメーカーのアレンジャーから、すごいおしゃれな最新のブラスのアレンジがサンプルで上がってきた。でも、それを聴いたら、絶対にこれで歌いたくないと思った。俺にとって『ダンシング-』は(ミュージシャンとして)最後のチャンスやった。自分の証しみたいな1曲を作ろうと思った時に、この曲が最後で終わるんは耐えられへん。だから、徹底抗戦して、もっと古めかしい、キャバレーとかで鳴っていたような響きをやってほしいと要望した。それは、俺の中では『宝石』での淡い思いがあったがゆえやと思う」