第3回 江國香織さん
〔後編〕
アンチドラマなのに豊かな物語性。端的な人物描写。心地よいほうへ、楽しいほうへと向かうものの、人は完全に満ち足りやしないことを知る登場人物が、ふとした瞬間に垣間見せる明るい諦念。人は誰しも相反するものを裡に抱えていることを、江國さんは平易な言葉で物語ってゆく。
自分ではよく覚えていないというものの、ご両親によれば、字を覚える前から、父上(随筆家の江國 滋氏)の原稿用紙に○や△などの印を描き、「これは物語である」といって声に出して読んでいたそうで、その物語体質は生来のものなのだろう。
毎朝2時間のお風呂での読書タイム、移動中はもちろん、人を待っている道端でも、つねに本を読んでいるし、本がないとだめですねと、目の前で話をされている江國さんは、物語の世界からちょっとこちらの世界にやってきたようにも見える。どこか浮世離れしたその雰囲気も、作品のように魅力的だ。
本は決して、安全で害の少ない娯楽、ではない
――エッセイを読んでいると、江國さんの日常は、書くことと読むことで成立していることがうかがえます。
そうですね。『なかなか暮れない夏の夕暮れ』という小説では、本ばかり読んでいる男の人を主人公にしましたけど、本を読むという行為は、他人からはうかがい知れないことじゃないですか。主人公と暮らしている女性が寂しさや不満を感じてしまうのは、本を読んでいるあいだ、彼がそこにいながら、いなくなってしまうからなわけですし。本を読んでいる人は、旅をしている気持ちにもなれるし、現実逃避することもできます。
本ってスポーツみたいに怪我をすることもないので、安全で害の少ない娯楽に見えるけれど、読むことって、周りの人にとってはかなり残酷な行為かもしれません。
――物語は、小さいときからつくっていたのですか。
両親にいわせると、字が書けるようになる前から、父の原稿用紙に記号や印を描いて、「昔むかしあるところに……」って読むという遊びをしていたみたいです。
中学、高校のときは文芸部だったので、詩を書いて、学内の雑誌に載せたりしていました。ただ当時、書いた物語はすべて未完で、最後まで書いたものはなかったですね。話は思いつくけれど、最後まで続かなくて……。
――デビューされた20代前半と現在で、小説との向き合い方に変化はありますか。
書き始めた頃とは、変化があるんじゃないかな。もともと小説を信じてはいましたけど、今は30数年前よりさらに信じるようになっています。最初は不安ですよね。小説がどうなるかも、最後まで書き上げられるかもわからない。今でもそうですけど、書いているあいだ、それがおもしろいものになるかどうか、自分ではわからないし。
でも、その場面場面で選択を間違えなければ、必ず正しい場所に行き着くことはできる。そう思えるようになったことが、最初の頃との違いかもしれません。
子どもの頃から、現実よりも言葉を信じていた
――江國さんはインタビューなどで、現実よりも言葉を信じると言っていらっしゃいます。
それはしょっちゅう言っています(笑)。ちょっと変わっているかもしれないけれど、これも子どもの頃からです。
私はお菓子の箱に書かれた文章――サクッとしたビスケット、とろっとしたクリーム、芳醇なカカオの風味――とかを読むのが大好きだったんです。でも、実際に食べてみると、言葉から想像したほどおいしくはなくて。食べるよりも読むほうがおいしいと思っていたので、お菓子よりもお菓子の説明のほうが好きでした。
――とても江國さんらしい話ですね。
少し前に翻訳したトレヴェニアンの『パールストリートのクレイジー女たち』という小説で、主人公の少年がコーヒーを挽売りしているお店に行くシーンがあるんです。少年の家は貧しいので、いちばん安いコーヒーしか買えないのだけれど、店にはすごく高いコーヒーもある。それはすごくいい匂いがするので、彼は子どもながらにそのコーヒーはどんなにおいしいか、想像していました。でも長じた彼は、豆を挽いたときの香りほどおいしいコーヒーはこの世に存在しないというんです。その感覚はすごくわかるなと思いました。
いつの間にか、テレビのつけ方がわからなくなっていた
――話は飛びますが、以前、エッセイでテレビのつけ方がわからない、と書かれているのを読んだのですが。
今でもわかりません、というかもう無理ですね。それが何年前のことかさえわからないけれど、あるとき気づいたら、テレビのリモコンが4個になって、ビデオデッキもなくなっていて。
今は1チャンネルがNHK総合、3がNHK教育、4が日本テレビで6がTBS、8がフジテレビ……ではなくて、チャンネルが何十もあるので、もう絶対わからないです。
――スマートフォンやパソコンを使い、インターネットでいろいろ検索するということは……。
ないですね。原稿も手書きですし、極めてアナログな生活です。でも、周りにいろいろ教えてくれる人がいるんです。たとえば夫は、私があまりにも大きなニュースを知らないでいると恥ずかしいと思うようで、今回のウイルスのことなどを教えてくれるし、スポーツ関係のことは妹が教えてくれます。
夜はよく飲みに行くんですけど、そこのバーテンダーさんや、よく会う常連の人も、いろいろ話してくれるので、インターネットを使えず、テレビをほとんど見ないわりには、そう知らないわけではないと思います。
――江國さんの小説からは、情報とは対極の感触を受け取っていたのですが、今の話をうかがってなるほどと納得しました。
それはすごく嬉しいです。私は、情報と物語は全然違うものだと思っているので。情報は使い捨てられていくものなので、古くなると、あまり意味がなくなってしまうけれど、物語はもっと本質的なものではないか、と。
ただ、私にとって情報は物珍しいものなので、この小説でもそうですけど、たまたま小耳に挟んだことや、ニュースで聞いたことなどを、わりとすぐ書いたりするんです。