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時代の正体〈106〉横浜大空襲70年(上)「人道への罪」に補償 

社会 | 神奈川新聞 | 2015年5月29日(金) 10:32

横浜大空襲で焼け野原となった横浜市中心部。現在の桜木町駅周辺から根岸方面を臨む。中央部を右から左に流れるのは大岡川。撮影は1945年6月(横浜市史資料室提供)
横浜大空襲で焼け野原となった横浜市中心部。現在の桜木町駅周辺から根岸方面を臨む。中央部を右から左に流れるのは大岡川。撮影は1945年6月(横浜市史資料室提供)

 焼け野原の向こう、12歳だった城森満さん(82)=横浜市都筑区=が南の空に立ち上る黒煙を目にしたのは1945年5月29日の午前のことだった。

 2カ月半余り前の3月10日、東京大空襲で父と母、弟を失った少年は絶望に立ち尽くす。

 「どす黒い空を見て、横浜も火に包まれているのだなと思った。また人が死んだのだと思った。あのときの空襲もひどかった。ひどいことが日本中で起きている、と恐ろしかった」

 それから70年。降り積もった憤りが口を突く。

 「横浜大空襲もそう。空襲で犠牲になったのは女性や子ども、お年寄りばかり。民間人を狙った無差別攻撃は当時の国際法でも許されていないはずだ」

 国に賠償を求めて集団訴訟を起こしたのは2007年。旧軍人や原爆被害者には援助や補償があるのに、空襲被害者の救済措置はない。それは憲法が定める「法の下の平等」に反するという訴えだった。原告団副団長を務め、しかし、13年の最高裁で敗訴が確定。

 「戦争が終わっても孤児である私には誰も助けの手を差し伸べてくれなかった。私の人生は置き去りの70年。救済されないまま、戦争孤児はいつまでたっても流民なのか、棄民なのか」

張り詰めた心

 両親、弟の遺体は見つからず、10歳の妹、7歳の弟と一緒に親戚に引き取られた。おじからは3人が自宅近くの橋の上で炎に巻かれ、息絶えたと聞いた。

 「最愛の家族を失い、生きていても死んだような思いだった」

 東京・調布の親戚宅での生活は辛苦に満ちていた。牛の世話や畑の手伝いで忙しく、休む間もなかった。

 「邪魔者扱い。それでも世話になっているから、文句の一つも言えなかった」

 夏の暑い日、帽子もかぶらずに田んぼで作業をしていてふらふらになった。おばは言った。「家に戻してもらえるだけありがたいと思え。普通なら使いつぶされるんだよ」。言葉が心に突き刺さった。

 「でも、負けてたまるか、と。私の心にはバネがあったから」


空襲被害者の補償を求めて活動する城森満さん =横浜市都筑区の自宅
空襲被害者の補償を求めて活動する城森満さん =横浜市都筑区の自宅


 15歳で住み込みの仕事を始めた。会社勤めをしながら金をため、定時制高校、夜間大学へ進んだ。支えとなったのが弁護士だった父の口癖。「学ばざる者、禽獣(きんじゅう)に近し」。結婚し、家族を養うため、必死で働いた。

 張り詰めた心のバネを緩め、孤児として生きてきた痛みに向き合えたのは、72歳になってから。同級生から空襲被害者の集団訴訟の準備が始まっていると聞いた。

 集まりに足を運ぶと自分よりつらい経験をした人がたくさんいた。家族が目の前で火にのみ込まれた人、黒焦げの死体を踏み越えて難を逃れた人。手足を失い、大やけどを負った人。野宿生活を余儀なくされた人。みな、悔しさを涙ながらに語った。自分も黙っているのはやめた。

危機感支えに

 米軍による無差別爆撃は東京、大阪、名古屋、神戸、横浜だけでなく地方都市にも及び、犠牲者は全国で少なくとも40万人以上とされる。だが、調査が行われなかったため正確な数は不明なままだ。

 やはり国の賠償を求めた名古屋訴訟の最高裁判決では、「戦争で受けた損害を国民は等しく受忍しなければならない」とする受忍論で訴えを退けた。

 神奈川県内でも補償を求める声は古くから上がっていた。1976年に民間人戦傷者による「県戦災傷害者の会」が発足。70年代、同様の組織は全国で立ち上がったが、国が耳を傾けることはなかった。

 「民間人に対する無差別爆撃は人道への罪だ」との訴えをはね返し続ける政治と司法の壁。それでも城森さんは諦めない。

 「空襲被害の様相はどこも変わらない。B29の数は東京が325機、横浜が517機で、爆弾が落ちた時間も違うが、地上は同じような地獄だった。どの都市の空襲被害者も高齢化が進み、活動は大変になっている。だから、どこの空襲被害者でも一様に救済される法律の制定を目指したい」

 持病を抱え、体調が優れない日も多くなった。それでも背中を押す原動力がある。

 集団的自衛権の行使容認に新たな安全保障法制と、積極的平和主義を掲げて専守防衛の歩みを大転換させようとする安倍晋三首相の存在だ。

 「自衛隊を『わが軍』と呼ぶ首相を見ていると戦争が近づいていると感じる。再び戦争によって私たちのような被害者を生み出すのかと黙っていられなくなった」

 城森さんは若い人に戦争の実相を知ってもらおうと体験を記した著書「狭い門 未来は、あなた達のもの」(文芸社刊)を4月に出版した。

 同世代の空襲被害者と顔を合わせると「子や孫に殺し合いをさせるのは絶対に許せない」「戦争は殺し合いだと分かっているのか」といった言葉を交わす。

 残された時間の少なさは悟っている。だから戦後70年を迎えた今年を「決戦の年」と位置付ける。

 「戦争で親を失う苦しみを味わう子どもは、私たちで最後にしたい」

 市街地への無差別爆撃で多くの犠牲を出した横浜大空襲。救済は果たされぬままなのか。70年の節目に考える。

 

◆横浜大空襲 1945年5月29日午前9時20分ごろから約1時間、米軍のB29爆撃機517機が中、南、西、神奈川区を中心に約39万2千発の焼夷(しょうい)弾を横浜市街地に投下。県の当時の調査によると3649人が死亡し、負傷者1万人超。死傷者はさらに多かったとみられており、市内の空襲では最大の被害となった。

 
 

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