相模湾を襲った津波はどのようなものだったのか。死者・不明者が10万5千人を超えた1923年9月1日の関東大震災で、被害の主因となった大火や家屋の倒壊に埋もれがちな津波の実相に迫る試みがいまも続いている。とりわけ大きな被害が出ていながら、痕跡調査の成果が上がっていない鎌倉では、紙一重で生き延びた人々の証言や手記が津波をたどる手掛かりになる。浮かび上がるのは、かつての苦い教訓が語り継がれてこなかった歴史と、だからこそ伝えなければという体験者の思いだ。
昨年末、震災の津波を知る一人の古老が他界した。大仏のある鎌倉市長谷に住まいを構えていた石渡弘雄(享年103)。昨年の誕生日に合わせて発行した回想録に自らの被災体験をつづった理由をこう語っていた。
「津波の怖さは体験した人でないと分からない。だから記録に残し、伝えていかなければ。いつか必ず津波はまた来るのだから」
鎌倉小学校(現鎌倉市立第一小学校)の6年生だった。2学期の始業式を終えてわが家に帰り、家族で昼食を囲んでいたときに猛烈な揺れに見舞われた。
「いきなりドカンと突き上げられた。父も母も歩けず、3人で家の中をはいずり回った」
周囲の家々が軒並みつぶれ、火事を知らせる半鐘が打ち鳴らされる中、慌てふためいて走っていく人がいた。「津波が来るぞ-っ」
「逃げなさい」という母にせかされて近くの神社へ向かうと、火事や津波から逃れてきた人々で一帯は立すいの余地もない。しばらくやり過ごすと母のことが心配になり、家へ戻ったとき、稲瀬川付近を遡上してきた津波がつぶれた家々を巻き込みながら押し寄せてきた。ごう音とともに目前に迫る黒々とした海水。江ノ電線(現江ノ電)の線路の辺りでどうにか止まり、のみ込まれはしなかったものの、「津波の恐ろしさをそのとき初めて知った」。
命拾いした理由をこう振り返っていた。「江ノ電の線路が盛り土の上にあって高くなっていた。それがなければ、わが家ものみ込まれていたかもれない」
■裏付け
石渡の証言は、相模湾に押し寄せた津波の解明を目指している県温泉地学研究所主任研究員、萬年一剛(43)の分析に重なる。震災90年の節目となった2013年にまとめた論文にこう書いた。
〈江ノ島電鉄の由比ケ浜の停留所に津波が到達したことは、中村菊三の手記「大正鎌倉餘話(よわ)」からも確認できた〉
当時の鎌倉町の被害状況を収めた「鎌倉震災誌」や津波来襲後の写真などを判読し、地形や標高との関係から津波の到達地点を探った萬年はこう結論付ける。「稲瀬川付近では海から300メートルぐらいの地点まで浸水した。津波の高さは7メートルぐらいだったのではないか。東日本大震災で東北に押し寄せたような巨大津波では決してなかったはずだ」
大仏の脇で実施した津波堆積物調査でも痕跡の発見には至っておらず、文献を中心とした調査を図らずも裏付けている。
神奈川県内に残る震災の慰霊碑や教訓を伝える石碑を探り続けている名古屋大教授の武村雅之(62)も同じような見方だ。「鎌倉はとにかく火災や揺れの被害がひどかった。それらに比べれば、津波の被害は大きくなかった、ということなのだろう」。昨年12月と今年1月に鎌倉を訪ね歩いたものの、津波の状況を刻んだ碑はついに見つからなかった。
■砂浜へ
それでも「鎌倉で津波の影響を受けた人は多かったに違いない」と鎌倉市中央図書館近代史資料室の平田恵美は言う。書き残された体験記や回想録に丹念に目を通し、一つの事実に気付いた。「浜へ逃げた人が多い」
〈おやじが浜へでろって言うから海岸に出たんだ。そこには漁師の船があって船に乗ってたんだ。浜だから地割れがないって〉
〈橋を渡って海辺へ出たんですが、砂浜は避難した人で一杯でしたよ。そのうち、誰かが『津波だ!』とどなりましてね〉
〈壊れた家の中を四つん這いになって浜へ行った。浜にいた人は、地割れが怖いので舟に乗った〉
震災90年の節目に集め始めたこれらの記録は70点を超え、80人以上が被災体験や伝え聞いた当時の状況をつづっていた。3月中にも「鎌倉震災手記」として1冊にまとめ、いまを生きる人が手にとって教訓を学べるよう図書館での公開を考えている。
「津波が押し寄せてきた時間など正確なことは分からないが、その瞬間にどうしたか、どう思ったかが読み取れる」。平田は生前に交流のあった石渡の回想録も「震災手記」に収録するつもりだ。
〈三百年以上も前の江戸時代元禄の頃にも鎌倉を襲った大地震や津波があったようですが、関東大地震が起きた当時は自然災害に対して備えるような防災意識は全くありませんでした。何十年を経るだけで、人は過去の災害を忘れてしまうようです〉
最も新しい震災記録となるその本で、思いをつづっていた石渡は警鐘も鳴らしていた。
〈過去の地震を教訓にして将来起きるかも知れない地震に備えることを忘れてはならないのです〉 =敬称略
【神奈川新聞】