特集:鹿島本社ビル&鹿島赤坂別館が竣工

本社の変遷

 初代・鹿島岩吉が天保11(1840)年に,棟梁として江戸中橋正木町(現在の中央区京橋1丁目)に「大岩」の名で店を構えた。
 二代・鹿島岩蔵は,明治初頭に横浜・境町(現在の横浜市中区) に店を移し,社名を「鹿島方」に改称。明治13(1880)年,鉄道土木への転進を機に社名を「鹿島組」とし,本拠地を京橋区木挽町(現在の中央区銀座8丁目)に移転した。大正12(1923)年,関東大震災により事務所を焼失。翌年,同じ場所にバラック建ての建物を急造した。
 昭和4(1929)年,震災後の区画整理により,南大工町(現在の中央区八重洲)に鉄筋コンクリート4階建ての新本社ビルを建設し移転した。現在の八重洲ブックセンターが建つ場所である。昭和20(1945)年,東京大空襲で本社ビルを焼失。終戦と同時に本社ビルを復旧し,昭和22(1947)年,社名を「鹿島建設株式会社」と改めた。
 本社機構の拡大で,新本社ビル建設の機運が高まり,昭和43(1968)年,赤坂見附に本社ビルを建設した。そして今年,新本社ビルと赤坂別館の完成により,本社機構を集約・再配置。鹿島新時代がスタートした。
旧本社ビル1棟完成時(1968年) 旧本社ビル1,2,3棟近影
旧本社ビル1,2棟建設工事事務所長を務めた内野邦夫さん
内野邦夫さん 梅雨の中休みの7月中旬,1時間半をかけて,1,2棟の内部をじっくりと見た。1993年に鹿島を退職。現在は(株)佐藤秀の相談役を務めている。1棟の1階玄関ホールから2階レセプションロビーにつながる広い空間,1階おきにスキップする基準階のエレベータホールの吹抜け,そして中央の階段でつながれた最高相談役室や故名誉会長の部屋などの首脳フロア・・・。その一つひとつに思い入れがあり,愛着がある。
 「完成から39年で取り壊されるとは思いませんでした。個人としては残しておきたい,残っていてほしい,そんな気持ちで一杯です」。引越し準備が進む室内に目を遣りながら,複雑な感情を抑えきれなかった。

 1964年,霞が関ビルの施工に先立ち,ロサンゼルスとニューヨークで,高層ビルの施工技術を学んだ。アメリカの建設会社は研修を認めてくれない。1人の社員として働きながら技術を習得するのだ。
 翌年帰国。霞が関ビルの建設に携わった後,その年の秋,赤坂見附に土地を取得した本社ビル建設の大役が舞い込んだ。当時33歳。「うれしかった」。本社ビルを担当させてもらう光栄を素直に喜んだ。最高相談役が指揮を執り,岡田新一氏が設計を担当した。責任は重大だが,これほどやり甲斐のある仕事もない。「最高相談役には,思い切って,自分の考える通りにやりなさいと励まされました」。
 17階建ての1棟完成に続いて20階建ての2棟も担当した。アメリカでの1年間の苦労が活きた。
 白亜のツインタワーが完成した時は「みんなに気に入ってもらえるか不安もあった。新しいことも随分取り入れましたから」。自在の吹き抜け空間,打ち放しのコンクリート,敢えて化粧をせずにそのまま使用した素材・・・。直裁簡明で雄渾な建築を目指した。「建築の質を決定するものは空間であって,材料や収まりはそれを支える技術として重要である」。それがコンセプトだった。

 旧本社ビルのデザインコンセプトは,新たな機能を加味しながら,新しい本社ビルや赤坂別館に受け継がれていく。「私たちの仕事の誇りは,それが形として残っているということ。ですから,なくなってしまうのは寂しい」といいつつ,こうもいう。「このビルが一つの歴史を作ってきたのは間違いありません。39年も多くの人に使われ,次代へ引き継いだのですから」。
 1,2棟はこの秋にも取り壊される予定という。「解体する時? ええ見に行きますよ。みんな手塩にかけて作り上げた建物です。この目で見届けてあげなければ」。

 第一線を退いてから,自分が手掛けた施工物件を見に行くのを楽しみにしている。1978年竣工のドイツの国際貿易センタービルや,1964年にアメリカ・サンディエゴのシーワールドに造った日本建築は,いまもそのままに残っている。1,2棟を見て廻ったあと,内野さんはベルリンやライプツィヒなどへ自らの軌跡を辿る旅に出た。

 新しい本社ビルの完成に寄せて
 コンセプト―次世代ワークプレイスの追求
 適用されている環境設備の新技術
 こうして行われた大規模な移転
 本社の変遷