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元「おニャン子」が大学で教える家族介護 新田恵利さん、6年半の経験語る【時事ドットコム取材班】

2023年10月01日08時00分

 デビュー曲「セーラー服を脱がさないで」で1980年代に社会現象を起こしたアイドルグループ「おニャン子クラブ」の元メンバーで、「冬のオペラグラス」でソロデビューも果たした作家でタレントの新田恵利さん(55)が今年4月、淑徳大学総合福祉学部(千葉市)の客員教授に就いた。学生たちに教えているのは、高齢になって寝たきりとなり、認知症が進行した母親を自宅でみとった体験を元にした家族介護の実態だ。「私の介護に悔いはない」。そう言い切る新田さんの講義に記者も耳を傾けた。(時事ドットコム編集部 横山晃嗣) 

【時事コム取材班】

突然の介護生活 

 「100人いれば100通りの介護がある。私の介護(の経験)を聞いて、何かを感じ取ってもらえたら」。

 8月上旬、淑徳大千葉キャンパスのオープンキャンパスで開かれた模擬授業の冒頭、新田さんはそう切り出し、2021年3月、92歳で亡くなった母ひで子さんの6年半に及んだ介護生活について語り始めた。

 新田さんにとって、介護生活は突然だった。14年9月、85歳だったひで子さんが腰椎を圧迫骨折。3週間入院し、退院した時には一人で立ち上がることができなくなっていた。自宅で迎えた3歳年上の兄に、新田さんは動揺して叫んだ。「お兄ちゃん、ママが歩けなくなってる!」。 

 当時、新田さんは46歳。初主演の舞台公演を終えたばかりで、テレビ出演など芸能活動で忙しく過ごしていた時期だった。新田さん夫婦と神奈川県内にある二世帯住宅に住んでいたひで子さんは、骨粗しょう症で圧迫骨折を繰り返していたが、入院するまでは一人で階段を上り下りでき、愛犬をかわいがりながら過ごしていた。しかし、入院生活から戻ったときは羽毛布団の重さで寝返りが打てないほど筋力が落ちていた。

 「介護」なんだ。それまで人ごとだったその二文字が、突如現実のものとなった。 

介護生活をブログで発信

 ひで子さんは、常時介護が必要な要介護4と認定された。2番目に重度で、対応できるデイサービスが自宅周辺になかったため、新田さんは在宅で介護することを決意。介護の知識も心構えも全くなく、一人でトイレに行くこともできなくなった母をどう助けたらいいかも分からない中で介護生活は始まった。

 新田さんは、すぐに役所の福祉担当部署に相談に向かい、どんな支援が受けられるのかを相談した。チラシを渡され、案内されたのは地域包括支援センター。電話すると、すぐにスタッフが自宅に駆けつけ、大人用オムツの換え方などを教えてくれた。「大変ですね、でも大丈夫ですよ」。スタッフから掛けられた温かい言葉が今も印象に残っている。

 ケアマネジャーとの相談も始まり、訪問看護やリハビリ、入浴介助などの日程を調整していく。介護に協力するため、新田さんの3歳上の兄も二世帯住居に住み始め、朝と夜は新田さん、昼間は兄がひで子さんの世話をし、夜、新田さんが帰宅するタイミングで交代した。

 新田さんは、介護生活が始まったその日から、公式ブログで日々の出来事や思いを赤裸々につづって公表した。同じく介護に取り組む人から「私も頑張る」といったコメントが寄せられ、うれしく感じるとともに、新田さん自身も勇気づけられたという。 

おニャン子のころ、支えた母

 在宅介護を続けるうちにひで子さんには認知症の症状も少しずつ表れた。何度も同じ事を尋ねるようになり、新田さんが忙しいときも話し相手をしなければいけない。お互いに不満がたまり、けんか寸前になったときも。

 そんなとき、寝たきりで動けないひで子さんは歯を食いしばって横を向き、じっと耐える。そんな母の姿を見て、新田さんは「逃げられない母を追い詰めてはいけない。けんかしてはダメだ」と心に決めた。 

 ストレスがたまったとき、新田さんは愛犬に「どうしよう、あのクソババ」などと愚痴をこぼし、なんとかしのいだ。介護を頑張れたのは、芸能界に入って間もない10代のころ、身をていしてでも自分を守ってくれた母の姿が脳裏に焼き付いていたからだ。 

 新田さんは1985年4月、フジテレビのバラエティー番組「夕やけニャンニャン」から生まれたおニャン子クラブの一員として17歳で芸能界入りし、翌年にはソロデビューした。ひで子さんはそんな娘を支え、自宅周辺に押し掛けた熱狂的なファンの車やバイクの前に立ちはだかり、けがをすることさえあった。 

 新田さんの父、彦太郎さんはソロデビュー直前の85年12月に73歳で急逝した。十分に親孝行できなかったという後悔があり、新田さんはひで子さんにはより一層の恩返しをしたいとの思いもあった。 

「介護に後悔はない」

 ひで子さんは骨粗しょう症が進行し、くしゃみや咳をしただけでも圧迫骨折を起こすようになった。入院しても痛みのせいか食べることもできなくなり衰弱していく。「延命はせず最期は自宅で迎えたい」。元気な頃のひで子さんは新田さんにそんな希望を伝えていた。2020年8月、新田さん家族は病院ではなく自宅でみとることを決めた。 

 「何食べたい?」。退院の日、そう尋ねると、「ちらし(ずし)が食べたい」との答えが返ってきた。衰弱していたひで子さんだったが、好物の中トロとホタテは食べることができた。 

 11月16日に92歳の誕生日を迎え、年末年始には年越しそばやおせちも少しだけ食べたが、2月ごろからはほとんど食べなくなり、会話も単語だけになっていった。21年3月23日、ひで子さんは新田さんたちに見守られ、老衰のため亡くなった。

 「あ、あ、あ」。亡くなる数時間前、ひで子さんはそばにいた新田さんと兄を見て、声を絞り出した。「死ぬときは必ず『ありがとう』と言って死ぬからね」。新田さんはそんな母の言葉を思い出し、「お母さんは約束を守ってくれた」と感じた。 

 みとった後、新田さんは手作りのウエディングドレスをひで子さんに着せた。生前、「最期に何を着るの?」と聞いた際に、「ウエディングドレスを着てみたい」と話していたからだ。戦中、戦後に青春時代を送ったひで子さんには憧れだったのかもしれない。ドレスは、生きている間に完成させることもできた。しかし、完成してしまえば早く亡くなってしまうかもしれない、そんな考えも頭をよぎり中断していたという。

 「私の介護に悔いはない。でも、ウエディングドレスはもっと早く作っておけば良かった。きっと母は喜んでくれたはずだから」。新田さんは介護の日々をそう振り返る。 

「言いふらし介護」の大切さ

 ひで子さんを介護する中、新田さんは在宅介護の経験について各地で講演する活動も始めていた。21年9月には著書「悔いなし介護」(主婦の友社)を出版。淑徳大の客員教授就任は同大の結城康博教授(介護福祉論)に声を掛けられたのがきっかけだ。

 結城教授は「介護職員やケアマネジャーの視点だけではなく、家族の視点から福祉を見ることは大事なこと。家族と利用者の微妙なすれ違いや共通点を教員が教えるには限界がある」と語る。家族介護の経験を持つ新田さんが教壇に立つことで、福祉を学ぶ学生の学びにプラスになることを期待している。 

 新田さんが活動を通じて最も訴えたいと語ったのは、ひで子さんとの日々で痛感した、介護を隠すのではなく、周囲に広く伝えていく「言いふらし介護」の大切さだ。「介護を一人で抱え込むことは絶対によくない」と新田さん。「オープンにすることで情報も入ってくるし、味方になってくれる人も現れる」。近所の人が知っていれば、災害のときに助けてもらえるかもしれない。ブログを書き続けたことも、ストレスをため込まない大切な習慣になったようだ。

 新田さんは「親と子どもだけの核家族が多く、学生に在宅介護の話をしても初めて聞くという人ばかりだ」と話す。「介護の仕事に就かなくても、親がいれば必ず直面する問題なので、いつか自分の親が老いたとき、私の話をちょっとでも思い出してくれたら」と学生と向き合っていくつもりだ。

ケアする家族のケアを 

 総務省の人口推計によると、日本は10人に1人が80歳以上という社会だ。新田さんに介護に必要な対策について尋ねると「デイサービスなどで働く介護従事者の賃金をもっと上げるべき」と語り、「ケアする家族のケア」を手厚くすることを訴えた。例えば、介護保険が適用されるマッサージなどのサービスについて「介護される人だけでなく、介護する家族も料金割引を受けられるようにしてほしい」。

 社会に定着しつつある育児休暇と同じように、介護休暇を取得しやすい社会になることも願っている。「高齢者だって子どもと同じように朝になって突然、熱を出することがある。一人で病院に行けないのも一緒」と思いは切実だ。

 今春、夫であり、個人事務所の社長でもある長山雅之さん(54)の悪性リンパ腫が発覚した。新田さんは今度は夫を支えながら、これからも介護の体験を語る活動を続けていくつもりだ。

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