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星野仙一さんが2015年に振り返った野球人生

2023年01月05日12時30分

生前のインタビュー再録

 プロ野球で選手、監督として大きな足跡を残した星野仙一さんが、2018年1月4日に70歳で亡くなって5年の年月が流れた。中日一筋の現役時代はエースとして打倒巨人に燃え、中日、阪神、楽天を率いた監督時代は「闘将」として抜群の存在感を放った。
 14年限りで楽天監督を退任。楽天球団シニアアドバイザー(SA)だった15年7月に東京都内で行った単独インタビューの主な一問一答を改めて記事化し、星野さんのドラマチックな野球人生を振り返る。
 (敬称略、肩書は当時)(時事通信運動部 佐々木和則)

 ―長いプロ野球の歴史をたどると、星野さんの名前はたくさん出てくる。巨人のV10を阻止した中日の投手時代に始まり、戦後生まれ初のプロ野球監督(当時39歳)、投手出身かつ戦後生まれで初の1000勝監督。いっぱい出てくる。
 そう言われてみればそうやなあ。

答えは自分で出していった

 ―ご自身は200勝できなかったのだから二流投手と言うが、周りから見れば一流投手。監督として見れば超一流だと思う。記憶に残る優勝がある。03年阪神の優勝、13年楽天初の日本一。ドラマがある。どうして自称二流の投手が、監督として超一流になれたのか。
 オーナーに恵まれた。中日の加藤(巳一郎)さん、阪神の久万(俊二郎)さん、楽天の三木谷(浩史)さん。それに尽きる。まず、それが恵まれた。好きにさせてもらった。それがあるかなあ。でも、それは後々の話で、野球が大好き、単純なこと。俺が生まれた時はスポーツとしては野球しかない。あって相撲。相撲も好きだったが、相撲取りには向いてない。ひょんなことで野球に携わってきたというか。何なんだろうなあ。

 ―全部、自分で決めてきた道と著書に書いてあった。
 そう。高校(岡山・倉敷商)も最後は全部、自分で決めたな。そこまで熟慮して、答えは自分で出したな。やっぱり、自分の人生。いろんな人に相談するような悩みも迷いもあるだろう。でも最後の最後は人に押されてではなく、ここだと思って、自分で。自分の人生、責任を持てるじゃない。
 先生がこう言ったとか、逃げ道をつくらずに。最後は自分で決めたということは、監督というのもそうでしょ。コーチが進言して「大丈夫かよ」と言って投手を交代させた。「投手コーチがいい」と言うから出した、という監督がいるが、それは監督じゃないと思う。審判に告げるのは俺。その時点では俺の責任。打たれようが抑えようが、抑えたら、あいつがヒーローと言えるが、打たれた時は俺が決めたんだから、自分の責任。最終的には自分。プロセスはいろいろあるが、最後に決めた答えは自分の責任というのは、常々、若い頃から持っていた。

人間が好きだった

 ―周りの人、選手に恵まれた。
 人間に恵まれた。周りの人間に恵まれた。それはどっから来るかというと、そういうことも含めて、俺は人間が好きだった。俺は嫌いな人はあんまりいない。瞬間瞬間は嫌いでも、嫌なやつだな、と思っても、長続きしないというのが俺の特徴かな。生きざまだな。生きざまが、周りの人にマッチしている、時代にマッチしている、業界にマッチしている、しているじゃなくて、した。じゃないかな。いつも言うように、努力はしてないし、特別いい成績を挙げたわけじゃないし、今、そうやって言われると、大したもんだなあ、と思うこともあるけど、それはプライドは持っているが、それをどうのこうのという、ひけらかすというのも、大したことないじゃないか、という感覚で自分自身を見ているなあ。
 周りがすごい人だ、すごい人だと言うけど、本人は思ってないから、こんな格好(ジャージー)でのれんくぐって飯を食ったり、ギョーザを食ったりしている。みんなはそうじゃない、キチンとして、マナーを守るけど。一杯飲み屋にネクタイしていく必要はねえじゃねえか。庶民的な感覚も、持ち合わせているし、そのシチュエーション、シチュエーションで自分を合わせることができるというか。
 その教育はやっぱり、明治大学野球部だったなあ。監督の島岡(吉郎)さんだったなあ。それから、遠征の時は必ず上着を着て、ネクタイをしなさい、と言ったのが中日入団1年目の時の監督だった水原(茂)さんだったなあ。そういう指導者にも恵まれて、監督になってからは、ウォーリー(与那嶺要さん)の浪速節とアメリカの合理性を学んだし、川上(哲治)さんの勝負の厳しさ、監督の厳しさ、というものを学んだし、藤田(元司)さんの情も学んだし、ま、俺の周りにはお手本が、監督になってからは、特にお手本がいた。

伊良部起用は「ローテ通り」

 ―藤田さんの情で思いつくことがある。王貞治監督のダイエーと争った03年日本シリーズ第6戦、伊良部(秀輝)の先発起用が最たるものでは。先発した第2戦で打たれて大敗(0-13)した。ローテーション通りと言えばそうだが、「今年の優勝は伊良部がいたから」とおっしゃった。伊良部は意気に感じたのでは。
 その時は「星野、何やってんだ」というかもしれないが、伊良部、(11年に)死んじゃったけど、死ぬ1カ月前ぐらいに、「どうしてあの時、僕を使ったんですか」という電話があった。その本心を知りたいというような電話があった。

 ―何とおっしゃったのか。
 ローテ通り、だと。お前がいたから日本シリーズに出られた、と伝えた。特別な意図はないよ、と。それで負けたら負けたでいい、との覚悟はあった。(結果、伊良部は序盤で途中降板して敗戦投手に。ダイエーに逆王手をかけられ、阪神は第7戦を落として日本一ならず)いろいろ言われるよ。でもその瞬間、その瞬間は黒と出ても、長い間の自分の人生を見ると、黒は白に変わる。長い目で見ると、ここまで生きてくると。そういうつながりがあって、今がある。

重かった日の丸

 ―08年北京五輪では日本代表を率いた。
 俺は俺なりに日の丸を背負って、日の丸を背負うことはどんなものか、(04年アテネ五輪代表監督の)ミスター(長嶋茂雄さん)が「仙、日の丸って重いよなあー、プレッシャーだよ」と。俺は日の丸背負ったことないから、「ミスター、何言っているんですか。ミスターがプレッシャーなんか、似合いませんよ」という答えを返したが、(北京五輪で)自分が実際に背負ってみて、楽しかったし、(メダルなしに終わって)悔しかったけども楽しかったし、日本に帰ってからの方が(猛烈なバッシングを受けて)悔しかったし、腹立たしかったけど、あー、なるほどなー、世の中はこんなもんだと、改めて世の中のことが分かったし、人間というものが分かった。

再び野球がやりたくなった

 自分の人生、楽天行く時なんか、評論家として、阪神SD(シニアディレクター)として収入も名声もあるし、と言われた。友だちが100人中100人がそう言った。選手もほとんど知らなかった。その時に俺の中での答えは「野球がやりたくなった」。もう単純そのものだった。生活とか経済とか、友だち関係とか大満足だよ。そこからはみ出ることはないが、そこに野球がやりたくなった。そこにオファーが来た。ということだけなんだよ。
 そして楽天監督1年目の開幕前、11年3月11日に東日本大震災が起きた。あの被災者たちを見た。こりゃあ、何とかしないといかん、と思った。野球を絡めたプレッシャーがあった。見とけー、喜ばしたるから、と。冷静に見るとこの戦力じゃあ、無理だなあ、と。その闘いだったな。(優勝は)3年目だからな。これは大成功だし、でもそれも3年目に日本一、楽天創設9年目。よう考えてみたら、何だろうこれは、と。不思議なものがいっぱいあったんだよ、東北に。

ものすごい運、東北に舞い降りた

 いやあ、われわれだけの力で勝てるわけないよ、この戦力で。いくら俺が(中日と阪神で)就任2年目の時に優勝させても、このチームがまさか、勝てるわけない。冷静に後から振り返った。何なんだろう。もちろん選手も頑張った、球団も頑張った。親会社も頑張った、俺たちも頑張ったというのがあるけども、東北、そんなことを言うのはおかしいけども、何かが、こう、舞い降りてきたというか、ものすごい運というのが、東北に、特にわれわれ、楽天に降りてきた気がしてしょうがない。仏様も神様も、縁起も担ぐタイプじゃないのに、今でも答えが出てこない。出てこなくていいんだけど。不思議というのは、世界の七不思議どころじゃないぞ。夢見てるんじゃないかと。夢もこんなに微に入り細に入り見るかなあ、今でも、あんなこと、本当にあったんだあ。ビデオ見るたびに、あったんだあ、と。
 俺の運は全部、楽天イーグルスで使い果たしたんじゃないかと。後は何かあったら、おかしいんじゃないかと。まともな死に方はしない。いいな、この年まで生きたから。不思議という言葉を通り越してるな、アン・ビリーバブルを飛び越している。不思議な力が舞い降りたな。やっぱり、(高倉)健さんの映画、八甲田山で、「天はわれわれを見放した」というのと逆だよな。その逆が、われわれには降りてきたなあ。だから、俺がやったんだ、俺の力というのは全くない。プライドはあるよ。そんな自分が怖くなるんだよ、何でこんな運がいいんだよ、俺はと。誰もが信じ得なかったことが、起きつつあった。

幸せな野球人生

 謙遜もしてない、努力もしてない。普通の人と同じぐらいの努力。特別な努力はしていない。みんな、投げ込んだ、打ち込んだ、ゴルフの青木(功)さんなら1万発打ち込んだとか、あるじゃない。そんなこと、やったことがない。いつも話の中で、人間が好きな人には、そういう運が向いてくるのかな、と思う。人間が好きな人には。不思議だなあ、俺の人生は、ホンマ。努力しないで、こんな幸せな野球人生を送れるなんて。人が好きじゃないと、人間が好きじゃないと、人に恵まれないからね。単純なことだが、難しい。人間は感情の動物だから。

ONは太陽

 ―ON(王さん、長嶋さん)とは違う方から来た感じですね。ONは努力という言葉を超越してやってきたと思うが。
 ONと比較できるわけもないし。俺が(プロに)入った時のONは太陽そのものだったから。太陽の周りをちょろちょろする惑星が、ちょろちょろしとっただけだから。でも太陽に立ち向かっていかないといかん。そういう苦しさもあったが、楽しみもあった。給料が10倍以上も違う人に立ち向かっていかないといけない。でも楽しみもあった。面白かった。

 ―野球人生で一番楽しかったのは。
 一番楽しかったのは中日監督の1年目(87年)。もうねえ、俺についてこい、ケツをたたきながら、ケツを蹴りながら、うわーってやって、若いやつが一晩寝ると成長している、というのがホントに目に見えた。無名のやつばっかり。あの時は楽しかったなあ。後からはだんだん、怖さとか、苦しさとか、自分の失敗だとか、がものすごく心に残るようになったなあ。
 最下位の(ような)チームばっかり引き受けてきた。それが変わってくる楽しさっていうのはないね。もちろん、ジャイアンツの監督は優勝を宿命づけられている、それなりの戦力をもらっても苦しさというのはあるが、俺の場合は最初から戦力ないんだから、敵と戦う前にてめえのところの選手と戦って、「やれー」と。

 ―ドラフト、補強に強い、得意分野のイメージがある。
 新人補強、トレード。それはうまくいったな。それも人間関係なんだよ。不思議、不思議。

 ―球界に子どもがいっぱいいる感じでは。
 雷おやじがいる、っていう程度では。かわいいよ。ま、楽しかった。まだ、楽しい。今も楽しい。野球を見ていて、テレビの前で監督みたいなことを言って、自分で笑っとる。あそこは「交代だったろ」とか。

 ―楽天の時は「野球をやりたくなった」だったが、また監督をする機会があるかも。
 今はないね。もう68歳やど。オリンピック? もういいよ。この間、ミスターに会った時、「もうちょっと頑張って、東京五輪で監督をやったらどう」と言ったら、ミスターは「面白いねえ」って言ったよ。「もう無理だよ」と言うかと思ったけど、「面白いね」と言ったよ。あの年でそういうものがあるから、元気でリハビリするんじゃないの。ゴルフをやりたいとか、もう一回ゴルフをやりたいとか、あるんじゃないの。

島ちゃんとの縁

 ―07年に亡くなった島野(育夫)さんは、監督の器であると信じてずっと星野さんについてこられたのではないですか。
 島ちゃんとの相性は、俺が持ってないものを島ちゃんが全て持っていた。あの人も昔、やんちゃ坊主だったから、やんちゃ坊主の時代から仲が良かった。ゴルフをしたり、何やかんやしたりしていた。で、だから、島ちゃんがいなかった楽天の時は、不安だったよ。島ちゃんには、プロ2年目に紹介されて、島ちゃんが南海の時。中日の先輩、千原(陽三郎)さんの紹介で大阪で飯を食ったのが最初。それからずーっと、だ。馬が合ったというか、でも、ものすごく俺の前で耐えてくれた。本当に野球を教えてもらった。島ちゃんにも恵まれ、島ちゃんがいなかったら、今の自分があるかな、と思えるぐらいの存在。ちゃーんと、毎年2回は墓参りに行くよ。そういう人に恵まれとる。

 ―終わりの方にかけて人生が良くなっている。監督としての最終章で日本一。
 大体(バッシングを受けた北京五輪の後で)駄目になっちゃう。でも相手にしなかった。ねたみ、ひがみだと思ったから、うらやましがられる人生を、と心に決めたんだから。楽天で駄目だったら駄目で、いいじゃないか。野球が好きでオファーが来て、引き受けて、結果出なければ責任を取ればいい、腹を切ればいい。覚悟があったから、引き受けたら覚悟を持つんだよな。

 ―毎回、1年契約とおっしゃるが。
 楽天は1年契約を許さなかった。でも、一緒。俺が辞めると言えば、辞める権利があった。3年契約でも4年契約でもいいですよ。辞めさせたかったら、3年契約だから残りの給料くれ、とか言わないからと言ったから。結局1年。1年でこのチームで結果出るわけないだろう。ただ、楽天の優勝の時は、いける、早く決めなきゃ、と少し急いだ。

人生はドラマだぜ

 というのは、三木谷オーナーのお父さんが病に伏せて、(亡くなるのは)いつかという時期だった。お父さんに、優勝を見せてやりたいと、息子のチームの優勝を見せてやりたいというのが、頭にずーっとあった。
 そういうことがあるとエネルギーが出る。何かそういうエネルギーが。阪神の時もそう。おふくろ(敏子さん)が危ない。かといって遠征先だから行けないし、優勝を見せてやろうと思っていたが、2日前に死んでもうた。(リーグ優勝が決まった03年9月15日の)母親の葬式にも行けなかった。お通夜にはこっそり行ったけど。ミッキー(平田勝男監督付広報)と島ちゃんだけ知っておった。
 人生はドラマだぜ。本当にドラマだよ。人生ってのは。本当に脚本のないドラマ。そんな簡単なもんじゃないよ、人生だから。そのへんの映画やテレビでやっているのとは違うわ。

 ―田淵幸一さんと山本浩二さん。プロ入り同期の3人で北京五輪を戦った。
 いい思い出だよ。楽しかったよ。野球人生で、あったんだろうけども、つらい時も悲しい時も、そんなもん、全然吹っ飛んでいるな。こんな苦労した、あんなことがあったと。うっすらと覚えてはいるけども、それよりも楽しかったことの方が、数百倍上だな。ほんと、野球があって良かったと思うわ。野球がなければ、どんな人生を送ったんだろう。青木さんもそうだろうが、ミスターも、王さんもそうだろうが、ホントにそう思うわ。人生ってのは。

◇ ◇ ◇

 星野 仙一(ほしの・せんいち) 中日のエースとして活躍し、引退後は中日、阪神、楽天の3球団と日本代表の監督を務めた。岡山県生まれ。倉敷商高、明大を経て1969年、ドラフト1位で中日入団。闘志むき出しの投球で「燃える男」と呼ばれ、巨人戦では35勝(31敗)を挙げた。74年は先発、救援にフル回転して巨人の10連覇を阻み、中日20年ぶりのリーグ優勝に貢献。沢村賞と最多セーブに輝いた。通算146勝121敗34セーブ、防御率3.60。82年に現役を引退した。
 86年オフに中日の監督に就任。抑えの牛島和彦投手ら4人を放出し、ロッテから三冠王3度の落合博満内野手を獲得するトレードを敢行した。中日では87~91年、96~2001年と計11年指揮を執り、88、99年にリーグ優勝を果たした。
 中日を退団したばかりの01年オフ、野村克也監督の後任として阪神へ。金本知憲外野手の獲得など積極的な補強でチームを再建し、就任2年目の03年、阪神に18年ぶりの優勝をもたらした。ダイエーとの日本シリーズに3勝4敗で敗れて退任。日本代表監督として指揮を執った08年北京五輪は4位でメダルなしに終わった。
 楽天監督1年目の開幕前、11年3月11日に東日本大震災が発生。球団が本拠を置く宮城県が甚大な被害を受けた。指揮3年目の13年には24勝無敗の田中将大投手らの活躍で楽天を初優勝に導き、巨人との日本シリーズを制し、選手、監督を通じて自身初の日本一に就いた。
 3球団で監督を計17年務め、通算成績は1181勝1043敗53分け。17年に野球殿堂入り。18年1月、膵臓(すいぞう)がんのため70歳で死去した。

(2023年1月5日掲載)

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