【自主レポート】

那覇市のごみ問題と現業職員

 沖縄県本部/那覇市職員労働組合 宮平日出夫

1. ごみの流れ

 那覇市のごみは昭和30年代まで安謝海岸で露天焼をしたのが最初です。また各市町村においても海岸や山に穴をほり露天焼をしていました。1965年以降近代都市をめざす那覇市にとって清掃部門は日常の市民生活に直結した事業だけにいちはやく施設を完備し快適な生活環境を整備すべきで特に終末処理施設を主とし収集、処分、清掃機材の改善と清掃行政の強化に努めるとともに清潔な生活環境の形成に取り組みをしました。沖縄で初めて那覇市が1967年に1日50トンの処理能力をもち各家庭の台所ごみで有機質肥料をつくるコンポスト工場が完成し、1969年11月ごみ処理場に1日30トンの処理能力をもつ焼却炉が完成し1972年4月に清掃工場に18時間で80トンの処理能力をもつ焼却炉完成し安謝の露天焼き解消につながりました。しかし、沖縄唯一のごみ処理場として各界から期待されたコンポスト、焼却炉も加速度的に増大する、ごみ量をさばけずしかも職員数の不足はそれに拍車をかける結果となりこうしたことから10人の職員を増員し3直制の新しい方法を取り入れ24時間で150トンのごみを処理していく、しかし1975年以降には那覇市の人口が30万人近くになると1日300トンにごみが増大しごみ処理能力がおいつかず約150トンが最終処分場に埋め立てされました。1981年4月に環境センターに24時間で300トンのごみ処理能力をもつ最新型で自動制御装置の焼却炉が完成し、11月に浦添市そして翌年糸満市にそれぞれ300トンの焼却炉が完成した。各市町村も人口の増加と共に50トンから300トンの焼却炉を建設する1998年にはいると那覇市のごみも家庭ごみ、事業系ごみがふえ300トンから400トンに増大しごみの減量に取り組み門口化、家庭ごみや事業系ごみの有料化、資源化推進事業にあらゆる手段を使用し現在においても日々減量目標の達成に向け全力で取り組んでいるところです。また時代の変化と共に地球温暖化、ダイオキシン公害問題をクリアーするために2006年4月に那覇南風原クリーンセンターに450トンの処理能力をもち県内最大の廃棄物発電施設の焼却炉が完成します。しかし人口が多くなるとごみが多くなり税金が導入され焼却炉を大きくする必要があり、すると莫大な税金を導入することになります。またチリも積もれば山となるがごみを分別しリサイクルするとごみの減量になり税収にもなります。またごみ問題は全国共通の問題で有り自治労の仲間が常に情報交換をすることが大事です。

2. はじめに

現業職

 今、環境問題は地球温暖化、ダイオキシン、水質、騒音など多くの問題が生じている。私は1979年那覇市清掃工場に採用され28年間ごみ問題を中心に取り組んできました。28年をふりかえると、家庭から出るごみは分別収集ではなく混合収集のため、残飯、空き缶、タイヤなどが燃やされ、煙突から黒煙がのぼり、最終処分場では、ハエ、ねずみ、野犬が発生していました。家庭から出されたごみ、チリとして山や川にすて、国場川から那覇港へ、安謝川から泊まり港へ流されたごみにより海が汚れる事態が生じてきました。また、野焼などによるダイオキシンが発生しているにもかかわらずごみをとる人、ごみを燃やす人、掃除をする人、汚い、臭いとして、現業職員は差別的に見られていました。私も「清掃工場に勤務しています」と友人に話したら、「別の仕事はないのか」といわれました。また当局の人事異動にしてもセンターには行きたくないという人もいる中で、1990年以前は、環境問題について行政、市民の関心が薄かったように思います。

3. 転換期

リサイクルプラザ

 しかし、1990年代から最終処分場の確保が難しいことから、ごみの減量化が叫ばれました。また、1997年ごろ大阪のごみ処分場で800度以下でごみが焼却されダイオキシン類物が発生し、人間の身体に発ガン物質の副作用があると報告されました。特に煙突から出る煙により清掃工場周辺2~3kmが大気によるダイオキシンの汚染地域であることが環境調査で明かされ、那覇市や南風原町でも、地域住民や職員の健康診断の調査を開始することになりました。
 これによりごみ問題は、全国的に大きな問題となり、各市町村の処理責任として、ダイオキシンを出さない施設整備を具体化することが必要となりました。各市町村もごみ問題を一番に取り上げるようになり、地域住民への説明会を行い、理解を求めることが重要となりました。また、那覇市は一搬廃棄物の施設整備計画として、ごみの減量化、リサイクルとダイオキシン削減を目的に清掃工場、粗大ごみ処理施設、最終処分場、汚水再処理施設、リサイクルプラザの施設整備することを提起しました。しかし、これらの施設は地域住民からは迷惑施設という感覚と、なぜ他の市町村のごみまで引受けるのかなどの反対の声があり、那覇市においては、南風原町や首里地域住民との間で反対運動が行われました。

4. 現業活性化

総合現業職

 これらを打開するのに、那覇市は、地域から信頼されるごみ行政を行うに当たり、現場で働く現業職員の活用が検討されました。これまで現業職は、市職員なのかごみを集める人なのか差別的に見られていたが、ダイオキシン問題をきっかけに、那覇市の現業職員として、意識改革が求められています。そこから行政、地域住民の見方がかわる中で清掃現場職員として仕事に自信と誇りをもちはじめました。時代の変化と共にごみ処理の事業展開や技術の進歩は変化の時に有り、環境部もまたごみ処分場、清掃工場、環境センター、清掃課、那覇南風原クリーンセンター、クリーン推進課、と名称も変わり、ごみに対する認識が行政職員と現業職員が一致し取り組むことが必要となっています。そのため、那覇市はごみの減量化を推進していくために、クリーン推進課の中に総合現業職員を中心にまちづくり推進室を発足し、環境政策課にゼロエミション室を作り、組織を強化し取り組みを進めています。
 また、厚生労働省は「一搬廃棄物処理法、容器リサイクル法、家電リサイクル法大気汚染防止法、水質汚濁防止法」といろんな規制強化の法律を制定し、各市・町・村の対応が求められています。那覇市ではごみの分別作業を現業職員が中心に、自治会、学校、地域住民への説明会、勉強会を開催し、コストの問題、ダイオキシン問題、市民サービスの問題、地域の生活環境の問題をクリアーしていくことが求められています。そのためには、科学的な知識が必要で、理解を求めごみの五種分別、門口収集への取り組みを強化していくことが必要です。今後の循環型社会を構築し、廃棄物政策を確立し分別を適正処理することで多くのメリットを訴えることで、ごみ減量化に成功しています。

5. 直営を求めて

新炉の派遣職員

 しかし、総務当局はこれまでの業務内容を評価せず、三位一体改革で財政難やコスト問題をたてに、現業職場の民間委託、退職不補充配置転換を打ち出しました。環境部は市民生活と密着した、地域の生活環境を支える業務とし、委託に反対をしていくたたかいをすると共に、民間委託と直営の違いを明確にし、当局に現業職員の必要性も認めさせるために地域活動、防犯活動に積極的に参加ししました。さらに、市職労や現業評議会と連携し、センター組合員を横浜市や福岡市の清掃工場の施設見学、先進都市の施設研修やクリーン推進課職員を渡嘉敷村へ派遣しました。そこで、離島のごみ分別状況、環境保全、不法投棄の状況を確認し、自治労の仲間である渡嘉敷村職に協力依頼したところ快く引き受けていただき、相互に学習会や意見交換をする中で、職員1人ひとりが仕事に責任をもち市民サービスの低下にならないように取り組みをしました。
 その結果、2006年の新炉建設について全面委託方針を撤回させ、一部直営を勝ち取ることができました。これは市職労、現評、環境支部、南風原町職と、自治労に結集する仲間すべての団結の力と思います。

6. 今後の課題

那覇・南風原クリーンセンター

 これからのごみ問題を考えたときに行政、現業職員、市民、自治労が一体となった取り組みが求められます。現業職の不補充を撤回するには反対闘争だけでは限界があり業務の改善、自分たちにあたえられた役割を果たし、当局や市民にアピールしていく必要があります。今後も環境支部は市職労や現評と学習会や意見交換しながら団結してたたかっていきます。
 また、こうした課題を前進させるために、選挙闘争も大切であります。選挙のたびに、市民本位か企業優先化か、直営か民間委託などが争点となり、私たち現業は選挙のたびに、団結したたかってきました。32年間革新市政の中で直営堅持をし、選挙闘争や組合活動してきました。しかし2000年保守市政にかわると同時に保育所の民間委託、学校給食委託や人事評価、賃金のカット合理攻撃を組合にかけてきています。
 今後自分たちの権利を守り職場環境をよくするには、いかに選挙闘争に勝利し組織強化、団結するかが求められています。現業評議会は市職労の先頭に立ち、これからも、つき進んでいきます。

 
環境センター
 
汚水処理場
     
 
最終処分場 1993年完成
 
環境業務課 1972年完成
     
 
最終処分場
 
クリーン推進課 2006年完成
     
 
最終処分場 2007年閉鎖
 
環境センター 1981年完成
     
 
汚水処理場
 

那覇・南風原クリーンセンター
2006年完成