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齋藤潤の経済バーズアイ (第142回)

2024年春闘の評価基準

 

2024/02/06

【注目される2024年春闘の結果】

 今年の春季労使交渉 (春闘)の結果が注目されています。その結果によっては、「賃金と物価の好循環」が生まれ、「デフレからの完全脱却」が実現できるとともに、「物価安定目標」を安定的に持続できるようになることから、現在の金融政策の枠組みである「長短金利操作付き量的・質的金融緩和(YCC付きQQE)」の終了が見込まれるからです。

【どのような結果であれば十分なのか】

 しかし、今年の春闘の結果が「どのようなもの」であれば十分な賃上げと判断され、上記のような変化の契機となるのでしょうか。実は、その評価基準は、必ずしも判然としていません。以下では、それをどのように整理したらいいのかについて考えてみたいと思います。

【2023年を上回る賃上げという評価基準】

 評価基準の第1の候補は、昨年(2023年春闘)を上回る賃上げが実現するかどうかです。

 例えば、日本労働組合総連合会(連合)は、昨年、「賃上げ分を3%程度、定昇相当分(賃金カーブ維持相当分)を含む賃上げを5%程度とする」として春闘に臨み、最終的に3.58%の賃上げを実現しました(第1図)。これは近年実現したことのなかった、極めて高いものでした。

 今年は「昨年を上回る賃上げを目指す」とし、具体的には「賃上げ分3%以上、定昇相当分(賃金カーブ維持相当分)を含め5%以上の賃上げを目安とする」としています(連合2024年春季生活闘争方針)。

 前年を上回るかどうかというこの基準は、賃上げ努力を評価するのには分かり易い基準です。しかし、仮に同じ賃上げ率であっても、昨年と今年とでは経済環境が異なっています(例えば、物価動向の違い)。同じような賃上げ率であっても、その経済的な意味は異なるはずです。したがって、単に昨年を上回っているからといって、それを積極的に評価できるとも限らなくなります。評価基準としては、もっと具体的なものが求められるように思います。

【物価上昇を上回る賃上げという評価基準】

 そこで第2の候補として考えられるのは、物価上昇を上回る賃上げかどうかという評価基準です。例えば、「ESPフォーキャスト調査(2024年1月調査)」に依れば、民間エコノミストは2024年度の消費者物価指数(CPI)上昇率を2.2%と考えているので、それを上回る賃上げ率を実現することが必要であるという基準です。

 例えば、日本経済団体連合会(経団連)も、「昨年以上の賃金引上げに果敢に取り組まなければならない」(経団連労使フォーラムにおける経団連会長ビデオメッセージ)としています。

 ここで重要なのは、賃上げのどのような数字とCPI上昇率を比べるのかということです。春闘賃上げ率として一般的に引用されるのは、定昇込みの数字です。2023年春闘で言えば、3.58%(連合第7回<最終>回答集計)です。これは23年度のCPI上昇率の実績見込み値2.8%を上回っています(第2図)。したがって、この場合には、23年の春闘賃上げ率は評価されるべきものであったということになります。24年の場合は、上述の通りCPI上昇率の予測値は2.2%なので、23年を下回る春闘賃上げ率であっても優に達成できる可能性が高いものと考えられます。

 しかし、以上のような結果は、春闘賃上げ率を、定期昇給分(以下、「定昇分」)を含むものとして考えた場合です。個々の労働組合員に着目するのであれば、実際に定昇込みで賃金が上昇するので、これで問題はありません。しかし、そうではなくて、マクロ的に考えることになると、事情は変わってきます。マクロ的な一人当たり賃金の上昇率を考える場合には、賃上げ率から定昇分を除いた、ベースアップ分(以下、「ベア分」)だけを取り出して、それをCPI上昇率と比べることが必要になってくるからです。

 賃上げをそのような意味で捉えると、物価上昇率を上回るベアであるためには、2024年のベアとしては少なくとも2.2%が必要だということになります。これを定昇分込みの春闘賃上げ率に翻訳するとすれば、定昇分はおおよそ1.5~1.6%ポイント分(2023年の場合)と考えられるので、3.7~3.8%に相当するということになります。これは23年の春闘賃上げ率(3.58%)を上回る賃上げが必要となることを意味します。

 これはかなりハードルが高いように見えるかもしれませんが、興味深いことにESPフォーキャスト調査(2024年1月調査)で予測されている春闘賃上げ率は3.85%と、ほぼこれに相当する水準となっています。

 なお、マクロ的な賃金指標として良く引き合いに出されるのが毎月勤労統計調査における賃金統計ですが、春闘賃上げ率に対応する項目としては、「一般労働者の所定内給与」が考えられます。一般労働者に限定することで大部分が春闘の対象外となっているパートターム労働者を除外することになり、また所定内給与に限定することで、残業時間の変化やボーナスの変化を除外することができるからです。

 この「一般労働者の所定内給与」の2023年度に入ってからの推移を見ると、実績が明らかになっている4月から11月までの前年比の平均は1.7%となっています。調査対象において連合が実現した春闘賃上げ率が実現されていたとすると2.1%程度になっているはずです。このことは、毎月勤労統計調査の調査対象には、連合傘下の組合のような賃上げを実現できていない労働者(中小企業の労働者等)が含まれていることが分かります(第3図)。

 また、2023年春闘では、CPI上昇率を上回る賃上げが実現できなかったことも分かります(第4図)。

【労働分配率を低下させない賃上げという評価基準】

 それでは、この第2の評価基準を基に評価し、CPI上昇率を上回る春闘賃上げ率が実現できればそれで十分と言えるでしょうか。実は、「賃金と物価の好循環」という観点からは、それでは不十分ではないかと考えられます。

 なぜなら、CPI上昇率と同じだけの賃上げ(実質賃金は横這い)を実現するだけでは、労働生産性が上昇した結果として付加価値が増加している場合には、労働者としてはその分配を受けることができないことになってしまうからです。そして、生産性上昇に見合った賃金の増加を受け取らないと、その結果、労働分配率は低下することになってしまいます。実際、最近はCPI上昇率と同じだけの賃上げさえも実現できていないので、労働分配率は低下しています(第5図)。

 これでは、長期的に労働生産性上昇の成果があっても、労働への分配が行われないため、実質賃金は増加せず、それを受けた実質消費支出の増加も行われないことになってしまいます。「賃金と物価の好循環」のためには、所得分配率が低下しないような賃上げを実現することが必要です。

 例えば、「ESPフォーキャスト調査(2024年1月調査)」では、2024年度の名目GDPは2.6%と予測されています。これが24年度の名目国民所得の伸び率にも当てはまるとすると、同年度の雇用者報酬も少なくとも同じ伸び率を確保する必要があります。仮に24年度の雇用者数の伸びが0.3%程度(2023年の伸びの半分)とすると、一人当たり賃金は2.3%程度の伸びを示さなければなりません。これが一般労働者の所定内給与の伸びに相当すると仮定し、前述のような仮定を置いて試算すると、24年の春闘賃上げ率は4.2~4.3%程度になる必要があることになります。これは、先ほど求めた実質賃金横這いの場合をかなり上回るものとなります。

 なお、本年1月に閣議決定された2024年度政府経済見通しでは、24年度の国民所得の伸びを2.7%(雇用者一人当たりでは2.5%)、雇用者報酬の伸びも2.7%と見通しています。政府経済見通しでは、労働分配率を一定とするような賃金上昇が想定されていることになります。

【賃上げ率だけに注目するのではなく、賃金決定方式の変革が必要】

 以上、今年の春闘を評価するための評価基準を検討してきました。そして、三つ目の評価基準として労働分配率を引下げないような賃金引上げが重要ではないか、という問題提起をしました。

 しかし、実は、「賃金と物価の好循環」のためには、賃金が増加するだけでなく、それが消費の増加をもたらし、それがさらに成長を後押しすることが必要です。そうでないと「好循環」とは言えないはずです。そういう観点からすると、以上のように、賃金の引上げを単に賃上げの「率」だけで考えるのでは、その視点が入ってきません。

 もちろん、賃金の増加が消費の増加につながっていくためには、社会保障制度の持続可能性の確保(今年は「財政検証」の年です)など、将来不安を払拭することで、消費性向を高めることも重要です。これは幅広い制度改革の問題と関連しており、賃金政策の範疇だけで解決する話ではありません。

 しかし、賃金決定に関連して検討すべきこともあります。それは、春闘における賃金引上げ(ベア)が長期にわたって持続的に実現することを制度的に保証するような工夫ができないか、ということです。これは「賃金と物価の好循環」の実現にとっては重要なことです。これができれば、毎年、恒常所得が増加することを意味するので、恒常消費も毎年増加することになります。これによって「好循環」を実現するための前提条件が整うことになります。今年の春闘で高い賃上げ率を実現すること以上に重要なのは、このような制度的な仕組みを構築することのように思います。

 それでは、どのような工夫をすべきでしょうか。既に労働生産性上昇分を労働者に賃金に分配し、労働分配率を少なくとも低下させないことが重要だということを指摘しましたが、例えばそのような賃金決定方式について労使間で合意することが考えられます。このような合意ができれば、毎年ベアを期待することができるだけでなく、それによって労働生産性を高めることへのインセンティブを高める効果を持つとも考えられます。

 今年の春闘賃上げにおいては、高い賃上げ率だけでなく、こうした賃金決定方式における新たな工夫が期待されます。