元祖・天才ドリブラー、金田喜稔が明かす今ではあり得ないアマチュア時代の飯【サッカーとメシの回顧録】

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プロサッカーリーグ(Jリーグ)が誕生する以前から、フットボーラーとして生計を立ててきた人々は、いったいどのような環境で選手キャリアを送ってきたのか――。

 

日本サッカーの黎明(れいめい)期にスポットを当て、サッカーと食にまつわるさまざまなエピソードを語ってもらう今回の企画に登場していただくのは、1980年代から90年代初めに日産自動車(横浜F・マリノスの前身)や日本代表でご活躍された金田喜稔さん。

 

“キンタ”の愛称で親しまれ、現役時代は切れ味鋭いドリブルを武器に見る者を魅了し続け、木村和司や水沼貴史らとともに「日産黄金時代」を築き上げた。

 

Jリーグが誕生する2年前の91年、アマチュア契約のまま現役引退。現在は、テレビ解説者や日本サッカー名蹴会の会長として、活躍している。

 

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小さい頃は鶏肉がダメで……。とにかくマズイもんや、と

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――金田さんは広島出身ですが、おふくろの味だったり、郷土料理だったり、子どもの頃の思い出の食事って、ありますか?

 

金田:うちはね、僕がとにかくぜいたくで、ちっちゃい頃から肉しか食ってないです。鶏は全然食べないので、牛がメインやったかな。刺身とかも出たけど、僕は食わなかったですよ。俺だけ肉にしてくれと。それに対して親から「おまえ、ぜいたくやで、わがまま言うな」って言われたこともなかったですね。

 

――鶏を食べなかったのは、どうしてですか?

 

金田:僕らの地域では「かしわ」言うんやけど、鶏は臭いが鼻につく、というんかな。それは、おふくろが行ってたスーパーが、しょうもない肉を売ってたのかもしれないけれど(笑)。

 

――そうなんですか(笑)。

 

金田:とにかく鶏はマズイもんや、と思ってたんですよ。今では焼き鳥屋さんにも行くし、居酒屋さんに行ったら、唐揚げも食べるんですけどね。子どもの頃、あれだけは食えたね、鶏ももを焼いたのに銀紙を巻いたやつ、あるやん。

 

――手で持って、ガブリとかぶりついて。

 

金田:おやつ代わりなんですよ。小学生の頃とか、3時くらいに、あれを食べるんです。

 

――サッカーを始めたのも、その頃ですか?

 

金田:いや、小学生のときは一切やってなかったです。当時、夢中になっていたのはソフトボール。広島ってほとんどそうやったと思うけど、夏休みに朝のラジオ体操をやるでしょ。そのあと、町内会の対抗戦に備えてソフトボールの練習をしてたんです。僕は広島の府中町というところなんだけど、毎年やってたね。そのあと、市内の大きなプールに通ったり、卓球をしたり。自分で言うのも何だけど、卓球のセンスは抜群やったね。

 

――それはもう、生まれ持った運動センスといいますか。

 

金田:そうそう。それで中学に上がったとき、卓球部に入るか、野球部に入るか、迷ったんですよ。でも、卓球は小学生の時点で中学生より強かったから、入ってもつまんねぇか、みたいな。

 

――ハハハハハ。それはすごいですね。

 

金田:で、野球部に入ろうとしたんだけど、野球部の監督から、「キンタ、野球やりたいんやったら坊主やで」って言われて、坊主は嫌だって。『巨人の星』の世代だし、憧れは花形(満)やから。花形、髪伸ばしとるやないか、みたいな(笑)。

 

――それで、サッカー部に入ったんですね。

 

金田:そう。でも、最初は自信なかったんですよ。

 

――え、そうなんですか!?

 

金田:安芸郡府中町っていうのは、サッカーの町なんですよ。当時のJSL(日本サッカーリーグ)で4連覇とかしていた東洋工業が隣にあって、選手たちが遊びにきて、僕らとボールを蹴ってくれたりする町なんで、クラスの中で勉強ができて、スポーツもできるエリートはみんな、サッカー部に入るんですよ。で、そいつらから「キンタも中学はサッカー部に入ろうや」って誘われたんだけど、運動能力の高いやつらばっかりだったから、レギュラーになれんだろうなと。でも、卓球部に入ってもつまらないだろうし、坊主にするのは嫌だから、サッカーしかないか、っていうことで、サッカー部に入ったんですよ。

 

――サッカーを始めたきっかけは、消去法だったんですね。

 

金田:そうです。中学1年のときは一番チビやったから、周りに圧倒されてましたよ。ただ、僕らの代はレベルが非常に高くて、周りから「こいつらが3年になったら、県大会でも優勝するだろうね」って言われていたんです。で、6月に1年生だけの新人戦に出場したんだけど、何回戦かでコロッと負けてしまった。そうしたら監督が怒って、坊主にさせられて。

 

――坊主が嫌でサッカー部に入ったのに(笑)。

 

金田:これなら野球やっとけば良かったな、と(苦笑)。サッカー部を辞めて野球部に入り直そうかなって、本気で悩んだね。でも、それはあまりにひきょうなので、とりあえずサッカーを続けた、という感じですね。

 

――のちに日本代表屈指のテクニシャンとして活躍する人とは思えないエピソードですね(笑)。いつ頃からうまくなって、自信を付けていったんですか?

 

金田:自信が付いたのは、1年の終わりくらいかな。ちょうど中学1年のときに1970年のメキシコ・ワールドカップがあったんですよ。ペレが活躍して、決勝でブラジルがイタリアを下した大会ね。それを『ダイヤモンド・サッカー』(※1968年4月から1988年3月、1993年4月から1996年9月の2期に渡り放送されていたサッカー情報番組)で見て、練習したんです。小柄だったから左ウイングだったんだけど、毎朝4時におふくろに起こしてもらって、中学校の校庭でドリブルの練習。365日、みんなが中間テスト、期末テストとかで試験勉強してるときも欠かさず3年間やったからね。ビデオなんてないから、ジョージ・ベストを見て、すごいな、って思ったら、そのドリブルを頭に焼き付けて練習した。

 

――そうした陰の努力があったから、中学からサッカーを始めたのに、どんどん頭角を表していったんですね。

 

金田:大野(毅)さん(元日本代表)とか東洋の選手たちも練習を見に来てくれてね。1対1ばかりやっとったね。サッカーを始めたばかりの1年坊主が当時の日本代表選手に「ちょっとディフェンスやってよ」って頼んでね。生意気なガキやったと思うよ(笑)。

 

――でも、相手をしてくれたんですね。

 

金田:そう。それで、僕がフェイントをたくさんかけて、かわしてシュートを打つと、すごく褒めてくれるんですよ。「おまえ、ドリブルめっちゃうまいやないか」って。わざと抜かれて、自信を付けさせてくれたんだろうけど、当時は本気で日本代表選手をドリブルで抜けたって思っていたからね(笑)。そうやってサッカーが楽しくなって、どんどん自信を付けていったんですよ。

 

――では、2年になる頃には、レギュラーに?

 

金田:結果として、レギュラーになるんだけどね。1年の終わり頃、高校生のOBたちが僕らと試合をしてくれて、そのとき、彼らが「キンタ、おまえ、うまなったな」とか、「おまえ、ちょっと別格やぞ」と声を掛けてくれたもんだから勘違いして、監督に「2年になったら、レギュラーポジションを保証してくれんと、俺、サッカー部辞めるから」って交渉をしに行ったの。

 

――また、生意気ですね(笑)。

 

金田:考えられないよね(笑)。もちろん監督は「おまえ、何を言うとるんじゃ」ってなるんだけど、確約が取れないから、それから3週間くらい、本当に行かなかったんです、練習に。そうしたら、ある日、先輩がうちに来て、「キンタ、出てこい。練習来んようになったけど、どうなっとるんや」と。さすがに先輩たちには、そんな交渉をしたことなんて言えんから、「ちょっと体調が……」って答えたら、「ええから出てこい」って連れて行かれて、サッカー部に復帰したんです。

 

――もし、そのとき、先輩たちが来なかったら?

 

金田:そのままサッカー辞めてたかもしれんね。まあ、先輩たちも監督が派遣したのかもしれんけどね。その後、結果的にレギュラーになって、3年のときは県大会で優勝しました。

 

おたふくソースは“お好み”の基本

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幼い頃から肉を主食としてきたという金田さん。

 

サッカー初心者から、結果的に主力選手にまで上り詰めた中学時代も相変わらず肉を好んでいたが、一方で、広島ならではのあの料理に対する愛情もあった。

 

――ちなみに中学時代も、やはり肉ばかり食べていたんですか?

 

金田:そうやね。肉ばっかり食っていたけど、買い食いは“お好み”でした。

 

――おお、やっと広島人らしくなりましたね。

 

金田:中間テスト、期末テストの時期はサッカー部も練習が休みだから、チームメイトも勉強してるわけですよ。みんな、生徒会長、学級委員みたいなエリートばかりだから。まあ、僕もテスト前だからといって特別勉強しなくても、授業を聞いているだけで、そこそこ点が取れたから、ひとりでボールを蹴っていてね。それで、そのあとクラスのワルの仲間と、お好み焼き屋さんに行って食うんです。

 

――広島の人にとってのお好み焼きというのは、どういう存在なんですか?

 

金田:もともとは主食の代わりなんですよ。原爆を落とされて、焼け野原になって、本当に何もない時代に、なるべくコストを掛けないで、最低限の栄養をどうやって確保するのか、という問題が広島にはあって。そこで、野菜焼きという、モヤシ、キャベツ、薄い3枚肉の豚、そこに、そばやうどんを入れて……というのがお好み焼きの原点で。ソースはおたふくソースね。そういえば、昔、テレビに出たときに、「僕は広島出身で、お好みで育ってます。おたふくソースは基本ですよ」って言ったことがあるんだけど、それをおたふくソースの会長さんがたまたまご覧になっていて、それ以来30年、おたふくソースのセットが送られてくる。

 

――30年間ずっとですか?

 

金田:そう。たこ焼きソースとか、焼きそばソースとか、牡蠣ソースとか、いっぱい入っているんですよ。たった1、2回言っただけなのに義理堅いというか。本当に感謝してますね。

 

――高校はサッカーの名門、広島県立広島工業高、通称「県工」に進まれました。目指すは全国優勝?

 

金田:そうですね。高校では1年のときからレギュラーで、高校選手権には3年連続出ました。

 

――同級生には石崎信弘さん(川崎フロンターレや柏レイソルなどの元監督。現・藤枝MYFC監督)が、1学年下には木村和司さん(元日本代表、現・解説者)がいましたね。

 

金田:ディフェンスはもうイシ(石崎)に任せて、攻撃は僕がやるというようなチームでしたね。僕が2年のときに和司が入ってきて、すごいやつが入ってきたぞ、と。リフティングしながら寝っ転がって、頭で突いて、額の上でぴたっと止めて起き上がる、みたいなことを平気な顔してやるわけ。こいつ、ただもんじゃないなって。3年のときは選手権で勝ち進んだんだけど、準決で静岡工業に負けてね。その静岡工業も決勝で田嶋幸三(現・日本サッカー協会会長)の浦和南に負けた。田嶋はスーパーでしたよ。うわー、こんなやつらがおるんやって。広島で鼻高々だったんで。

 

――へし折られました?

 

金田:折られたねえ。でも、良かったと思いますよ。目標ができたんで。個人では負ける気がしなかったけど、チームとして勝てなかった。やっぱり静岡埼玉には強いチームがあるんだなって。このとき、僕は大会の優秀選手に選ばれたんだけど、日本高校選抜ではなく、そこを飛び越えて、ユース代表に選ばれたんですよ。飛び越えてるわけだから、非常にうれしかった半面、一番年下だから、しごかれるわけですよ。一方、高校選抜は楽しそうだったので、うらやましかったですね。

 

一番貧しかった大学時代の食

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「県工」の一員として全国の強豪校としのぎを削り、その実力が認められて一気にユース代表にも選ばれるなど、選手として順風だった学生時代。しかし中央大学に進学後、思わぬ待遇が待っていた。

 

――大学は中央大に進学されました。

 

金田:大学なんて、4年生は神様、1年生は虫けら、みたいな感じだから、こき使われるし、寮に入っていたけど食事が貧相でね。みそ汁とご飯、卵1個とか。これ、晩メシかよっていうような。で、金ないから夜はインスタントラーメンを作って、ちょっとぜいたくしたかったら、そこに卵を入れる、みたいな。

 

――苦学生じゃないですか(笑)。

 

金田:苦学生ですよ。大学時代の食が、一番貧しかったような気がします。実際にパン屋さんでパンの耳を買ってくる苦学生、いっぱいいたしね。それを油で揚げて食うとか、マヨネーズつけて食うとか。ただ、僕は高3の終わりにユース代表に選ばれて、大学2年のときに日本代表に選ばれていたから、代表の合宿では良いものが食えたんですよ。芝のピッチで練習をしたあとはレストランに行って、スープからサラダからステーキまでフルコースで出てくる感じで。

 

――日本サッカー協会が契約しているレストランなんですか?

 

金田:たぶんバックアップしてくれていたんでしょうね。当時の代表監督は三菱重工の二宮(寛)さんだったから、三菱が使ってるレストランに行って、目いっぱい食べられるわけ。それで大学に戻ると、せっかく作った体がしぼむんです。それでもみんなディスコに行ったり、雀荘に行ったりして遊ぶから、そりゃ、うまくならんわな(笑)。そういう時代でしたよね。

 

――代表の食事はずっと豪勢だったんですか?

 

金田:僕を引っ張り上げてくれた二宮さんの時代は、ドイツに遠征したりして、金を相当使っていたと思います。でも、二宮さんのあと、下村(幸男)さんが代表監督になったとき、なぜか遠征先が旧ソ連と北朝鮮になって、待遇が一気に落ちた。あれは、ものすごくショックだったですね。遠征でハバロフスクに行くと聞いて、それどこやって。行っても何もないわけ。夜も、僕が覚えてる範囲で言うと、スープがあって、パンにハム挟んで、それサンドイッチにして食って終わり。そんな食生活やったんですよ。たぶん、貧しくて食べるものがなかったんだと思います。

 

――なぜ、そんなところで合宿をしたんですかね?

 

金田:分からない。ハバロフスクの州選抜みたいなところと対戦したんだけど、照明も暗いし、芝生もめちゃめちゃやし。ほんま悲しくてね、日本代表でこれかと。そのあと5時間半くらい掛けてプロペラ機で北朝鮮に入るわけですよ。

 

――すごい経験ですね。

 

金田:北朝鮮は当時、芝のグラウンドなんてないから、土のグラウンドで北朝鮮代表と対戦して。でも、北朝鮮でうれしかったのは、キムチがたくさんあること。ハバロフスクでろくなものを食べてないから、キムチとご飯があるだけで幸せ、みたいな。

 

――アハハハハ。そんな時代があったんですね。

 

金田:1979年ごろの話ですね。

 

――お話にあったように、大学2年から日本代表に選出されていて、卒業されるときはたくさんのオファーがある中で、日産自動車を選ばれました。当時、強くなかった日産を選んだのは、どうしてですか?

 

金田:僕らの時代はアマチュアだったから、選手をあがったらサラリーマンとして社業をやるのが当たり前の時代だったわけですよ。で、僕は大学時代、源氏鶏太のサラリーマン小説が大好きでね。会社が不正で傾いて、28歳くらいの好青年が派閥で埋もれている取締役と仲良くなって会社を更生させる、そんな流れなんですよ。同じ課には必ず美人がいて、その人と結ばれて円満に解決、みたいな。

 

――そういう世界を夢見ていたと。

 

金田:そう。夢見てたのよ。それで大学時代、日立、ヤンマー、三菱、古河、もう全社から声を掛けてもらったんだけれど、大学2年の終わり頃から、日産が声を掛けてくださって。そのときの監督は加茂(周)さん(元日本代表監督)でね。

 

――でも、まだ弱い時代ですよね。

 

金田:うん、弱い。ただ、日立や古河には日の丸組の先輩がたくさんいらっしゃるわけですよ。でも、日産に行ったら、日の丸組は僕しかいない。サラリーマンを目指しているから、選手を終えたときに絶対に有利やな、と思ってた。入ったときから騒がれるだろうし、会社中に覚えてもらえるだろうと。それに日産の本社は銀座だし、車はゼット(フェアレディZ)やし、ミス・フェアレディ、いっぱいおるし、ここしかないなと(笑)。

 

――加茂さんに口説かれたというより、そっちですか(笑)。

 

金田:うん(笑)。ただ、中央大から社会人になるときは、日立、古河と流れが決まってるわけですよ。先輩たちもみんなそこに行くから。だから、僕が4年のときに監督に「日産に行きたい」と言うと、「日産に行ってもらっては困る」と。それで問題になったんだけど、僕は日産に行くために、OB会で力のある人たちの家を回ったんですよ。こういうサッカーで日産を5年以内に日本一にさせたい、だから僕は日産に行きたいんです、とOBの方々を口説いてね。あと、僕が県工から中央大に進んだとき、小城(得達)さん(元日本代表、現・広島サッカー協会会長)が世話をしてくれたので、小城さんも裏切ってるんですよ。

 

――地元の東洋工業に戻る、というのも大きな選択肢ですもんね。

 

金田:小城さんがレイバンのサングラスを掛けて東京に来て、「キンタ、おまえ、わかっとるんじゃろうのう」と。「いや、いろいろとオファーがあるので、ゆっくり考えさせてください」って言うと、「何言うとるんや、おまえを預けたんはわしやぞ。帰ってくる約束で、中央大に預けたんじゃけぇ、帰ってくるのが筋じゃろうが」みたいな感じで言われるわけですよ、東京駅で。うわ、こわー、思いながら、それでも負けられんぞ、思うてね。

 

――「仁義なき戦い」みたいですね(笑)。

 

金田:今は仲いいよ。だけど、あのときは怒っとったなあ。そうやってOBを口説いて、小城さんに丁重にお断りして、全社にお断りして、日産に入った。だから僕は大学3年の頃から、いらんエネルギーを使ってますね。

 

――ハハハハハ。それで実際、銀座の本社で働くことはできたんですか?

 

金田:もちろん。それが日産に行く条件だったから。三顧の礼で僕を迎えてくれるわけだからね。うちに、金田が来てくれるんだっていう感じ。研修期間があるんですよ。部品を触って、車のラインに入って、車づくりの研修をするわけ。そのあと、横浜工場とか、追浜工場とかに行くんだけど、僕はそんなとこには行きたくないと。本社勤務が入る条件だと。中学1年の終わりに、レギュラーにしてもらいたくて交渉しとったでしょ。僕にはそういうところがあるんだと思う。どうやって有利に交渉してやろうか、という。

 

――では、本社勤務になって、夜は銀座で食事とか。

 

金田:やっぱり花形やからね、当時、車会社って。日産は銀座に本社があって、4丁目にはショールームもあった。女性社員もきれいな子が多いし。午前中に会社に行って、昼から練習するわけだから、会社にはほぼいなかったけど、入ったらスターだったから、練習が終わったら、女の子たちと銀座に飲みに行ってね。ビアガーデンの季節やないか、みたいな。

 

――アハハハハ。サラリーマン生活を満喫してますね(笑)。

 

金田:情けないやろ。サッカー、うまくなるわけがないな、と思う。でも楽しかったですね。

 

和司との食事で思い出すのは、やっぱり“お好み”

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日産自動車で望み通りのサラリーマン生活を送りつつ、ピッチでは弱小チームが日本リーグ屈指の強豪へと成長を遂げる原動力に。

 

そうした金田さんの影響力もあってか、日産にはタレントが集うようになり、同郷で高校の後輩でもある木村和司も加わった。

 

――金田さんが加入したシーズン、日産は2部に落ちてしまいますが、1年で1部に復帰して、その後黄金時代を築いていきます。

 

金田:和司が入ってきて、1年で昇格したのが大きくて。そのあと、(水沼)貴史とかハシラの兄ちゃん(柱谷幸一)とか、パオ(田中真二)、越田(剛史)、境田(雅章)と、大学のスーパーな選手たちがみんな日産に来たからね。

 

――金田さんを追うように。

 

金田:それはどうか分からんけど、僕が入って4年目に天皇杯をとって日本一になった。だから、本当に5年で日本一になれたんですよ。

 

――高校の後輩である和司さんとは、よく一緒に食事をされたんですか?

 

金田:和司との食事で思い出すのは、やっぱりお好みだね。当時、和司は用賀に住んでいて、しょっちゅう行ってたのよ。なぜかというと、和司がお好みを焼いてくれるから。めちゃめちゃうまいのよ、あいつ。今でももちろん焼いてるんだけど、あいつ、倒れてね、右半身がちょっと不自由になってるんだけど、和司が「まだ右が動かん」と言って、杖を持って歩いていたときにも、お好み焼き屋さんに連れて行って、「さあ、和司、焼いてくれ」と。

 

――リハビリの一環として?

 

金田:そうそう。和司も負けず嫌いやから、「よっしゃ、焼いたるわ」みたいな。あいつはお好みに関して、うるさいのよ。僕はこだわりないのよ。お好みやったら、そこそこ食えればいい、みたいなところがあるんで、あざみ野の「きゃべつ畑」っていう行きつけのお店があるんだけど、仲間と集まれば、すぐサッカーの話だとか、食べながら、飲みながら、わいわいやるんだけど、和司をそこへ連れて行っても、サッカーの話一切しない。そこの大将がお好みを焼くのをじっと見て、文句を言うのよ。

 

――へえ、こだわりがあるんですね。

 

金田:「押さえちゃダメ」とか、「そのタイミングでもうちょっと塩いるやろ」とか、「コショウ、そこやん」みたいな。お好みに対する集中力は、サッカーの試合を解説しているときよりもあるかな(笑)。それくらい、和司はお好みが好きなんですよ。

 

――日産が黄金時代に入っていく一方で、金田さんは84年のロス五輪アジア最終予選に敗れた悔しさもあったのか、26歳で日本代表から身を引いてしまいます。

 

金田:ロス五輪に行けなかったのはショックでね。直前には親善試合でコリンチャンスに勝って、絶対に行けるぞ、っていう自信があったんですよ。ただ、急きょベテランが4人くらい加わってチームのバランスが崩れたり、シンガポールでのセントラル開催だったんだけど、ものすごく暑くてね。暑さ対策をする時間も方法もない、飯も食えない、芝も違う、スコールは降る、という状況で、初戦でタイにいいところなく敗れてしまった。当時、日本サッカー協会にもう少し力があれば、セントラルじゃなく、ホーム&アウェーに変更できた。そうすれば、絶対に行けたと思う。だけど、僕自身、チャンスメイクもできなかったし、点も取れなかった。僕にボールを集めるような戦い方だったから、ロス五輪を逃した戦犯は自分だと思っていますね。

 

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――金田さんはJリーグが開幕する2年前の91年に引退されます。和司さんが国内プロ第1号選手になって、その後、日産のチームメイトが全員プロ選手になっていくなかで、金田さんはアマチュアのまま引退されました。なぜ、プロ契約を結ばなかったのですか?

 

金田:大学時代から、選手をあがったらサラリーマンとして会社の中で成長したいと思っていたから。当然、プロ契約をしないかっていう話はあったけど、僕はNOと言ってアマチュアを貫いたんですよ。人事部に10年くらいいたのかな。そのあと、総務部に移って2年半くらい。ただ、結果的にはJリーグが始まって、協会の技術委員会だとか、ライセンスを取るために抜けるとか、解説の仕事も入ってきて、職場を3時頃に抜けたりするわけ。そこで同じ部署の人たちは、部長も含めて「キンタ、頑張ってこい」って送り出してくれる。だけど、僕が受け持っている仕事を、代わりに先輩方がやってくれるわけですよ。

 

――部署内の先輩が負担してくれたんですね。

 

金田:そう。それも知っていたから、葛藤があるまま半年くらい続けていたんだけど、これはもう選ぶしかないな、と思ってサッカーのほうに戻った。それが93年の9月くらいかな。現役を引退した頃は、源氏鶏太の小説に出てくる好青年になるんだ、っていう思いがあったんだけど、途中で消えましたね。

 

――プロ化されて25年経って、ワールドカップにも6大会連続して出場するようになって、日本サッカーの成長を、金田さんはどう感じていますか?

 

金田:オリンピックはマイアミの奇跡があった96年のアトランタから6大会連続、ワールドカップもジョホールバルの歓喜があった98年のフランスから6大会連続して出てるわけじゃない。アジアを突破するのも簡単じゃないから、立派なもんやと思います。僕らはたまに外野からボロクソ言うたりもするけれど(笑)。ヨーロッパでも(香川)真司や長友(佑都)が頑張っている。でも、その前に最初に奥寺(康彦)さんがドイツに行って、カズ(三浦知良)がイタリアに行って、ヒデ(中田英寿)が続いたっていう歴史がある。日本代表にしても、ドーハの悲劇というものすごくショックな出来事があったから、出続けられているとも言えるわけじゃない。さらに振り返れば、メヒコ(68年メキシコ五輪で銅メダルを獲得)もある、スウェーデン(36年ベルリン五輪で日本代表がスウェーデンに勝利)もあると。そういう縦軸が大事でね。

 

――その間に、金田さんたちが過ごしたプロ化夜明け前の時代もあって。

 

金田:その縦軸の中で、好きなサッカーをやらせてもらえたことは、感謝すべきやなと思うし、かみ締めながら伝えていかなきゃいけないという思いがすごくあって、名蹴会の会長をやってるんです。名蹴会いうんは国Aマッチ50試合以上に出場とか、いろいろ条件はあるんですけど、日本サッカー界に貢献してきた人たちの集まりで。先輩、後輩含めていろんな経験をされてきた方々に、自身の経験や技術、考え方、心構えとかを日本全国に発信してほしいし、日本サッカーの歴史を伝えたいから、事務局と作ったんですよ。だから、これからもサッカーの普及に携わりながら、先輩たちから受け継いだものや自分の経験を伝えていきたいと思います。

 

――今日のお話も、昔を知らない若いサッカーファンにぜひ知ってもらいたいです。貴重なお話をありがとうございました。

 

金田:いえいえ、とんでもないです。

 

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日本サッカーの夜明け前、いわゆる、黎明期ならではのエピソードは、今となっては意外なものばかり。それだけ、サッカー界が発展したと言えるだろう。

 

撮影:O Graphic

 

書いた人:飯尾篤史

飯尾篤史

東京都出身、スポーツライター。NumberWebで「Jをめぐる冒険」、サッカーダイジェストで「Re Bornこれからの物語」を連載中。著書は『黄金の1年 一流Jリーガー19人が明かす分岐点』(ソル・メディア)など

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