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江戸城の歴史と名所・特徴/ホームメイト

高層ビルが立ち並ぶ、日本で最も近代的な都市である東京ですが、都心には、かつて日本一の城郭面積を誇った歴史的建造物「江戸城」が残っています。江戸時代には徳川幕府が本拠としたお城で、政庁としての役割を果たしていました。

現在では、天皇陛下がお住まいになる皇居であるとともに、多くの人で賑わう観光地でもあります。城内に残る櫓や門、堀、石垣などの遺構を見物すれば、往時の風景が浮かんでくることでしょう。ここでは、江戸城の興味深い歴史や観光地としての魅力をご紹介します。

江戸城とは

江戸城とは

天守こそ残っていないものの、江戸城は年間100万人以上の観光客が訪れる人気の観光地です。

現在は皇居となっているため、天皇陛下・皇后陛下がお住まいになる御所、各種行事を行なう宮殿、宮内庁の庁舎などがある敷地へは入ることができません。一方、かつて本丸があり現在は美しい庭園が広がる皇居東御苑は、一部を除いて一般開放されています。また、現在は公園となっている皇居外苑には、や城門といった遺構が残り、外苑だけでも散策しがいのあるスポットです。

また、江戸城はランニングを楽しむ人たちにも人気があり、城の外周を走ることは「皇居ランニング」とも言われています。

皇居として、観光地として、ランニングスポットとして、江戸城は現代においても人々の注目を集める場所となっているのです。

江戸城の歴史

江戸城の特徴

江戸城は、扇谷上杉家の重臣「太田道灌」(おおたどうかん)によって築かれました。鎌倉時代に建てられた「江戸館」跡に築かれ、1457年(康正2年)に完成したと言われています。当時の江戸城は3つの曲輪で構成されており、多くの堀が設けられていた他、や石門などで守りを固めていました。城下町も発達していましたが、太田道灌が暗殺されてしまい、江戸は寂れてしまいます。

その後、江戸城は北条氏の支城のひとつとなりますが、北条氏が滅亡したあと、1590年(天正18年)に「徳川家康」が江戸城に入城しました。

徳川家康は江戸城の改修工事を計画。天下普請(諸大名に対して城などの工事に参加することを強制した徳川幕府の命令)により全国の大名を召集し、改修工事に参加させます。このとき参加していた大名は、「加藤清正」(かとうきよまさ)や「福島正則」(ふくしままさのり)、「加藤嘉明」(かとうよしあき)など。なお、城の設計は、徳川家康の信頼が厚かった築城の名手「藤堂高虎」(とうどうたかとら)が担当したと言われています。

非常に大規模な改修工事のため、徳川家康の代では終わらず、二代目将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)、三代目将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)に引き継がれました。大改修が始まってから約30年後の1636年(寛永13年)、ようやく江戸城の全容が完成。江戸城は日本最大の規模を誇る、徳川幕府の権力を示す威厳あふれるお城となったのです。

しかし、1657年(明暦3年)、江戸では「明暦の大火」(めいれきのたいか)と呼ばれる大火事が起きて、城下町の多くの建物とともに江戸城は焼失。この大火事のあと、本丸や二の丸などは再建されましたが、権威の象徴とも言える天守は再建されていません。これは、「城下町の再建で財政難の時期に、実用性に乏しい天守を再建させる必要はない」という、当時の副将軍「保科正之」(ほしなまさゆき)の進言を幕府が聞き入れたからです。

それからの徳川幕府は江戸城を政治の中心地として長期政権を保ちましたが、1868年(慶応4年)に起きた明治維新により、幕府成立から約270年の歴史に幕を閉じました。これにより、江戸城は明治政府に明け渡されることに。

明治時代になり、首都が京都から東京へ移ると、江戸城は天皇陛下の住居となり、「皇城」(こうじょう)、「宮城」(きゅうじょう)と呼ばれていました。現在の江戸城は、皇居であるとともに、国内外から多くの人が訪れる東京を代表する観光地となっています。

江戸城に関連する事件

江戸時代、政治の中心地だった江戸城では数々の事件が起きました。そのなかでも日本の歴史に密接に関わった3つの事件をご紹介します。それぞれの事件に登場するのは、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)や井伊直弼、西郷隆盛といった歴史に名を残した著名な人物ばかり。かつて江戸城でどのような歴史的な事件があったのか、ぜひご覧下さい。

① 浅野内匠頭の刃傷事件

時代劇の定番である「忠臣蔵」のもとになったのは、1701年(元禄14年)に起きた「赤穂事件」(あこうじけん)です。この事件では、赤穂藩(兵庫県の赤穂市付近を所有した藩)の武士47名が亡き主君の敵討ちを果たしました。その赤穂事件の引き金となった出来事が、江戸城の「松の廊下」で起きています。

赤穂事件が起きる半年ほど前、赤穂藩の藩主「浅野内匠頭」は、朝廷の使者をもてなすという饗応役に選ばれました。その際、もてなしの礼儀作法を身に付けるために師事したのが、江戸幕府の重臣「吉良上野介」(きらこうずけのすけ)。しかし、浅野内匠頭は、吉良上野介から冷たくあしらわれてしまうのです。その原因は、赤穂藩が礼儀作法を習うのに十分な謝礼を払わなかったからだとされています。吉良上野介の度重なる無礼な態度に我慢の限界を迎えた浅野内匠頭は、ついに、江戸城の松の廊下で刀を抜き、吉良上野介に斬りかかったのです。命こそ奪えなかったものの、吉良上野介に傷を負わせる結果になりました。

この出来事のあと、浅野内匠頭は幕府から切腹を言い渡されます。しかし一方で、吉良上野介が罪に問われることはありませんでした。当時は争いごとが起きると喧嘩両成敗となるのが決まりだったにもかかわらず、浅野内匠頭だけが切腹したことに赤穂藩の武士たちは不満を募らせます。そして、主君の無念を晴らすため、吉良上野介の屋敷に討ち入りしました。これが赤穂事件の顛末です。

忠臣蔵でも、松の廊下で浅野内匠頭が怒りを爆発させる場面は、物語の見せ場のひとつ。残念ながら松の廊下は現存していませんが、皇居東御苑には「松之大廊下跡」の碑があり、忠臣蔵ゆかりの地となっています。

② 桜田門外の変

桜田門外の変

江戸城の南側にある桜田門(正式名称は外桜田門)は、1860年(安政7年)に起きた「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で有名な場所です。

この事件では、江戸幕府の大老である井伊直弼(いいなおすけ)が桜田門の外で暗殺されました。

暗殺を実行したのは、「関鉄之介」(せきてつのすけ)をはじめとした水戸浪士17名と薩摩藩士1名。井伊直弼による独裁政治を止めるために、このような手段をとったのです。

当時の井伊直弼は、朝廷に無断で米国と条約を結んだり、将軍の跡継ぎを独断で決めたりと、大老の立場を利用し、自らの意見を押し通していました。こうした行動は多くの反発者を生むことになりましたが、井伊直弼なりに理想を追いかけた結果なのです。事実、井伊直弼は指導者として評価されており、大河ドラマの主人公にも抜擢されました。

現在、桜田門付近には、「彦根藩井伊家上屋敷跡」という井伊家の屋敷跡が残っています。桜田門を見物した際には、ぜひこちらにも足を運んで悲劇的な最期を遂げた幕末の偉人を偲んでみてはいかがでしょうか。

③ 江戸城 無血開城

江戸城 無血開城

江戸城に関連する事件のなかでも、一際ドラマチックと言えるのが「江戸城 無血開城」です。幕末の日本では、徳川幕府の家臣たちを中心とした旧幕府軍と、薩摩藩と長州藩の志士などが集まった新政府軍が激しく戦いました。これがいわゆる戊辰戦争です。この戦いでは新政府軍が優勢に立ち、旧幕府軍を本拠である江戸城に追い詰めます。

新政府軍が江戸城に攻めこめば、江戸の城下町に大きな被害が出るのは免れません。そこで、これを回避するために、旧幕府軍の幹部である勝海舟は、新政府軍の指導者・西郷隆盛に会談を持ち掛けました。

新政府軍による江戸城総攻撃が1868年(慶応4年)3月15日に予定されているなか、その直前である3月13日と3月14日に、2人は江戸城下町にある薩摩藩の屋敷で会談を決行。そして、「江戸城を明け渡せば総攻撃を中止する」という交渉をまとめたのです。これにより、ひとりの犠牲者を出すことなく、平和裏に江戸城は無血開城となったのです。

現在、東京都港区にあるJR「田町駅」周辺には、「西郷隆盛と勝海舟の会見の地」であることを示した石碑があります。この石碑を前にすれば、2人の偉人が江戸を救うために話し合う様子を思い浮かべることができるでしょう。

江戸城の特徴

日本のお城は、それぞれ個性的な特徴を持っているところが大きな魅力です。江戸城は、日本のお城のなかで最も面積が広く、見応えのある芸術的な石垣があるなど、名城ならではの魅力的な特徴を備えています。ここでは、江戸城の代表的な特徴を3つご紹介するので、観光の際はぜひ参考にしてみて下さい。

① 日本一の広さ

日本一の広さ

日本のお城のなかで一番の面積を誇るのが江戸城です。その広さについて解説する前に、まずは江戸城の構造について触れていきます。

江戸城は、内郭と外郭から形成される二重構造の城郭です。内郭は、本丸の周囲を二ノ丸、三ノ丸、西ノ丸、北ノ丸が渦巻き状に取り巻く「輪郭式」(りんかくしき)の構造。現在、観光客で賑わうエリアは、江戸城の内郭にあたります。江戸時代には、この内郭を同心円状に外郭が取り囲んでいました。江戸城の外郭は、総延長が約14kmもある驚異的な広さです。豊臣秀吉の築いた名城・大阪城は、外郭の総延長が約8kmなので、これと比較すると、いかに江戸城が広いかが分かります。外郭を形成しているのは、隅田川や神田川といった自然の河川と、人工的につくられた外濠。現在の東京の地理で説明すると、北はJR「水道橋駅」、東は両国橋、南は地下鉄「虎ノ門駅」、西はJR「四ツ谷駅」あたりまでが外郭の範囲となるのです。

このように非常に大規模な城郭であった江戸城には、内郭や外郭に沿って数多くの「見附」(みつけ)が設けられていました。見附とは、見張り番を置いた城門のこと。地名としても残っている赤坂見附では、赤坂門跡の石垣を見ることができます。

江戸城観光の際は、数ある見附の跡地を巡ってみると、江戸城がいかに広大であったのか実感することができるでしょう。

② 城門が豊富

城門が豊富

広大な江戸城には、なんと123棟もの城門が設けられていました。江戸時代、城内では将軍をはじめとした徳川家の要人たちが働いていたので、いくつもの城門を設けて警護を固める必要があったからです。

数ある城門のなかで特に注目すべきは、内郭にある田安門、清水門、外桜田門の3棟。この3棟は、「桝形門」(ますがたもん)として往時の姿を留めていることから、非常に歴史的価値が高く、重要文化財にも指定されています。

桝形門とは、城の出入口に四角形のスペースを設けて、その内側と外側に門を二重に設置した防衛機能を持つ門のこと。外側の門から四角形のスペースに入ってきた侵入者に対して、内側の門をはじめとする3方向から攻撃を仕掛けられるという利点があり、敵が容易に侵入することができない構造になっています。

江戸城を訪れた際は、桝形門をはじめとする数々の城門をじっくり見物することで、要塞としての魅力を楽しむことができるでしょう。

③ 芸術的な石垣

芸術的な石垣

江戸城の見どころのひとつは、立派な石垣です。石垣は、防衛施設としての役割だけでなく、まるで美術館の展示品のような芸術性も備えており、お城を美しく見せる大きなポイントにもなっています。

江戸城で最も目を引く石垣と言えば、カラフルなモザイク模様。このモザイク模様の秘密は、複数の産地から石材を取り寄せたことにあります。伊豆半島からは黒い石、瀬戸内海の小豆島からは白や茶色の石というように、日本各地から様々な色の石を集めて、石垣を色鮮やかなデザインに仕立てたというわけです。

また、江戸城の石垣には、当時の最高峰の技術を持つ職人たちによる加工が施されています。表面をノミで削って装飾していく「はつり」や、そのなかでも直線の装飾を施した「すだれ」など、江戸城の石垣を見物するときは、そのデザイン性と繊細な加工技術にも注目してみましょう。

江戸城の観光名所

江戸城には数々の観光名所がありますが、ここでは代表的な3ヵ所をご紹介します。かつて日本一の高さを誇る天守が建てられていた天守台、天守の代用とされた富士見櫓、皇居正門前の堀にかかる二重橋です。江戸城を観光する際は、ぜひ、こちらに足を運んでみましょう。

① 天守台

天守台

皇居東御苑内には御影石で築かれた天守台があり、東西約41m、南北約45m、高さ約11mという大きさです。1607年(慶長12年)に二代目将軍・徳川秀忠が天守を築き、その後1638年(寛永15年)、三代目将軍・徳川家光が天守を建て替えています。徳川家光時代の天守は5層6階で高さ約58mという日本一の規模だったものの、1657年(明暦3年)の明暦の大火により焼失。それ以降、天守台は再建されたものの、天守は再建されませんでした。現在、天守台は展望台のようになっており、登ることができます。

② 富士見櫓

富士見櫓

皇居東御苑にある富士見櫓は、江戸城内に現存する櫓のなかでは唯一の三重櫓で、石垣の高さが約15m、建物の高さが約16mあります。現存しているのは、1657年(明暦3年)に起きた明暦の大火により焼失した後、2年後に再建された櫓。大火の後も再建されなかった天守の代わりとなった櫓でもあり、江戸城を象徴する非常に貴重な遺構です。徳川家の将軍は、この富士見櫓から富士山や品川の海、両国の花火大会を眺めたと言われています。

現在、富士見櫓に入ることはできませんが、2016年(平成28年)11月、富士見櫓前に広場ができたことで、従来と比べて近くから眺めることができるようになりました。また、皇居側から見学したい場合は、皇居一般参観(無料)がおすすめです。一般参観には、事前申請もしくは当日受付にて申込みできますが、見学可能日や定員が決まっているので宮内庁の公式サイトなどで確認しておきましょう。

③ 二重橋

二重橋

江戸城内の観光名所のなかでも、最も有名と言えるのは皇居外苑にある二重橋です。二重橋という名称は、江戸時代にこの橋をつくるとき、「橋桁」(はしげた/橋を支えるための土台)を二重にしたことに由来しています。二重橋とは皇居正門前の堀にかかる鉄橋のことで、正式名称は「正門鉄橋」と言いますが、その手前にある二重アーチ構造の石橋があまりにも印象的なため、この石橋を含めて二重橋と呼ぶことも。

皇居外苑から二重橋を眺めたとき、その奥に見える櫓が伏見櫓です。江戸城内に現存する櫓のなかで最も美しいと言われる伏見櫓を背景に二重橋を眺めると、威厳ある姿が際立ちます。江戸城内で写真を撮るなら、ぜひとも押さえておきたい風景です。

江戸城のボランティアガイド

ここでは、江戸城見学に役立つボランティアガイドについてご紹介します。

英語、仏語、独語、伊語、西語にも対応!豊富なコースが選べる

江戸城の見学で利用できるボランティアガイドは、無料と有料の2種類。「江戸東京ガイドの会」では、日本語以外に英語、仏語、独語、伊語、西語のガイドも行っています。江戸城を中心に美術館や博物館、記念館を回るコースや、明治維新の関連スポットをたどっていくコースなど、コースは全部で6種類です。

ガイド費用は、ガイド1名1回につき4,000円。その他ガイドの交通費、観光スポットへの入場料、移動交通費、飲食代などの実費がかかります。またコース以外の希望の観光スポットを案内してもらうことも可能です。

「公益財団法人菊葉文化協会」では、皇居東御苑で日本語と英語の無料ガイドを実施。江戸城の正門である「大手門」からはじまり、「富士見櫓」(ふじみやぐら)や天守台を通って太田道灌公追慕之碑までのコースです。

こちらは定例ガイドであるため、予約は必要ありません。水曜日と土曜日に対応可能で、日本語ガイドについては10時30分~と13時20分~の2回があります。

皇居東御苑の敷地内にある植物をメインに解説する植物観察ガイドもあるので、興味のある方はぜひ利用してみてはいかがでしょうか。

※この記事は、2020年(令和2年)6月時点の情報に基づいて作成されています。

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