ご希望の日本の城情報を無料で検索できます。ホームメイト・リサーチTOP

日本の城

城情報

国宝五城「姫路城」の歴史と特徴/ホームメイト

姫路城

兵庫県姫路市にそびえ立つ姫路城は、1346年(正平元年)に赤松貞範(あかまつさだのり)が前身となる姫山城を築いて以来、豊臣秀吉(とよとみひでよし)や池田輝政(いけだてるまさ)、本多忠政(ほんだただまさ)など、あまたの戦国武将によって「木造建築の傑作」まで高められた、日本屈指の名城です。
江戸時代初頭の城郭建築技術を極めたとされる姫路城は、外観の美的完成度の高さはもちろん、軍事的役割を兼ね備えた独自の構造が高く評価されています。1931年(昭和6年)には天守閣が国宝に、1993年(平成5年)には、奈良県の法隆寺とともにユネスコによる日本初の世界文化遺産に指定されました。
ここでは姫路城の歴史について、詳しく見ていきましょう。

姫路城の歴史

上山里下段石垣
上山里下段石垣

姫路城の歴史は実に長く、14世紀までさかのぼります。

鎌倉、南北朝時代の武将である赤松則村(あかまつのりむら)は、1333年(元弘3年)姫山に砦を築きました。のちに1346年(正平元年)、彼の次男である赤松貞範により改修された城こそが、姫路城の前身となるものです。

やがて時代がくだり、1467年(応仁元年)には赤松政則(あかまつまさのり)が本丸・鶴見丸・亀居丸を築き、その後は黒田重隆(くろだしげたか)、黒田職隆(くろだもとたか)親子の手によって、小規模だった姫山城は、山の地形を活かした山城に拡張されていきます。山城とは、自然の山を削り固めて、堀や土塁、平坦地などを造成した城郭のこと。南北朝時代や戦国時代には、相当な数の山城が築かれました。

そして、1580年(天正8年)に西国統治の拠点として豊臣秀吉が入城すると、さっそく豊臣秀吉は姫山の地を中心に城を大改修。城郭を石垣で囲い、太閤丸に三層の天守を建立し、姫路城と改名します。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いののち、三河国吉田から入城して城主となった池田輝政は、入城した翌年に城の大改築に着手します。実に9年もの歳月を費やして、1609年(慶長14年)に五層の大天守を完成させました。

その後、1617年(元和3年)に城主となった本多忠政により三の丸、西の丸が増築され、現在のかたちとなったのです。

なお、姫路城の天守は、1873年(明治6年)、1935年(昭和10年)、そして2009年(平成21年)と過去3回にわたって大規模な修復が行われています。中でも5年半かけて着工された2009年(平成21年)の「平成の大修理」では、屋根瓦の噴き直しと漆喰の塗り替え、構造の補強などが見直され、より美しい姿となって、再び私たちの前に現れました。

姫路城の特徴

大天守と小天守
大天守と小天守

標高45.6mの姫山に位置する姫路城は、国宝5城の中でも最大規模の天守を持つお城です。

築城以来、大きな戦災を受けず、大天守や小天守、などおおよそ100棟近くの建築物が現存していることから、「不戦・不滅の城」と呼ばれています。近世城郭の比類なき最高傑作として、1993年(平成5年)には、世界遺産にも登録されました。また、日本の城の集大成とも呼べる姫路城は、白漆喰で塗り込められた外観が、まるで羽を広げる白鷺の群れに見えることから、別名「白鷺城」とも呼ばれ、親しまれています。

これは、池田輝政が築城した際に、「白漆喰総塗籠造」(しろしっくいそうぬりごめづくり)という方法で、城壁や屋根瓦の目地を白く塗り込み、今の姿となりました。

姫路城の天守は5重6階の大天守と3つの小天守(東小天守、乾小天守、西小天守)が渡櫓(わたりやぐら)でつながった連立式天守です。いくつもの屋根や唐破風、千鳥破風が重なり、白漆喰の城壁と相まって実に美しい構成を成し遂げています。

もちろん姫路城は、ただ優美で華やかなだけではありません。

上山里曲輪
上山里曲輪

古くから姫路という土地は、西国諸大名の動向を監視するための重要な要衝でした。城郭は「曲輪(くるわ)」と呼ばれる石垣や塀で囲い、天守曲輪を中心に二の丸、三の丸を螺旋状に配置した縄張が築かれ、さらに大小の曲輪で区切ることによって、まるで迷路のように入り組んだ構造を実現。これにより敵の侵入を防いでいたのです。同時に、石落としや矢狭間、鉄砲狭間など敵を攻撃するための軍事設備も備わり、優れた要塞としての機能も果たしていました。

姫路城は、天守が残る現存12天守のひとつとしても名高く、大天守・小天守・渡櫓などの8棟が国宝に、また渡櫓や門、塀など合わせて74棟が重要文化財に指定され、今も多くの観光客を魅了しています。

姫路城のみどころ

姫路城の面積は、内曲輪以内が約23㏊、外曲輪以内が約233㏊と実に広大な造りになっています。ここでは、世界中のファンが多く訪れる姫路城の名所スポットについて、ご紹介していきましょう。

菱の門(ひしのもん)

菱の門
菱の門

姫路城、最初にして最大の門で、二の丸へ通ずる入り口を固める櫓門です。外敵からの侵入を防ぐため、門には色々な工夫が凝らされています。例えば門は「枡形虎口」(ますがたこぐち)と呼ばれる型を採用。なだらかな勾配と通路を左や右に進ませることで、攻撃の勢いを削ぎます。門の上部には、石落としの穴があり、攻め込んできた敵を石や槍で攻撃。さらに東側には、馬見所(ばけんじょ)、西側には門番部屋、上層階には城兵が籠もることのできる部屋があり、ここからも応戦できるようになっています。

なお、櫓門は、欅材(けやきざい)で造られており、両柱の上部には、木彫りの菱紋が飾られていることから、「菱の門」と名付けられました。

西の丸・化粧櫓(けしょうやぐら)

西の丸・化粧櫓
西の丸・化粧櫓

徳川家康(とくがわいえやす)の孫・千姫にゆかりのある西の丸には、「化粧櫓」(けしょうやぐら)があります。

7歳で豊臣秀頼(とよとみひでより)に嫁いだ千姫は、祖父・徳川家康と実父・徳川秀忠(とくがわひでただ)による大阪城攻撃のために19歳で夫を失うことになりましたが、その後、本多忠刻(ほんだただとき)と出会い、再婚。本多忠刻の父・本多忠政が姫路城に入城し城主になると、千姫の居室として、化粧料10万石で化粧櫓が与えられました。

西の丸長局(百閒廊下)

西の丸長局(百閒廊下)
西の丸長局(百閒廊下)

西の丸を囲むように築かれた長屋で、その長さは約300m。そして、廊下に面していくつも並ぶ小さな部屋には、千姫の侍女たちが住んでいました。なお千姫は毎朝、この廊下から本多家の繁栄を願い、男山の中腹に建てられた社(男山千姫天満宮)を遥拝したと言われています。

帯の櫓(おびのやぐら)

櫓

姫路城内で、もっとも高い石垣の上に建てられた櫓で、高さは約23mです。当時、南側の数寄屋風の長屋1棟だった場所に、北・東側と物見櫓を増設したため、平面はコの字型になっています。南棟は全部で3室あり、簀子(すのこ)や床の間があることから、茶室として使われていたと伝えられています。

本丸

大天守
大天守

本丸は標高約45.6mの山頂にあります。天守のある天守丸は、5重6階、地下1階の計7階の構造で、内部には高さ約24.6m、太さ約95mの心柱が東西に2本、地下から最上階の床下まで貫き、建物を支えています。

なお、天守は大天守を中心として、3つの小天守(東小天守、乾小天守、西小天守)と4つの渡櫓(イの渡櫓、ロの渡櫓、ハの渡櫓、二の渡櫓)でつながれた連立式天守。唐破風、千鳥破風が幾重にも重なり、白漆喰の外観との美しい構成を成し遂げているのです。

二の丸

りの門
りの門

姫山の中腹にある二の丸は、山の高低差を利用して、三国堀曲輪や上山里曲輪など数多くの曲輪が設けられています。そして外敵が侵入しにくいように、曲輪は土塀で囲われ、周辺にはいくつもの櫓や門を設置。

最も高い場所にある本丸へたどり着くには、迷路のように入り組んだ通路を進まなくてはなりません。

二の丸にある櫓や門はいずれも重要文化財として、指定されています。

三の丸

千姫ぼたん園
千姫ぼたん園

三の丸は、姫路城の桜門をくぐってすぐの視界に広がるエリア。本多忠政以降の藩主たちは、この場所に本城や迎賓館、広大な庭園を設け生活をしていたとされています。しかし明治初期、廃城となった際には、向屋敷や庭園は取り壊されてしまいました。今では整備され、三の丸広場として人々の憩いの場となっています。

なお三の丸の西側には、かつて武蔵野御殿とよばれる千姫のための別宅がありました。現在、跡地は「千姫ぼたん園」として親しまれています。

お菊井戸

お菊井戸
お菊井戸

姫路城にまつわる怪談話「播州皿屋敷」としても有名なお菊井戸です。上山里丸(かみのやまさと)という広場にあり、かつては、釣瓶取井戸(つるべとりいど)とも呼ばれていました。

青山播磨守主膳(あおやまはりまのかみしゅぜん)に奉公していた女中・お菊は、青山の家臣・町坪弾四朗(ちょうのつぼだんしろう)により「青山の大事にしていた皿10枚のうち、1枚を割った」という無実の罪で責め殺されて、その遺体を井戸の中へ投げ込まれてしまいます。

以来、夜な夜な古井戸からは、皿を数えるお菊の悲しげな声が聞こえるようになりました。そして、お菊が投げ込まれた井戸こそが、「お菊井戸」であり、怪談として人々に伝えられています。

扇の勾配

扇の勾配
扇の勾配

1601年(慶長6年)以降、池田輝政によって備前丸西側に築かれた石垣。

隅角部には、長方形の石を長短が交互になるように組み合わせ積み上げる、算木積み(さんぎづみ)が見られます。

なお、石垣の形が、まるで扇を開いたような曲線を描いていることから、「扇の勾配」と呼ばれています。

扇の勾配は、上部にいくほど急傾斜になっており、敵の侵入を防ぐには十分でした。

姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」

姫路城西御屋敷跡庭園・好古園
姫路城西御屋敷跡庭園・好古園

好古園は、姫路城西側の武家屋敷跡地に造られた日本庭園です。四季折々の風情を楽しむことが出来る名所として、多くの観光客が訪れます。庭園の総面積はなんと3.5㏊。

江戸時代の建築を再現した庭園は、映画や時代劇のロケ地にも選ばれました。

また、好古園には数寄屋造りの茶室「双樹庵」があり、美しい景色を眺めながら、抹茶と生菓子を堪能できます。

城ガールにオススメの姫路城 観光スポット

千姫天満宮
千姫天満宮

白く美しい天守がフォトジェニック(※1)な姫路城は、城ガールに人気です。こちらでは、姫路城とその周辺にある城ガールにおすすめのスポットをご紹介しましょう。

姫路城内には、恋愛運アップが期待できるパワースポットがあります。

姫路城には、政略結婚が普通だった時代に珍しく恋愛結婚をした「千姫」が住んでいました。このため、姫路城西の丸にある百間廊下から「男山千姫天満宮」を撮影し、スマートフォンの待ち受け画面に設定するとご利益があると言われており、また桜の季節だとよりいっそうの恋愛運アップが期待できます。

大手前通りから姫路城を望む
大手前通りから姫路城を望む

姫路駅と姫路城は徒歩で約20分。道中とその周辺にはおしゃれなお店や女子力がアップするようなお店が点在していて、城ガールが姫路城散策のついでに立ち寄るのにピッタリです。

SNS映えする和菓子を販売する「甘音屋 姫路北店」では、カラフルな最中・笑美玉(えみたま)が、お土産におすすめ。みかんがまるごとひとつ入った季節限定の大福なども販売しています。

さらに「BUENA VISTA」は、色彩豊かなメニューを提供しているカフェです。アンティーク雑貨が並んでいる店内はフォトジェニック。看板猫の写真が撮影できることもあります。

また姫路城近くにある「spice スエヒロ」は、おしゃれなインテリアと数々の美容本があり、女子力があがるようなカレー店。スパイスが多数使われたカレーは、体に優しいです。

この他にも、華やかな見た目のかき氷が食べられる「ひめじ官兵衛堂」、こたつの席でゆっくりできる「段cafe」などもあります。

※1 フォトジェニック(photogenic)とは「写真映えする」という意味を持ち、「写真」を意味する(photo)と「~に適した」を意味する(-genic)を掛け合わせた言葉。

姫路城のボランティアガイド

ここでは姫路城をより深く知るためにおすすめのボランティアガイドについてご紹介します。

姫路城と姫路城御屋敷跡庭園「好古園」の親切丁寧なガイドが魅力

姫路城のボランティアガイドでは、シルバー観光ガイドが親切丁寧なガイドを行っているのが特徴です。様々な研修や経験を積んだガイドが、姫路城と姫路城御屋敷跡庭園の好古園を案内し、本丸や石垣、門など各所のエピソードを交えながら解説。はじめて姫路城を訪れる人も、城と庭園の魅力をより深く理解できます。

現在、ガイド1名につき個人利用者は6~7名以内、団体利用者は10名以内。ガイド料は、姫路城のガイドが1名につき2,000円(入城料は別途)、好古園のガイドが1名あたり1,000円(入園料は別途)です。

所要時間は、姫路城が1時間30分~2時間、好古園が約40分。開城(開園)時間は9~17時(入城は16時30分まで)となっています。なお、姫路城の繁忙期には、好古園のガイドを受け付けていない場合もあるため、注意しましょう。

通年、土日祝日限定で定時ガイドも実施。10時と13時の1日2回で2時間以内、1~3名の個人グループが対象で、料金は申込み1名につき500円です。天守閣から西の丸庭園までの案内となっており、百間廊下は含まれません。予約優先のため、前々日までに電話かFAXで予約しておきましょう。

※この記事は、2020年(令和2年)6月時点の情報に基づいて作成されています。

施設の紹介動画

施設の紹介動画

姫路城を紹介するダイジェスト動画をご覧頂けます。

ページ
トップへ
ページトップへ