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「現存天守12城」に選ばれている「丸亀城」、日本三大水城のひとつ「高松城」、城壁の9割が天然の崖である「屋嶋城」など特徴的な城がある香川県。香川県に行くなら観光したい城3選と称して、「丸亀城」「高松城」「屋嶋城」の特徴や施設、アクセス情報などをまとめました。

安賀川 国光と桃原 ふね
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香川県の著名な城3選

香川県の著名な城3選

香川県には、「現存天守12城」に選ばれている日本一石垣が高い「丸亀城」、中津城・今治城に並ぶ日本三大水城のひとつ「高松城」、667年(天智6年)に築かれたと言われ城壁の9割が天然の崖である「屋嶋城」など特徴的な城が数多くあります。

ここでは、香川県に行くなら観光したい城3選と称して、「丸亀城」「高松城」「屋嶋城」にスポットをあて、その特徴や施設、アクセス情報などをまとめました。

丸亀城

丸亀城

丸亀城は1597年(慶長2年)に生駒親正(いこまちかまさ)と生駒一正(いこまかずまさ)が築いたのが始まりとされ、当初この城は「亀山城」と呼ばれていました。

丸亀城は織田信長の居城である安土城や、豊臣秀吉が築いた大阪城の構造を参考にして造られているのが特徴です。天守がある城郭だけでなく城下町や武家屋敷を整備し、これらを囲む土塁を造って守りを固めました。

その後、丸亀城は本格的な近世城郭に改築され、現在は日本一高い石垣の城として知られており、現存天守12城のひとつとなっています。また、国指定史跡、国指定重要文化財、県指定有形文化財にもなっているのです。

丸亀城はどんな城?

丸亀城は丸亀平野の北、現在の丸亀市中心街のやや南に位置する、標高約70mの亀山を中心に螺旋状に内堀や外堀、石垣を築き上げた平山城です。縄張りは連郭式と輪郭式を併用しており、石垣の高さは約60mと日本一を誇ります。

1532年頃(天文年間)の亀山城は奈良氏の支配下にありました。しかし、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻によって奈良氏が敗走。その後、亀山城は長宗我部元親の支配下になりますが、長宗我部氏の四国支配も長続きせず、豊臣秀吉の四国出兵により降伏しました。

豊臣秀吉の支配下となった讃岐は、1587年(天正15年)生駒親正の領国となります。1597年(慶長2年)に西讃岐の抑えのため、要害だった亀山の地を必要と考えた生駒親正は亀山城を丸亀城と名づけ改築。生駒氏は高松城を居城としており、丸亀城は支城でした。生駒親正が隠居後高松城におり、跡を継いだ嫡子の生駒一正が丸亀城で西讃岐の抑えに当たったと言われています。

1615年(元和元年)に一国一城令が出され、支城だった丸亀城は廃城となりました。また、生駒氏の4代目にお家騒動が起こったことで改易され、讃岐の国は伊予の諸藩に分けられることになったのです。その後山崎家治が、西讃岐の約5万石を与えられて領主となります。

1641年(寛永18年)に西讃岐に入った山崎家治は、2年後の1643年(寛永20年)に廃城だった丸亀城再建を始め、山崎家治の居城としました。全体の縄張りは生駒氏時代のものを踏襲しましたが、石垣の大部分は名築城家であった山崎家治の時代の物と言われています。

丸亀城の石垣を築いたのは、山崎家治の石工の羽坂重三郎。今もなおその姿を誇る日本一の石垣の完成に気を良くした山崎家治は、この石垣を登ることのできる人間はいないだろうと羽坂重三郎を褒めました。しかし、自分で組んだ石垣のすべてを知り尽くしていた羽坂重三郎は、山崎家治の目の前で軽々と乗り越えて登ってしまいました。これに恐れをなした山崎家治は、石垣の秘密を知る羽坂重三郎を暗殺して口を封じました。

そして山崎氏は3代藩主が幼くして病死し、1657年(明暦3年)に跡継ぎがいなくなり断絶。その後に西讃岐に入ったのが京極高和です。丸亀城の修築・整備は京極高和に引き継がれ、2代藩主京極高豊の時代に完成しました。

丸亀城は江戸年間を通じて京極氏の居城として繁栄し、明治維新を迎えます。1869年(明治2年)に一部焼失し、廃藩置県後に他の建物も取り除かれました。残ったのは天守、大手門、御殿表門の一部等です。

丸亀城の主な特徴・施設

大きな特徴は日本一高いという石垣。なかでも三の丸北側の石垣は20m以上にも達する上、緩やかな曲線を描くように緻密に計算されて積まれています。この石垣は美しい曲線から「扇の勾配」とも呼ばれるようになりました。

丸亀城は、現在も三重三階の天守を目にすることができ、日本の城砦で現存する12天守のひとつとなっています。木造でありながら15mもの高さがあり「唐破風」や「千鳥破風」といった装飾もほどこされていて一見の価値ありです。

また、大手門から天守に向かうときに通る道は急な坂道となっており、立ち止まって振り返りたくなる坂として「見返りの坂」と呼ばれています。

1919年(大正8年)、丸亀城内の一部が開放され「亀山公園」となりました。終戦後は全域を開放し、資料館などを設立。例年は、桜の季節になると桜まつりが行なわれる花見の名所です。

【施設情報】

施設名 丸亀城
所在地 香川県丸亀市一番丁
電話番号 0877-22-0331(丸亀市観光協会)
アクセス ・JR丸亀駅から徒歩約10分
・高松自動車道「坂出」ICから国道11号を丸亀方面へ(JR丸亀駅まで約20分)
・高松自動車道「善通寺」ICから国道11号に乗って丸亀方面へ(JR丸亀駅まで約20分)
施設詳細 https://www.homemate-research-castle.com/dtl/00000000000000471209/

高松城

高松城

高松城日本三大水城のひとつ。北と東が瀬戸内海に面し、西南に標高200mもの石清尾山が要害となり、南は讃岐平野に開けるという、典型的な「後ろ堅固」の水城です。

現在も一部が残っている内堀や、外堀に海水を引き込み城の周りに幅の広い堀が三重に巡らされるという、海上に浮かんで建つような美しく堅固な城でした。遺構として残る月見櫓、続櫓、水手御門、渡櫓、艮櫓(うしとらやぐら)などが重要文化財に指定され、城内は史跡高松城(玉藻公園)として良好な保存状態を保っています。現在は見ることのできない天守も復元へ向けての取り組みが活発に行なわれているのです。

高松城はどんな城?

高松城は、1587年(天正15年)に讃岐領主となった生駒親正によって築かれた城です。豊臣秀吉が四国を平定したのは3年前の1584年(天正12年)でしたが、讃岐には地元の勢力が根強く残っており、仙石秀久や尾藤智宣と領主が変わっても、なかなか国内を統治できずにいました。

そこで入国したのが生駒親正。生駒親正は居城を引田城、聖通寺城と移しながら、戦が相次ぎ疲弊していた国力の回復など、国内の統治を進めていきました。そして最終的に居城を構えたのが高松城なのです。

海や川に囲まれた高松城は地盤が軟弱な砂地で築城の難しい土地だったため、高松城の縄張りには極めて高い知識や技術が必要でした。担当した人物には諸説ありますが、黒田如水細川忠興藤堂高虎、水城の築城技術に通じていた小早川隆景などがいたと言われています。

高松城の基礎は生駒氏の時代に形成されましたが、生駒氏は4代で改易。その後、1642年(寛永19年)に高松城に入ったのが松平頼重です。松平頼重は徳川家康の孫で、水戸黄門の俗称で知られる水戸光圀の同母兄に当たります。

松平頼重は、それまで三重四階だった天守を三重五階に立て替え、北の丸に櫓を築くなど、高松城を強化。特に天守は小倉城の南蛮造りをモデルにした特異な構造でした。その後、明治に入って高松城は取り壊され、現在は天守台が残るのみとなっています。

1869年(明治2年)の版籍奉還で、高松城は兵部省(のちの陸軍省)に接収。その後、大正の時代までに3回にわたって行なわれた高松港造成工事により、高松城は往時の姿を失っていったのです。その後の戦火でさらに焼失し、現在残っているのは重要文化財にも指定されている月見櫓、水手御門、渡櫓、艮櫓などとなっています。

高松城の主な特徴・施設

現在も残る艮櫓は1677年(延宝5年)に建築されたもので、三重三層入母屋造の櫓。第二の天守とも呼ばれる堂々たる姿で、第一重に鋭角な千鳥破風(ちどりはふ)、第二重に唐破風があり、各層に銃眼があります。軒垂木が見えない総塗籠(そうぬりこめ)という特異な形です。

月見櫓は艮櫓の前年に建築されたと見られており、三重三層総塗籠であるのが特徴。第一重に切妻破風と唐破風、第二重に唐破風があり、艮櫓同様に軒垂木が見えない総塗籠が施されています。

天守が置かれていた天守台は、1902年(明治35年)ごろに松平頼重を祀る玉藻廟(たまもびょう)が築かれました。しかし、2006年(平成18年)の天守台石垣の修理工事の際に解体されています。現在の天守台は修理を終え、江戸時代のままの姿を見ることが可能です。

高松城天守の復元は高松市民の希望でもあり、現在も様々な調査が行なわれています。また、江戸時代当時の高松城全域のCGも作成され、VRアプリで配信。天守については、アプリを使うと現存する天守台の上に天守の映像を重ねて見ることができます。アプリで江戸時代の姿を目にしながら玉藻公園内を散策してみるのもおすすめです。

【施設情報】

施設名 高松城(玉藻公園)
所在地 香川県高松市玉藻町2番1号
電話番号 087-839-2660(高松市文化財課)
アクセス ・電車:ことでん高松築港駅から徒歩約2分、JR高松駅から徒歩約5分
・バス:高松築港停留所から徒歩約2分、高松駅停留所から徒歩約5分
・車:高松中央ICから約20分
施設詳細 https://www.homemate-research-castle.com/dtl/00000000000000472354/

屋嶋城跡

屋嶋城跡

屋嶋城は「やしまじょう」ではなく、正しくは「やしまのき」と呼び、築かれたのは667年(天智6年)と伝わっています。唐と新羅の連合軍に攻め滅ぼされた百済を助けるために日本が出兵した白村江の戦いで、日本軍は大敗して敗走しました。その後、唐や新羅の侵攻に備えるため対馬から九州、瀬戸内海沿岸を経て大和に至るまでの地域にいくつかの朝鮮式山城を築いた内のひとつが屋嶋城です。

遺構が少なく、その実体はよく分からなかったのですが、1998年(平成10年)に屋島の南麓山上部で石積みが発見されたのをきっかけに発掘調査が始まりました。その後、城門遺構なども発見され、全体像が分かるように。調査結果に基づいて城門遺構整備事業が行なわれ、2016年(平成28年)から一般公開されています。

屋嶋城はどんな城?

屋嶋城は、現在は自然保護地区となっている屋島半島に位置します。江戸時代の初期までは本島と切り離されて独立した島でした。しかし、今では高松藩の埋め立て工事により相引川がその面影を留めているのみとなりました。

屋嶋城の城壁は、山上において約7kmあったと考えられています。ただし、そのほとんどが天然の断崖絶壁で、人の手で作られた城壁は全体の約1割。屋島は北嶺南嶺という2つの山から構成されており、遺構が確認されているのは南嶺のみとなっています。北嶺と南嶺の間にある谷には、標高100m付近に別に城壁が築かれているのです。屋島の山頂の標高は292mで天然の要塞だったのですが、唐や新羅の侵攻がなく、屋嶋城の活用はありませんでした。

鎌倉時代になると、一の谷の戦い神戸市須磨区)で源氏に敗れた平氏が屋島に逃げてきました。1185年(元暦2年)に、屋島を舞台とした源平合戦が起こります。屋島の山頂部分は標高が高すぎたためか利用されず、京都から連れてきた安徳天皇の御所が築かれたのは山麓でした。現在安徳天皇神社が位置するところがその御所跡と言われています。

平家は屋嶋城を拠点として、京都奪還計画を練ります。しかし、一早く源義経が屋嶋城に攻め寄せてきました。そして、干潮時に屋島と四国本土との間の浅瀬を渡れることを知り、一気に攻撃。驚いた平家は戦わずして海上に逃げ、態勢を整えてから屋嶋城奪還を目指しましたが、それもかなわずさらに敗走し、平家滅亡の地・壇ノ浦に至るのです。

屋嶋城の主な特徴・施設

発掘調査によると、高いところでは約6mの城壁が築かれていました。そんな石積みが、現在は調査の結果に基づいて復元されています。大きな石が隙間なく積み上げられている石垣は迫力満点です。

屋嶋城では、専用アプリをスマホなどにダウンロードしておくと、調査に基づいてARで再現された古代の城門を見ることが可能。このアプリでは城門だけでなく、古代に独立した島だった頃の海のある景色も見ることができます。

屋島周辺には、上述した安徳天皇神社の他にも源平合戦ゆかりの史跡がいくつか存在。屋島の戦いで源義経の身代わりとなって討ち死にしたと伝わる源氏の武将「佐藤継信の墓」や、安徳天皇を守るために築かれたという「総門跡」を見ることが可能です。屋嶋城の南東には、那須与一が馬上から扇を射抜いたときに扇を立てたとされる「駒立岩」もあります。

【施設情報】

施設名 古代山城屋嶋城
所在地 香川県高松市屋島東町屋島山上
電話番号 087-823-2714
(高松市埋蔵文化財センター/平日8:30~17:15)
アクセス ・電車:ことでん潟元駅から徒歩約50分
・バス:JR屋島駅または琴電屋島駅から屋島山上までシャトルバスあり(片道100円/1時間に1本程度)
・車:屋島ドライブウェイで山上へ。駐車場から徒歩約10~15分
施設詳細 https://www.homemate-research-castle.com/dtl/75000000000000123915/

※この記事は、2020年(令和2年)12月時点の情報に基づいて作成されています。

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