ニューヨーク州北部からの電話は、まごうことなきあの声だった。家の中で無邪気に騒ぐ子どもたちに指図する、はっきりと澄んだ、少しだけバターを塗ったトーストのように歯切れのいい、あの口調だ。ジュリー・アンドリュースが「ハロー」と言う声を聞いただけで、たちまち『メリー・ポピンズ』とマリア・フォン・トラップに『プリティ・プリンセス』のクラリス・レナルディ女王をちょっとだけ混ぜた世界に入ってしまう。

ジュリー・アンドリュース 
Aflo
名声を決定づけた『サウンド・オブ・ミュージック』(1965)。

 しかし、彼女自身の人生には、エーデルワイスの歌も、傘を持って空を飛ぶようなこともほとんどなかった。11年前、彼女は回想録の第1巻目、『Home: A Memoir of My Early Years』というタイトルの本を出版し、カオスのような家族の歴史を明かした。

奇妙なほど大人っぽい歌声で美しいFの音が出せる少女は、10 歳で第2次大戦後のイギリスの薄汚れたミュージックホールを回り始め、アルコール依存症の母と義理の父を支えた。そこには、怒りや暴力、そしてもっと危険なことがあった。10代の頃のアンドリュースは、義理の父が自分のベッドに入ってこないよう、寝室の鍵をかけ始めた。

 今、彼女は、類まれな人生についての自伝の第2 巻目『Home Work: A Memoir of My Hollywood Years』を書き終えた。それは、その後の名声を確固たるものにした映画『メリー・ポピンズ』の撮影のため、幼なじみから恋人になり、のちに夫となったトニー・ウォルトンと生まれたばかりの娘エマとともに、1963年初頭、ロンドンからLAに飛ぶところから始まっている。

それから30年にわたり、彼女は世界的なスターダムや離婚、キャリアでは周期的なスランプも経験している。ベストセラーとなった第1巻目から、この続編を書くまで、これほど長い時間がかかったのはなぜだろう?「リサーチしたからよ」と、彼女はすぐさまキビキビと答える。

「30年分の私の古い日記をチェックするのに4年かかった。エマがすごく手伝ってくれて、日記から、私がその日どこにいて、何をしていたかという詳細を再構築してくれたわ」

日記を書くことが唯一、 
私をつなぎとめているものだった 
ことがあった。でも、エマにすべて 
見せても構わないと思った

 徹底的にやったことは間違いないが、自分だけの秘密にしていた日記を娘と一緒にひっくり返して見ることに不安はなかったのだろうか?

「日記を書くことが唯一、私をつなぎとめているものだったことが時々あったわ。でも、エマにそういうものをすべて見せても構わないと思った。それで『あなたは自分の家族を持った大人の女性なのだから、読んでショックを受けるようなことは何もないと思うわ』と言ったの。エマは、『ママ、私は本当に大丈夫よ』と。私たちは仲がいいし、お互い隠しごとが何もないの」と、アンドリュースは言う。

Year:  Month:  Page:
James Moore
『ハーパーズ バザー』1967年6月号のカバーに登場。

 自分の古い日記を読み返すという経験は、アンドリュースにとって必ずしも心地いいものではなかった。「私ったら、なんてバカだったのかしら!」と、彼女。「全部がごちゃまぜになっているの。ディナーに何を食べたのか書いていることもあれば、子どものうちの誰かに落胆していることもあって」

日記は、多いときで彼女が週に5回も通うことがあったセラピストのスケジュールが空いていないときに、告解のような役目を果たしていたようだ。そうしたページで、彼女は“混合の”家族を作り上げるというたいへんな仕事の不安をぶちまけている。彼女はエマのほかに、亡くなった2番目の夫で映画監督のブレイク・エドワーズ(たびたび自殺行為に近いうつ病に陥る傾向にあった)の子どもふたりの義母でもあり、1970年代にベトナムから迎えたふたりの養女の母親でもあった。

「当時、そうした複雑な家族構成を持つことは、今よりずっと珍しいことだったから、アドバイスもあまりなかった」と、彼女。「何より、私はうまくやりたかった。本当の母親になりたかったのよ」

 しかし、彼女はアーティストにもなりたかった。スイスのグシュタードとアメリカのマリブに家を持ち、その間を絶えず移動する旅費のためにお金が必要だったからだけではない。音楽を作るということが「私に絶対的な喜びをもたらしてくれるから」だ。

『メリー・ポピンズ』でオスカーを受賞し、次いで『サウンド・オブ・ミュージック』は世界的な現象になった。が、同作は賛否両論で、「The New York Times」紙は感傷的過ぎると片づけた。「批評家が好きなものと、一般人が好きなもの、アーティストとしての自分が好きなものは、とても違うわね」と、アンドリュースは振り返る。

Julie Andrews & Audrey Hepburn
Hulton Archive//Getty Images
1965年、オードリー・ヘプバーンとアカデミー賞の授賞式で。

 そしてそれが、その後30 年にわたって繰り返されたパターンだった。正当に評価された作品もあり、アンドリュースは、当時としては時代の先を行く、ジェンダーを交換したコメディ『ビクター/ビクトリア』でオスカーにノミネートされたが、他はあまり評価されなかった。

1968年のガートルード・ローレンスの伝記映画『Star!』(原題)はアンドリュースがミュージックホールについての深い知識を生かしたものだったが、批評家からも観客からも、新たな『サウンド・オブ・ミュージック』になっていないと受け入れられず、失敗した。

1976年、ラスベガスのシーザーズ・パレスでの長期公演はチケット完売となったが、それがもっとも満足のいく仕事だったとは考えていないようだ。ショービズの世界で約75年間活躍してきたアンドリュースは、物事を冷静に受け止め(「自分がベストを尽くし、そのとき与えられた仕事を誠実にやることが大事」)、どんなチャンスにも感謝することを学んだという。「私は母に叩き込まれたわ。自分と同じくらいの実力の人が常に出番を待っていると」と、彼女は言う。

 84歳になったアンドリュースは、1997年に声帯手術の失敗により歌えなくなるという出来事があったにもかかわらず、キャリアで見事な成功を収めている。手術はあまりにも大きなトラウマになり、詳しく話せるにようになる日がくるかどうかわからないほどだ。

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その代わり、彼女はエマと共同で子どものための本のシリーズを著して成功するなど、別の道でクリエイティブになった。2 年前には、演劇コーチ「Ms. Julie」として出演したNetflixの『ジュリーのへや』がヒットした。

現在は再びNetflixで、ションダ・ライムズの『Bridgerton』(原題)を制作中だ。時代ものの娯楽作品で、彼女はナレーターとなる舌鋒鋭いゴシップコラムニスト、レディ・ウィスルダウン役を演じる。「自分が元来持っていた声は失ってしまったけれど、そのお陰で、こういう新しいやり方でアートを作ることが私に多くの喜びをもたらしてくれて、この世界で生きる道を与えてくれた。素晴らしいことね」

ジュリー・アンドリュースの自伝『Home Work: A Memoir of My Hollywood Years』は現在発売中。

Translation: Mitsuko Kanno From Harper's BAZAAR March 2020