姫路城がこれほど美しい隠された理由──世界とつながっている日本の城 第5回

美しさだけが姫路城の魅力ではない。攻守に優れた築城術をときほぐす。
姫路城(himeji castle)がこれほど美しい隠された理由──世界とつながっている日本の城 第5回

日本初の世界遺産は江戸時代からの屈指の名城

平成5年(1993)、法隆寺と並び、日本で初めてユネスコの世界文化遺産に登録されたことからも、姫路城の価値は世界水準でお墨つきである。その理由のひとつは量的価値で、日本の城のなかでは現存建造物が圧倒的に多く、大天守をはじめ8棟が国宝に、74棟が重要文化財に指定されている。そのボリュームだけで十分に価値がある。

建造物が重層的に折り重なる。

だが、姫路城の価値は、たまたま残った建造物が多いから生じたのではない。江戸時代から名城の誉れ高く、だから残そうという機運が高まったといえる

明治6年(1873)1月、明治政府は陸軍省および大蔵省に悪名高い「廃城令」を発した。明治維新の時点で日本には、城持ちではない大名の本拠地だった陣屋も加えれば、300を超える城があった。それを廃城令で56の「存城」と、それ以外の「廃城」に分けたのだ。しかも「存城」にしても、後世の文化財としての保存とは意味がまるで異なり、陸軍の軍用財産とされただけだった。だから姫路城も、明治7年に大阪鎮台の歩兵第十連隊が三の丸に駐屯することになると、御殿は壊され、大手門など複数の門や櫓が競売にかけられた。残された建造物も荒廃するばかりだったが、保存の声があがったのは名城ゆえだろう。事実、江戸時代に書かれた各種道中記にも、「姫路城は日本一」という趣旨の記述が散見される

羽柴時代からある三国堀から天守を望む。

明治10年(1877)、飛鳥井雅古少佐が西郷従道陸軍卿代理に天守の修理を要請。翌年には中村重遠大佐が山形有朋陸軍卿に、名古屋城と姫路城の修理保存の建白書を提出した。それらが受理され、名古屋城と姫路城の保存が決まった。明治10年前後にはすでに、姫路城が名古屋城と並び、後世に残すべき格別の城として認識されていたということだ。

たしかに姫路城は美しい。石垣とその上に建つ白亜の櫓や門、塀が複雑に重なる景観は、失われた城郭の古写真や復元図と比較しても、唯一無二の美しさだ。特に大天守を囲んで3棟の小天守が立体的に重なり合う姿は圧巻である。

だが、姫路城の美しさは狙って生み出されたものではない。特別な美が誕生した理由を知るために、この城の歴史をひもときたい。

搦手口「との四門」23メートルの石垣上の「帯の櫓」から見た天守。

西国大名と大坂の豊臣秀頼を監視するための城

姫路城の中心部は本丸がある標高45.6mの「姫山」と、西の丸があるやや低い「鷺山」からなる。姫山に城が築かれたことが文献で確認できるのは16世紀半ばで、城主は黒田重隆。豊臣秀吉に仕えた軍師、黒田宮兵衛孝高の祖父だ。そして天正8年(1580)、2代のちの官兵衛が城主のとき、中国の毛利攻めに出る羽柴秀吉に、いくつもの街道が通る交通の要衝である姫路城を、無償で献上したという。

左側だけ石垣に乗る「菱の門」。

黒田家が城を構えていた地に秀吉が新たに築いた姫路城は、広範囲に石垣が積まれ、3層の天守が築かれた。織田信長が西国に出陣する際の御座所にも予定されていたので当然だろう。天正11年(1583)、秀吉が大坂城に移ると甥の秀長、続いて秀吉の正室おねの兄、木下家定の居城となった。しかし、いま見る姫路城は秀吉が築いた姿ではない。

関ヶ原の戦いののち、徳川家康の女婿の池田輝政が、論功行賞で52万石余りを賜って姫路に入城。池田氏は一族で100万石を擁する大大名となったが、家康は女婿に重い任務を課したのだった。輝政は外様ながら「西国将軍」の異名を得て、秀吉恩顧の大名が居並ぶ西国を監視し、大坂の豊臣秀頼にも目を光らせる役割を負ったのだ。

そういう前提で輝政が築いたのが、いま見る姫路城で、慶長14年(1609)までには現存する白亜の連立天守が完成した。三重の堀を左回りのらせん状にめぐらせ、城下町をも取り囲んだ総構えの城の原型が形づくられた。

菱の門東側の羽柴時代の石垣。

ところが、慶長18年(1613)に池田輝政が死去したのち、元和2年(1616)に8歳の光政が家督を継ぐと、幼少では枢要の地は守れないという理由で鳥取に移封され、徳川四天王のひとり本多忠勝の長男、忠政が15万石を賜り桑名から入封。この時代に西の丸が造成されたほか、三の丸の御殿群や各所の枡形虎口が整備されるなど、姫路城の全容が整った。

その本田家も寛永14年(1637)、大和郡山に転封となり、家康の外孫の松平忠明が入封。だが、家督を継いだ忠弘が14歳だったため、慶安元年(1648)に山形へ転封。家康の孫の松平直基が城主になるが、7歳の直矩が家督を継ぐと越後村上に転封。代わって榊原忠次が入封するも、2代のちの政倫がわずか3歳だったため、松平直矩が姫路城主に戻る。

頻繁な転封と入封は、寛延2年(1749)に、酒井家が城主になるまで繰り返された。西国大名の謀反を食い止める最前線であった姫路の城主は、譜代や親藩の重鎮が当てられただけでなく、幼少の城主は置かないという不文律ができていたのだ。

上山里曲輪の2段に積まれた羽柴時代の石垣。

羽柴時代の石垣と迷路のような進路

このように江戸時代を通じて重要な軍事拠点だった姫路城は、三重の堀に22の城門が設けられ、その多くは方形に囲んで2つの出入り口を設けた枡形虎口だった。しかし、徳川大坂城や名古屋城などと共通する整然とした景観は、建造物や石垣が折り重なる、見慣れた姫路城の景観と異なるようだ。実際、内堀内側の内曲輪に入ると、こうした典型的な枡形虎口には出会わない。

論より証拠で、内曲輪を天守に向かって歩いてみたい。昭和13年(1938)に設けられた桐外門(歴史的な門とは形状も大きさも異なる)を抜けた先の広大な敷地が三の丸で、江戸時代には東から、城主の休息所と迎賓館を兼ねた向屋敷、2代将軍徳川秀忠の長女、千姫の居館だった武蔵野御殿、藩庁で城主の居館でもあった本城が建ち並んでいたが、歩兵第十連隊の兵舎を建てるために、すべて撤去されてしまった。

右側だけに脇戸がつく「いの門」。

三の丸広場を抜け、有料区域に入ると二の丸で、釣鐘型の華燈窓で飾られ、金の飾り金具が打ちつけられるなど、古風な装飾の「菱の門」に迎えられる。だが、その前に門の東方の石垣を見ておきたい。自然石がほとんど加工されずに積まれた古式の野面積みで、大型の築石が混在している。その隅角部は、直方体の石の長辺と短辺を交互に積み重ねる算木積み(この技法は関ヶ原の戦い後に急速に発展した)がまだ見られない。つまり、羽柴時代に築かれたことがわかる。

さらに東方の上山里曲輪を囲む石垣は、自然石をそのまま積んだことがより明瞭で、石垣は2段になっている。羽柴時代は石垣による築城の草創期で、高石垣を積む技術が未熟だったため、2段にして補ったのだ。

狭い将軍坂。奥に見えるのが「はの門」。

さて菱の門だが、向かって左側だけ石垣に載る姿が変則的だ。続く「いの門」も「ろの門」も、片側だけに脇戸がつき左右対称ではない。その先の、時代劇『暴れん坊将軍』のエンディングに使われたため俗に「将軍坂」と呼ばれる狭い坂は、左手の石垣の一部が野面積で、羽柴時代の石積みが原型であるのは明らかだ。その先にある「はの門」は、門柱の礎石に燈籠や五輪塔の一部が転用され、これも石材の供給体制が整っていなかった羽柴時代の特徴である。

はの門を抜けて右折すると、左手の石垣は野面積みで算木積みも整っておらず、羽柴時代の特徴が顕著だ。ここで天守が間近に見えてくるが、進路はすぐにほぼ180度転回。天守から遠ざかり、急に狭くなって櫓の下のトンネルのような「にの門」に向かい、抜けると進路はふたたび90度屈曲する。天守までの進路は迷路そのものだ。

櫓の下をトンネル状にくぐる「にの門」。

旧式の縄張りと最新技術のハイブリッド

複雑な進路は敵の攻撃を削ぐうえで有効だし、建造物が幾重にも重なりあった姫路城の美しさは、入り組んだ石垣の上に櫓や塀が築かれたからこそ生じたものだといえよう。だが、それが意図されたものかといえば、そうではなさそうだ。

姫路城の内曲輪、特に姫山は、元来の地形や高低差を活かしながら小さな曲輪をひな壇上に並べた、羽柴時代の縄張りを活用して築かれている。事実、いま確認したほかにも、天守を囲む乾曲輪、西北腰曲輪、北腰曲輪などは、羽柴時代の石垣に支えられている。つまり、土木技術が未熟だった時代の構造を活かしたために、迷路のような通路ができたのだ。したがって、たとえば北腰曲輪の「ハの渡櫓」の軒先が美しい孤を描いているのは、それが乗る石垣が湾曲しているためだし、上山里曲輪東方の太鼓櫓の床面が大きく傾斜しているのは、ゆがんだ石垣の上に建っているからなのだ。

本田時代に築かれた西の丸は地山の岩盤を削り、その土砂で谷を埋め、周囲に高石垣を築いて平坦な土地を生み出している。比較すると姫山の縄張りの、旧式の特徴がよくわかる。

にの門を抜けると天守が身近だが、すぐ180度転回する。

一方、大天守と3棟の小天守を渡櫓で連結した連立式天守の石垣は、上物が建てられた慶長6~14年(1601~1609)に、新たに築かれた。それなのに平面の形はいびつだ。3つの小天守の平面は、いずれも正方形や長方形ではなく、ゆがんでいる。大天守も東面の石垣が南に向かって狭く、2層目まではゆがみを修正しないまま建てられている。

これら天守群は羽柴時代の天守を壊して建てられたものだが、昭和の大修理の際、大天守台のなかに羽柴時代の天守台が収まっているのが確認された。要するに、姫路城の象徴である連立天守も、石垣こそ新たに積まれたとはいえ、羽柴時代の縄張りに沿って築かれていたのだ。

先に天守群が立体的に重なり合う美しさに触れたが、この摩天楼が林立するかのような景観も、旧式の縄張りを基礎にした、狭い天守台に建てるほかなかったことの副産物ともいえる。天守群を中心に建造物が濃密に重なり合う美しさは、旧式の縄張りの上に最新の築城技術を応用したハイブリッドによって生み出された美なのである。

床面が大きく傾斜した「太鼓櫓」。

耐火性にすぐれた白漆喰総塗籠の意味

ところで、姫路城の現存建造物は、みな外壁が真っ白で、建造物の重層美は白壁がゆえに増している。この白壁は漆喰壁だ。まず、竹を縄で格子状に組んだ小舞という骨組みに、壁土を何層にも塗り、石灰に、海藻などを混ぜて練り上げた漆喰を上塗りする。姫路城のように建物全体を漆喰で塗り固めたものは、白漆喰総塗籠とよばれる。土壁の厚さは1尺(約30cm)から2尺にもおよび、姫路城の場合、その上に3cmもの厚さで漆喰が塗られている。

城郭建築が厚い土壁で覆われるようになった背景には、ヨーロッパからの鉄砲伝来による戦術の変化がある。石垣や瓦葺同様、銃弾や大砲の攻撃に耐えるためのものだ。熊本城のように壁面に下見板を張っていても、その下は分厚い土壁であったため、簡単には炎上しなかった。しかし、漆喰で塗り籠めたほうが防火性能は高まる。ただし、漆喰は水分が浸透しやすく、耐久性では下見板に適わなかった。つまり維持にコストがかかったのだ。

池田輝政が一族で100万石を擁し、西国将軍の任務を追っていればこそ、コストを度外視して防火性を優先できたといえる。それが姫路城の威容にもつながった。

「備前門」の古墳の石棺を転用した石垣。

ところで、漆喰の使用は古代エジプトのピラミッドや、ギリシャ、ローマ時代の建造物にさかのぼり、日本にも奈良時代には伝わり、1200年ほど前の高松塚古墳の壁画も漆喰に描かれている。平安初期から寺社建築などに採用されていたが、広範に用いられるようになったのは築城ブームにおいてだった。

海藻糊を使う技法が発見されてコストダウンが実現していた折から、とりわけ関ヶ原の戦い後、城郭建築の耐火性を高めながら、その威容によって富と権威を示せることから一気に広まり、施工技術も急速に向上した。

だが、ここで疑問を投げかけたい。姫路城が築かれた当時、カトリックの宣教師への弾圧は始まっていたが、江戸幕府は態度を完全には硬化させていなかった。だから、まだ数多くの宣教師が国内各地で活動していた。そして、彼らが天下人や大名たちに影響をおよぼしていたこと、それが建築にもおよんだであろうことは、安土城の回で述べた。

その際、イエズス会年報に安土城について書かれた、「木造でありながら、内外共に石か煉瓦を使用したようで、ヨーロッパの最も壮麗な建物と遜色はない」というくだりを引用した。宣教師たちの話を通じて、天下人も大名たちも、こう認識していたとは考えられないだろうか。火器や銃器の先進国、ヨーロッパの建築は石やレンガを使用することで耐火性能を獲得し、壮麗さも確保している──と。

石垣と、木材を覆った漆喰壁で埋め尽くされた姫路城の美観が、ヨーロッパ人が伝えた鉄砲により戦術が変化した結果、生まれたものであるのは事実だ。さらには、石やレンガによる建築は困難な状況下で、ヨーロッパに近いものを実現しようした結果、漆喰壁が採用された可能性も、否定できないように思う。

PROFILE

香原斗志(かはら・とし)

歴史評論家。早稲田大学で日本史を学ぶ。小学校高学年から歴史オタクで、中学からは中世城郭から近世の城まで日本の城に通い詰める。また、京都や奈良をはじめとして古い町を訪ねては、歴史の痕跡を確認して歩いている。イタリアに精通したオペラ評論家でもあり、著書に「イタリア・オペラを疑え!」(アルテスパブリッシング)等。また、近著「カラー版 東京で見つける江戸」(平凡社新書)が好評発売中。