Memories of A Lyricist: Of Naoko Kawai, 1

“アイドル”から“アーティスト”へ──類い稀な変容を遂げた河合奈保子の挑戦(前編)

誰しもが認めるトップクラスの女性アイドルでありながら、作曲家として数々のヒット曲を世に送り出した河合奈保子。活動休止から約20年の今、彼女とともに曲を創ってきた作詞家・吉元由美が思い出を語る。 文・吉元由美 写真提供・日本コロムビア
“アイドル”から“アーティスト”へ──類い稀な変容を遂げた河合奈保子の挑戦(前編)
1980年にデビューするや1980年代を通して絶大な人気を誇ったアイドルのひとり、河合奈保子。1997年に第1子を出産以降、芸能活動を休止し現在に至る。

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しなやかな変容

人は変容を繰り返しながら進化していく。蝶が蛹の中で自分を作り替え羽ばたいていくように、人も自分を磨き、試行錯誤しながら新しい扉を開く。表現者であればなおのこと、常に何をどう表現するかを考え続け、新しい自分を生みだしていく。

しかし、時に表現したいことがわからなくなり、自分がしていることに少しだけ居心地の悪さを感じはじめる。自分の中に絶えず流れていた音楽や言葉の色が変わっていくことに気づき、それをすくいとったとき、新しい世界の扉を開こうとしていることに気づくのだ。

私が“アイドル”河合奈保子に出会ったのは1985年。絶大な人気を誇り、音楽番組などで顔を見ない日はなかった。「清純」という言葉は使い古された感があるが、まさに清純というイメージそのもののアイドルだった。

1985年、シングル『ジェラス・トレイン』発売時の河合奈保子。

私は作詞家デビューして2年目、駆け出しの新人で、ちょうどマネジメント事務所に入った頃だった。マネージャーが芸映プロダクションのKプロデューサーに私をプロモーションしたところ、コンサートで歌う洋楽の訳詞を頼みたい、という話になった。

確か映画音楽の『ムーンリバー』『Take My Breath Away』の訳詞、そしてもう1曲、奈保子さん作曲のバラードの作詞をした。これがのちに多くのファンに愛される曲、『ハーフムーン・セレナーデ』である。奈保子さんがピアノを弾きながら歌うこのバラードのスケールの大きさ。それまでの河合奈保子の世界とは違う空間がそこにあった。

デビュー初期の頃より、コンサートではマンドリンやピアノの弾き語りを披露していた。

今考えてみると、この訳詞はKプロデューサーの私へのテストだったのだと思う。そして、どんな人間なのか、私のことを見定めたのではないか、と思う。その後、ほどなくして、売野雅勇氏のプロデュースで河合奈保子の全作曲によるフルアルバムの制作に参加することになった。これは、ひとえに売野氏が新人の私を推してくださったおかげだった。

奈保子さんとは、訳詞を歌ったコンサートで初めて会った。そのまま、あのままの河合奈保子。芸能界の荒波の中で生きてきたとは思えない、初々しさを保っている人だった。

アルバム制作の流れは、売野氏がトータルのイメージ、曲のテーマを決め、それに沿って奈保子さんが作曲をしていく。その後、私が詞をつけていくというものだった。

山中湖で作曲合宿をした。仕事は仕事だったが、どちらかというとプロジェクトメンバーの親睦を図るような時間だったように記憶している。

河合奈保子作曲のシングル『ハーフムーン・セレナーデ』は1986年に発売。オリコンチャートで最高6位を記録した。

全曲が完成し、次は観音崎のマリンスタジオで合宿をしながらオケ撮りをした。オケを録り終わり、アレンジャーの瀬尾一三氏が帰ったあと、四つに折り畳んだメモが私の部屋のドアに挟んであった。

「これからあなたの出番。頑張って」

瀬尾さんからのメッセージ。ありがたさで胸がいっぱいになったことを覚えている。

こうして制作したアルバム『スカーレット』には、十人の女性たちのドラマが綴られている。作曲家、アーティスト河合奈保子が誕生したのだった。アルバムと同時にリリースされた写真集『スカーレット』は、1986年の夏にノルウェーとアムステルダムで撮影された。私も写真集の中にエッセイを書くため同行した。撮影に入ると、アルバム曲のそれぞれの女性たちのモードになる。自分で思っている以上に天賦の才に恵まれていることを、この頃の奈保子さんは知らなかっただろうと思う。

アイドルから作曲家、アーティスト河合奈保子へ。そこに気負いはひとつもなく、ただ音楽が好きで、歌うことが好きで、時間があればピアノでいろいろなフレーズを弾きながら作曲している奈保子さんがいた。変わらずに、しなやかに変容する。ここに、私は奈保子さんの魂の美しさを感じるのだ。
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デビュー2年目、竹内まりや作詞・作曲の「けんかをやめて」がヒットしていた頃の1枚。

吉元 由美 作詞家・エッセイスト
東京都生まれ。成城大学英文学科卒業。広告代理店勤務の後、1984年作詞家デビュー。これまでに杏里、田原俊彦、松田聖子、中山美穂、加山雄三など多くのアーティストの作品を手掛ける。中でも平原綾香の『Jupiter』はミリオンヒットとなった。また、エッセイストとしても活動する。