ドニー・イェン、不老のアクションヒーロー

『イップ・マン』などで知られる香港のアクション俳優、ドニー・イェンは、カンフースターの黄金時代を築いた1人だ。60歳を目前にした今も、『ジョン・ウィック』シリーズの最新作に出演するなど、その勢いはとどまることを知らない。
ドニー・イェン、不老のアクションヒーロー

この記事は、US版『GQ』の「Hong Kong’s Ageless Action Hero」の翻訳・短縮版で、『GQ JAPAN』2023年4月号誌面に掲載されたものです。

これまでドニー・イェンは、映画制作という名のもとで、数え切れないほど殴られてきた。蹴られ、焼かれ、切り裂かれ、馬から振り落とされ、ありとあらゆる傷を負った。「怪我の数は膨大ですよ」とイェンは笑う。香港アクション映画界で40年も敵をやっつけていれば、ときにはやられることもある。

イェンに、これまでの“かすり傷”の話をさせたら、何時間でも楽しませてくれることだろう。しかしここでは簡潔に、ひとつだけ紹介しよう。イェンはツイ・ハーク監督の名作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱』(1992年)の撮影現場で、今ではもうやらないようなアクションシーンを撮っていた。イェンと、カンフー界のレジェンドで同期でもあるジェット・リーが、竹の棒で殴り合いながら、文字通り周囲の建物を倒壊させるのだ。華麗なカンフーの振り付けに、驚異的な運動能力。CGはひとつも使われていない。

撮影シーンは、こわもてのカンフーマスターを演じるイェンが、真顔を保ちながら、向かってくる攻撃を竹棒で受けるというシンプルなものだった。しかし、スタントダブルは殴る場所を的中させられなかった。「20回あるいは50回やっても当たらないのです」。最後のテイクで、スタントダブルは殴る場所をしくじり、イェンは顔に一撃を食らった。そのせいで眉から目の近く約5ミリまでがぱっくり切れ、あやうく失明するところだった。「星が見えましたよ。それからホラー映画みたいに、血が噴き出してね」。救急車で運ばれ、6針縫ったイェンのもとに、次の日、監督から電話がかかってきた。「『ドニー、クローズアップの撮影に入ってもらえるか? 大丈夫、片側からしか撮らないから』って言うんですよ」とイェンは笑う。「だから翌日に行って、そのシーンを仕上げました」

イェンがこの話をしたのは、的はずれな武勇伝を聞かせようというのではなく、1980年代から90年代にかけての香港映画界の向こう見ずな一面を示すためだった。彼が香港に来たころには、すでに香港は中国語圏映画の中心地としてだけでなく、世界で最も熱狂的で大胆なアクション映画の舞台として、伝統を築いていた。カンフーの黄金時代にデビューしたイェンのような俳優にとっては、デジタル技術など使わず、スタントシーンがあれば、自分でやるのが当たり前だった。誰かが殴られるクローズアップを撮るとなったら? そう、自分が殴られるのだ。「呆れるくらいにマッチョでしたよ」とイェンは言う。そのうち、打撃を和らげるためのコツを覚えていったという。「綿球を奥歯の間に挟んで、歯が折れないようにしてね」

今日イェンは、中国で最も有名な俳優の1人であり、ブルース・リー、ジャッキー・チェン、ジェット・リーというアクションスターたちが築いてきた王朝の最後の1人と考えられている。中国以外のファンは、『スター・ウォーズ』のスピンオフ『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』(2016年)や、驚異的な成功を収めた『ジョン・ウィック』シリーズの4作目(全米では3月公開予定)のような作品で、イェンを知ることになる。

ほかの俳優であれば、もう引退しているかもしれないし、少なくとも肉体的な面では後退しているかもしれない。しかし、イェンは違う。「私にはまだスピードも、瞬発力も、パワーもたくさんあるので、とても恵まれていると思います。朝起きて、すぐに飛び蹴りができますしね。今はまあ、ダブルエスプレッソを3杯飲んで、少しウォームアップはしないとだけど……」。そして、また笑う。要は、翌日体は痛むかもしれないが、少なくとも今は、まだ力を発揮できるということだ。「幸いなことに、撮影現場に行くたびに、いつものドニー・イェンの演技が体に戻ってくるんですよ」と彼は言う。「演じなければなりませんからね。カメラが回ったなと思ったら、もう準備はできています」

中国語圏映画界の大物

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60歳を目前にしたイェンだが、実際に会うと10歳は若く見える。引き締まった筋肉に輝く肌、笑うと白い歯が見える。彼は、アレキサンダー・マックイーンレザージャケットスウェットという出で立ちで、「You Can Do It」のスローガンが入ったキャップを目深にかぶりながら、英ロンドンの「ゴードン・ラムゼイ バー&グリル」にやってきた。それでも、近くに座っていた何人かのアジア系の客が静かに驚いているのがわかった。

これは珍しいことではない。90年代後半から断続的にだがハリウッドで活躍してきたイェンは、欧米でも広く知られ、高く評価されているが、アジアでの知名度とは比べものにならない。並外れた才能によって彼は、中国語圏映画界の大物になった。これまで出演した80本余りの映画は、アメリカではほとんど、筋金入りのカンフーファン以外には知られていないが、それでもアクション映画の古典的作品であることには間違いない。たとえば、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ外伝/アイアンモンキー』や『SPL/狼よ静かに死ね』、『導火線 FLASH POINT』といった映画だ。そして、ブルース・リーの師匠である詠春拳の達人(彼の名前は映画のタイトルにもなっている)を描いた『イップ・マン』(2008年)は、その後4本のシリーズが公開され、少なくとも中国では「イップ・マン派生作品」というジャンルまでできている。『イップ・マン』はイェンのキャリアを復活させた作品であり、最近かつてないほどイェンが多忙になった理由のひとつでもある。中国映画やハリウッド映画、それからサングラスブランドの立ち上げといった、その他のビジネスへの取り組みで大忙しのイェンの携帯電話は、ほぼ鳴りっぱなしだ。

今、彼は数々のベストセラーを生み出している武侠小説作家、金庸の『天龍八部』を豪華絢爛に映画化した新作『Śakra』(原題)の最終カットを編集しているところだ。本作は、イェンにとって大きなプロジェクトとなる。監督と製作を務めるだけでなく、主役を演じ、フラッシュバックでは主人公の父親も演じている(まさに不老だ)。

変化を求め続けるのは、イェンがこれまでのキャリアで貫いてきた姿勢でもある。中国本土の広州で生まれたイェンは、2歳のとき、新聞記者だった父と香港に移り住んだ。当時の毛沢東政権の制約により、全国的に有名な武術の師範だった母のマク・ボウシムの同行は許されなかった。10歳のとき、一家は再会し、父親が中国語新聞の編集者の職を得た米ボストンに移住した。しかし、新参者の移民がアメリカの生活に慣れるのは難しく、しばらくはフードスタンプで凌ぐような暮らしだった。ボストンという場所も、必ずしも歓迎してくれてはいなかったという。「今でこそ不平等なんて言われていますが、当時は想像もつかないほどひどかった」とイェンは語る。「そんななか、私が唯一力を発揮できたのが、武術でした」

武術が得意な移民の子

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母親がチャイナタウンに開いた武術学校で、イェンはすぐに有望視されるようになるが、母の押し付けるようなやり方には不服だったという。彼はカンフー映画を観たり、ダウンタウンの映画館でブルース・リーの2本立て映画を2ドルで観たりして、現実逃避するようになった。リーのような格好をして、学校で技を見せたりしたそうだ。「アイデンティティを見つけようとしていたのです。中国人だから、いちばん身近に感じられたのがブルース・リーでした。ブルース・リーにできるなら、僕にもできるはずだってね」

イェンは、学業においては凡庸だった。しかし、武術となるとずば抜けていて、断固としていて、稲妻のごとく動きが速かった。何時間もかけて発勁(力の発し方)を鍛え、飛び蹴りの練習をした。16歳になると、両親は彼を有名な北京武術チームに入れるために、中国に送った。この武術学校は、国内チャンピオンを輩出する以外にも、中国各地をツアーで巡って技を披露し、多くのエリート武術家や映画スターを輩出している。ちなみに、ジェット・リーはイェンの同期だ。

当時イェンは、俳優になるつもりはなかった。しかし、偶然にも彼の母親は、香港カンフー映画の監督ユエン・ウーピンと交流があった(ユエンの姉妹を教えたことがあったのだ)。ユエン・ウーピンは、『グリーン・デスティニー』や『マトリックス』、『キル・ビル』などのハリウッド映画における振付で知られ、『ドランクモンキー酔拳』や『スネーキーモンキー蛇拳』といったカルト作品を監督し、ジャッキー・チェンのキャリアを復活させた人物でもある。「ユエン・ウーピンは当時、もう1人のジャッキー・チェンを作ろうとしていたのです」。イェンは家族に会うために北京からボストンに戻る途中、オーディションを受けるために香港に立ち寄った。そうして当時18歳だった彼は、ユエンと3年間の契約を結び、複数の映画を制作することになった。

突然、イェンはカンフー映画最後の黄金期かもしれない時代の、偉大なアクション映画監督の弟子になった。当時、ジャッキー・チェンに代表される香港映画界は、世界で最も衝撃的なアクション映画を生み出していた。各スタジオは、精巧なアクションシーンや、危険なスタントを極めることで、ライバルを打ち負かそうと必死だった。「ユエン組、ジャッキー・チェン組、サモ・ハン・キンポー組がありました。とても競争が激しかった……文字通り丸1日かけて動きを考えても、ユエンに『イマイチ』と一喝されるのです。1日中、1ショットも撮れない日もありました」

ユエンと組んだこうした初期の作品から、イェンはアクション映画制作の技法を学んだ。「どの角度から見ても完璧で、正確な演技をしなければなりません」と彼は言う。「私はカメラの位置を、正確に把握しています。カメラをどこに置いても、フレームがどこにくるか、すぐにわかるんですよ」

長年にわたり、イェンはカンフー映画を、完璧な振付が施されていた時代から引き離し、よりめちゃくちゃで、リアルなものにするために尽力してきた。彼が演じる人物は多種多様な武術を駆使しながら、取っ組み合い、醜い泥仕合を展開する。そして、ミスもする──なぜなら彼は、完璧なリズムで繰り出される12発の突きと同じくらい、「決まらない渾身の一撃」が、シーンのリアリティを高めるとわかっているからだ。

これまでいつも順調だったわけではない。1997年、イェンはプロダクション会社「BULLET FILMS」を立ち上げた。最初の2作品、『ドラゴン危機一発’97』と『ドニー・イェン COOL』は、自身が共同脚本、プロデューサー、監督、主演を務めたが、興行的には不成功に終わった。無一文になった彼は、タダ飯を食うために撮影現場に入り浸るようになり、結局、高利貸しから借金をする羽目になる。

「あらゆることを経験してきました。撮影現場でマフィアが喧嘩しているのを目撃したこともあるし、想像を絶するようなことまで目にしました」とイェンは語る。しかし、彼は諦めなかった。「失敗もたくさんあります。それが人生でしょう。無敵にはなれませんからね。できる限りのことをするだけです」

初期の激しかった時代の香港では、俳優とスタントチームの間にいわゆる境界線はなく、Bボーイやスケーターのように、誰もが最高にクールな技を競いあっていた。「絵コンテもありませんでしたからね。ジャズミュージシャンの集まりのようなものですよ」とイェンは言う。「『誰でもいいから演奏してみなよ、ジャムセッションしよう』って感じです」

しかし、その自由なコラボレーションスタイルのせいで、2000年代のはじめにアメリカでアクションの振付師の仕事を受けるようになると、イェンはハリウッドスタジオの役割分担されたやり方と衝突することになる。「『ブレイド2』のときは、ひどい目に遭いました。キャリアのなかでも最悪ともいえる時期でした」。彼はギレルモ・デル・トロ監督に雇われ、超人的な格闘シーンを振付し、脇役としてウェズリー・スナイプスと共演することになっていた。「ギレルモはとても紳士的な人でした。すごくクールで、カンフー映画が大好きなのです」。しかし、「あるプロデューサーは挨拶もしなかった」という。撮影現場で、イェンが複雑なカンフーの一連の動きを考えていると、早く終わらせて次へ進むように言われた。「例のプロデューサーがやって来て、『これで終わりだ。数時間で終わらせろ』と言うのです。数時間? 香港では2週間かけて撮影したのに! 尊敬に欠けるし、私たちの仕事を理解も評価もしていないんですよ」

ハリウッドのアジア人俳優

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俳優としても、イェンは同様の経験をしてきた。キャリアを通じて、ハリウッドは彼を──と言うよりも、つい最近まで、主役のアジア人俳優を──どう扱えばいいのか、よくわかっていなかった。アジア人以外の観客のアジア映画への関心には波があり、イェンのような大スターでさえ、チャンスは限られていた。中国では、イェンは麻薬王、孫悟空、ロマンチックな主人公、兵士を演じ、歌まで披露する。しかしハリウッドでは、賢い戦士、厳格な将軍、代わり映えのしない悪役など、飽き飽きするようなステレオタイプの役柄ばかりだ。

同じ役ばかり与えるキャスティングは、無意識に行われていることも多い。『スター・ウォーズ』の前日譚『ローグ・ワン』への出演をディズニーから打診されたとき、脚本の初期段階で、イェン演じるチアルート・イムウェは、いつものように、カンフーを駆使する月並みな戦士だったという。「ステレオタイプだと指摘しました。笑うことをしない、典型的な師匠だと」とイェンは振り返る。じつはこの人物を盲目にしようと提案したのはイェンで、さらにユーモアを加え、撮影現場では即興でジョークを言った。そうして、わかりやすいお決まりの役柄から映画の肝となる役柄に様変わりさせたのだ。

ハリウッドはアジア人俳優をないがしろにしてきたが、それにもかかわらず、長年にわたって、ワイヤーワークに特殊なカメラトリックというような、香港映画の映像技術や手法を取り入れてきた。ジョン・ウーやユエン・ウーピンの影響がなければ、『ジョン・ウィック』シリーズは生まれなかっただろう。「ハリウッド映画からテレビ、Apple TV、Netflixまで、アクション映画はどれも、何らかの形で香港映画の影響を受けています」とイェンは語る。

しかし、物事は変わっていく。苦しくなるほど時間がかかったとしても。2度目に会ったとき、イェンは、長い間正当な評価を受けてこなかったミシェル・ヨー(何十年来の友人であり共演者でもある)が、ついに『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』でゴールデングローブ賞を受賞したのを見て、「元気をもらった」と言っていた。「ミシェルのような人は増えていくでしょうね。嫌なことや挫折があっても、考え続けて、前進し続ける人たちのことです」

最近は、レガシーとして後世になにが残せるかを考えているという。「歳をとればとるほど、自分は何者なのかを考えるようになりますね。人生の価値とはなにか、その代償はなにか。自分はどこに行きたいのか。天国でも地獄でも、何でもいいのだけど」。年齢のことだけではない。2019年、イェンはベニー・チャン監督と『レイジング・ファイア』という刑事映画を制作していたが、その途中でチャンが体調を崩した。その後、上咽頭癌と診断され、映画の完成を待たずに亡くなった。イェンは彼を偲んで映画を完成させたという。「それまでベニーとずっと一緒にいたのに、気がついたら亡くなっていた。葬儀で遺体を見たときは、昨日まで一緒にいたのになぜ、と思いました」

この10年で、イェンは引退を口にするようになった。「まだやり残していることがあるので、引退はできませんよ」と彼は言うが、自分がかつてのような速さで動けていないことを体で感じている。半拍遅くなった。でも、衰えてはいない、今はまだ。だが、いつまでも今のドニー・イェンでいられるわけではないこともわかっている。毎日が戦いだ。

イェンは今でも、起床とともに飛び蹴りをはじめるし、どんなアクションシーンでも(どんな傷でもあざでも)楽しめる。カメラが回ると、いつものドニー・イェンになる。まだやれる。「いつまで続くかはわかりません」と彼は言う。「でも、『いいか、ドニー。もう潮時だよ』と言われるときが来たら、引退するでしょうね」

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ドニー・イェン
アクション俳優

1963年生まれ、中国広東省広州市出身。家族と移住した米国で武術の頭角を現し、10代で北京の武術学校に留学。18歳の時、香港で受けたオーディションをきっかけに、アクション俳優として一歩を踏み出す。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱』や『イップ・マン』シリーズなどに出演し、アジアを代表するアクションスターに。2000年代頃からはハリウッドでも活躍。監督やプロデューサーとしての顔も持つ。

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WORDS BY OLIVER FRANKLIN-WALLIS   
PHOTOGRAPHS BY PUZZLEMAN LEUNG
STYLED BY JACKY TAM 
TRANSLATION BY MIWAKO OZAWA


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