Remains of the American Occupation

平安神宮と占領軍──秋尾沙戸子の「京都歳時記」その⑦

京都に暮らす作家・秋尾沙戸子が綴る京都のおはなし。今回は平安神宮について。

明治維新後の町おこし事業として創建された平安神宮。周囲には内国博覧会用パビリオンが造られ、祝祭広場となった。

Prisma by Dukas

京都の人には申し訳ないが、数ある祭の中でも時代祭には興奮しない、と他府県からやってきた人々は口々に言う。行列をカメラに収めようとするのだが、様にならないのである。唯一フォトジェニックなのは、清少納言や紫式部に扮する芸妓だけだ。

それもそのはず、練り歩くのは、不慣れな一般市民。色々な町内が持ち回りで、当たった年に初めて装束を着るのである。毎年10月22日に行われる(即位の礼と重なる今年は26日に変更)時代祭は究極のコスプレで、明治維新から平安京造営まで遡って1000年、西郷隆盛や織田信長など、歴史上の人物それぞれの装束を着て、京都御所から平安神宮へ一般市民2000人が練り歩く祭だ。他方、葵祭や祇園祭は装束や裃をまとう人々は毎年のことで慣れていて、どこを切り取っても絵になる。つい同じレベルを求めてしまう観光客がワガママというものであろう。

では、なぜ時代祭だけ、市民が持ち回りで歩くのか。それは京都の人々全員が平安神宮の氏子だからである。この行列が始まったのは、平安神宮ができた明治28(1895)年のことだった。

「平安神宮は、平安時代から存在している」と京都外の人々は思い込んでいるのだが、実は、明治維新の後に誕生した神社である。「天皇さん」が東京に行ってしまった。しかし、平城京を失った後の奈良のように、京都を廃れさせてはならない。そこで考えられた町おこし事業が、琵琶湖の水を引いて水力発電をつくることであり、内国博覧会を誘致することであり、平安神宮を創建して氏子の市民が町を練り歩くことだった。そんな経緯だから、神宮に祀られたのは「ナクヨウグイス平安京」を築いた桓武天皇である。後に孝明天皇(江戸時代最後の天皇)も加えられた。

神社には2つある。神さまを祀っている神社と、人間を祀っている神社だ。前者は古代から存在し、神が宿る山があって、その麓に鳥居がつくられ、やがて社殿が建設されている。後者には、明治神宮や乃木神社のように偉大な人物を後に祀った神社と、菅原道真や早良親王の怨霊を鎮めるために造営された天満宮や御霊神社などがある。

平安神宮はとにかく広い。大きいのである。そのサイズ感と社殿の鮮やかな色彩がゆえに、厳かさを発するよりも、どこか祝祭広場的な、テーマパークのような感じだ。背後の「神苑」という広大な庭園では、春になると紅しだれコンサートが開かれる。境内でも神宮前の広場でも、倉木麻衣や「和楽器バンド」による音楽フェスが行われ、若者が気軽に集まる場所となっている。隣には「KYOTO SAMURAI THEATER」が常設され、若い男子グループがパフォーマンスを披露している。

実は、このテーマパーク性にいち早く気づいたのは、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の人々だった。最高司令官マッカーサー家のアルバムに残る「shrine, Kyoto」とだけクレジットされた写真には、夫人と神職が写っているが、このshrineは、まさに平安神宮のことだった。『平安神宮百年史』には、ここを訪れたGHQスタッフの名前が一覧表となって掲載されている。

米軍が京都に乗り込んだのは、74年前の9月末。関西を治める部隊は、一斉に九州から船で和歌山に上陸して、京都へは鉄道で移動している。

京都に入った米軍は、南部の伏見にあった日本帝国陸軍の施設を次々に接収して兵舎とした。そして、平安神宮前の土地にはテニスコートを作り、美術館はダンスホールに改造して楽しんだ。兵舎から一本の道で往復できるという利便性もあったが、明治にできたばかりという平安神宮の新しさも、米軍好みだったに違いない。敵国の、古代から残る神社仏閣から漂う気配は、戦いを終えたばかりの兵士には不気味だったらしい。

もちろん、神社の側の努力もあった。東京の宮内省が天皇を守ろうとしたのと同様、戦争中、国家神道を支えた全国の神社は「お取りつぶしにあう」かもしれないという恐怖の中にいて、神社存続のため、あの手この手で米軍の接待に徹したのである。

いま、平安神宮周辺は「岡崎」として、ひとつのブランドを確立している。大物芸能人のマンションもこの界隈にある。以前より、近隣にある山縣有朋(明治の政治家)らの別荘地として高級感は備わっていたが、ここ岡崎に漂うモダンな空気は、アメリカの置き土産、いや、残像として欧米的洗練を醸し出している。京都市美術館は京セラの冠がついて来春再オープン。前川國男が設計した京都会館は3年前にロームシアター京都として生まれ変わり、隣には京都岡崎蔦屋書店経営のレストランがある。そのテラス席に腰をうずめると、東山の緑を背景にして強烈な朱色の大鳥居が目に飛び込んでくる。高さ24メートルの巨大な平安神宮の大鳥居は、いまや岡崎の代表的なランドマークだ。しかし昭和3(1928)年、昭和天皇即位を記念してつくられた当初は、唐突で周囲になじまず、不評だったらしい。

古いようで新しいものを取り入れるのが得意な京都。なかでも、この地域の変化がめまぐるしいのは、明治維新による近代化とアメリカの占領が関係しているからではないか。ビールグラス片手に、このテラス席から朱い大鳥居を眺める時、いつもそんな思いが去来する。

秋尾沙戸子の「京都歳時記」その⑥はこちら。

Satoko Akio

名古屋市生まれ。サントリー宣伝部を経て、NHK「ナイトジャーナル」などのキャスターを務める傍ら独自に重ねた海外取材を通して日本の美意識に目覚め、京都暮らし。代表作『ワシントンハイツ:GHQが東京に刻んだ戦後』で日本エッセイスト・クラブ賞を受けている。

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