戦争体験を語る栗田幸雄さん=福井県国際交流会館

福井空襲で焼け野原となった福井駅(中央奥)の西側。大和百貨店から東を撮影している(福井県立歴史博物館提供)

 空襲、食料不足、父の出征、陸軍機のプロペラ工場での学徒勤労…。福井県知事を4期16年務めた栗田幸雄さん(92)=福井市=は、小中学校時代を戦争とともに生きた。8月15日の終戦の日を前に体験を聞いた。

 1943(昭和18)年に福井中学校(現藤島高校)に入学。日本の戦況は徐々に厳しくなり、まともに授業を受けられたのは1年生のときだけだった。食べ物が不足し、サツマイモやジャガイモなどを農村へ買いに行き、飢えをしのいだ。

 学校生活も軍国主義が色濃く、登下校の際、上級生に敬礼しなければならなかった。2年秋から学級ごとに農村へ行き、稲刈りや野菜の収穫を手伝った。教員は盛んに「軍隊の学校へ行き、お国のためになる立派な軍人になりなさい」と言った。将来の将校候補を育成する陸軍幼年学校を受験したが不合格だった。

 3年春からは学徒勤労動員として、福井市桃園にあった軍需工場「国際航空福井工場」(現在のフクイボウ周辺)でプロペラ作りに従事し、夜勤にも入った。

 勉強をしたかったのに、学校には行かない毎日。「こんなことばかりさせられ、この生活はいつまで続くんだろう。勉強ができるときは来るのか」と思いながらも、勤労に専念した。日本が戦争に勝つと思っていたし、プロペラも役立つ道具だと指導されていた。

 配給の米は少なく、量を増やすためにフキの茎を刻んで混ぜて食べた。全然おいしくなかった。家の光が外に漏れて空襲で狙われないよう毎晩、部屋の電気に黒い布をかぶせて薄暗い生活を続けていた。

 福井空襲があった45年7月19日は夜勤の予定だったが、父親に召集令状が届いたので休みをもらい、父から「今度は九州・久留米へ行くことになった」と話を聞いていた。その夜、鯖江の西山公園から、福井が真っ赤に燃えているのが見えた。逃げる最中に焼夷弾が直撃し亡くなった同級生もいる。もし夜勤で出勤していたらと思うと、ゾッとした。

 翌朝、親戚の安否を確認しに父と一緒に福井へ行くと、黒焦げになった死体が神社にごろごろとあった。空襲の怖さをひしひし感じた。日本各地が空襲でやられるんじゃないかと思いながら、それでも終戦まで勝つと信じていた。

 同年8月15日、正午に自宅で昭和天皇の玉音放送を聞いた。「えっ、日本が負けた? 昨日まで勝つって思っていたのに」。全く信じられなかった。悔しかった半面、やっとつらい生活から解放されるという思いもあった。学校では「負けたのはおかしい」と憤る教員がいれば、「これからは民主主義の時代」と180度転換する教員もいて、変化にとまどった。

 戦争を振り返ると、ばかなことをしたなと感じる。20代の若者はみんな召集され死んでいった。なんと悲惨で愚かしい、ばかばかしいことか。絶対、戦争はしちゃいかん。戦争体験者はもう少ない。我々生き残った者は、若い人たちに戦争の愚かさと平和の尊さをもっともっと伝えていく義務がある。その努力を続けていきたい。

⇒「本邦史上稀に見る被害」福井地震の惨禍伝える気象台資料

 ◇栗田幸雄さん(くりた・ゆきお)1930年、福井県鯖江市生まれ。東京大学法学部卒。55年に自治省(現総務省)に入り、市町村税課長、固定資産税課長などを歴任した。77年から中川平太夫知事の下で副知事を約10年務め、87年の知事選で初当選。2003年まで4期務め、福井県立大学の開学、福井県立恐竜博物館や福井県児童科学館、福井県立音楽堂の開館などに尽力した。福井県国際交流協会顧問。