マーガレット王女21歳のポートレート写真
Aflo
エリザベス女王とも面差しの似た、輝くばかりに美しい21歳のマーガレット王女。恋が実らぬとは、まだ知らなかったころの肖像。

毎年、英国では女王から国民へクリスマスのメッセージがあります。恒例のスピーチはこのようにはじまります。

“My husband and I……”

意味深いこのフレーズに込められた、女王のひとりの女性としての幸せと日常を、連載でお届けします。

エリザベス女王を4歳上の姉とし、ある種悲劇的な生涯を送ったマーガレット王女についてです。

マイ・ハズバンド アンドアイ 10

姉が「太陽」なら、妹は「月」

文=渡邉みどり

※こちらの記事は、『婦人画報』2013年3月号より転載しています。

エリザベス2世女王陛下の妹君マーガレット王女は2002年2月、姉の在位50周年を見ることなく世を去った。妻、母、女王として幸せに輝く姉を“太陽”とするならば、マーガレット王女は“月”とでもたとえられようか。 

princesses elizabeth and margaret
Lisa Sheridan//Getty Images
1946年7月に撮影された20歳のエリザベス王女と15歳のマーガレット王女。

時計の針を1953年6月2日、姉エリザベス女王の戴冠式の日まで戻そう。この時マーガレット王女は、夫エディンバラ公にエスコートされ、女王の座にのぼった姉の晴れ姿を見守っていた。マーガレット王女の傍らには恋人ピーター・タウンゼント大佐が寄り添っていた。王女は恋人の式服に付いたちりをやさしく払った。その初々しいしぐさをメディアは逃さなかった。言うなればふたりの恋がオープンになった瞬間であった。王女の恋人、ピーター・タウンゼント大佐は16歳年上で離婚歴のあるハンサムな侍従武官であった。 

マーガレット王女とピーター・タウンゼント大佐
Aflo
1947年、国王夫妻に付き添い、南アフリカ連邦を公式訪問したマーガレット王女とピーター・タウンゼント大佐。

 

皮肉なことに2人の出会いは亡き父君ジョージ6世が作ったものであった。かつて空軍に籍を置いていた国王は、“空の英雄”タウンゼント大佐を侍従武官に指名したのである。第2次世界大戦中の1944年、彼は初めての国王拝謁の栄に浴し、バッキンガム宮殿を訪問した。そのとき2人の王女は歴戦の英雄を一目見たいと待ち構えていた。精悍なパイロットにマーガレット王女は「ビューティフル」と頰を染めた。姉エリザベス王女は「もう結婚しているわ。お気の毒だこと」と妹をからかった。当時マーガレット王女は14歳。空軍出身のタウンゼント大佐は、背が高く格好がよかった。ルックスとしても王女に崇拝される要素をタウンゼント大佐は備えていたのである。

royal race goers
Keystone//Getty Images
1951年1月のロイヤルアスコットのボックス席で。左からマーガレット王女、エリザベス王女、ピーター・タウンゼント大佐。

ピーター・タウンゼント大佐は、1941年7月、第2次大戦の激しいドイツ空爆から帰国直後、上官の娘と結婚した。戦時中、王室の侍従武官は2週間ぶっ通しで国王に仕える勤務シフトが組まれていた。国王が赴くところのどこへでも付き添い、寝食をともにした。その2週間の任務が終わると国王は、「もう帰らないで、ずっとここで話し相手になってくれないか」と頼む。この結果、彼は家族との生活を削り、国王に仕えることで家庭生活を崩壊させていった。

princess margaret
Keystone//Getty Images
1953年、手前がマーガレット王女、左奥にピーター・タウンゼント大佐の姿が。2人が恋愛関係になったのは、父ジョージ6世の逝去した1952年頃と見られている。

しかし王室メンバーは、マーガレット王女はいずれ同世代のボーイフレンドと結婚するだろうと見込んでいた。というのも、美しい王女には、「プリンセス・マーガレット部隊」と呼ばれる取り巻きが常にいて、それは名門で金持ちのボーイフレンドたちばかりだったからである。

しかしマーガレット王女のタウンゼント大佐に対する思いは消えることはなかった。姉のエリザベス女王はひとめ惚れの相手と順調に結婚生活に入った。これに対し、妻子ある男性に恋した妹のマーガレット王女の気持ちを、姉は理解することはできなかったのである。

1955年8月21日、マーガレット王女は25歳の誕生日を迎えた。自分の結婚を枢密院に通告できる年齢に達したのである。通告すれば王族結婚法の規定に基づいてマーガレット王女が選んだ男性との婚約が発表できるはずであった。

しかしことはそう簡単には運ばない。タウンゼント大佐はすでに前妻と離婚していたが、政府首脳はふたりの結婚について、「エドワード8世、王位を捨ててまでシンプソン夫人と結婚したウィンザー公の二の舞は踏ませまい」と厳しい姿勢であった。

もし彼女がタウンゼント大佐と結婚するならば、王位継承権や王室メンバーとしての年金まで剝奪すると女王に伝えた。当時、英国国教会ももちろん、王族と離婚経験者との結婚は認めない。大衆紙『ザ・ピープル』は「王位継承権第3位のプリンセスと離婚歴ある男性との結婚はありえない」と大見出しで反対を表明した。10月24日、それまでの沈黙を破って、英国の一流紙『ザ・タイムズ』がマーガレット王女の結婚問題で社説を掲げた。同紙は、ピーター・タウンゼント大佐のことを、「別れた妻がいまなお生存しているという一点を除けば、なにひとつ欠点の見当たらない勇敢なる人物だ」と書いて、非難はしなかった。

25歳のマーガレット王女は複雑な反応を目の当たりにし、現実を認めざるを得なかった。このまま突き進めば、どんな人生が待ち受けているか。タウンゼント大佐も自らの収入だけで王女との人生を歩まなくてはならない。前妻との間のふたりの息子の教育費もある。贅沢な暮らしを捨て、マーガレット王女に専業主婦になれという勇気はなかった。 

時は1955年10月31日夕方6時、ところはバッキンガム宮殿東隣のクラレンスハウス。マーガレット王女と恋人タウンゼント大佐は別れのグラスを傾けた。

front page of london daily mirror
Bettmann//Getty Images
1955年10月17日、ピーター・タウンゼント大佐もゲストだった国で週末を過ごしたあと、クラレンスハウスに戻るマーガレット王女。この2週間後に大佐と結婚しないことが報告された。

「私は空軍大佐ピーター・タウンゼントと結婚しないことに決めたことを今皆様にお知らせしたく思います。私が王位継承の権利を放棄すれば、王族ではない一般人としての結婚が可能であることは十分に認識しています。しかし、キリスト教徒の結婚は永遠に断ち切れないものであるという英国国教会の教えを思い、さらにイギリス連邦に対する私の義務を思い、今こうした考慮を他の何にもまして重視しなければならないとの決断に達しました。私はこの決心をするに当たって全く私ひとりの考えで判断を下しました。その間、私は空軍大佐ピーター・タウンゼントの変わらぬ支援と献身的努力に接して力づけられました。私は、私の幸福を神に祈り続けてくださったすべての方々に対して心からお礼を申し上げます。マーガレット」 

BBCは、通常の番組を中断してこの声明を放送した。翌日付の『ザ・タイムズ』紙も「全ての国民が喜んでいるだろう」と書いた。 

これに対し王室メンバーの反応はじつに冷ややかだった。マーガレット王女がつらい声明を発表したその晩、誰ひとりとして、王女を慰めに訪れるものはいなかった。この夜、マーガレット王女はボクシングのテレビ中継を見ながら、孤独な夜を過ごした。母エリザベス皇太后は公務で外出し、娘の顔を見に来ようともしなかった。ただ、姉のエリザベス女王だけが短い電話を一本かけてきたのみである。

1955年のこの一件で、マーガレット王女は性格が変わったという。王女は王室のイメージを守るための犠牲になったのである。マーガレット王女は、その後の人生を素直に受け入れることができなくなってしまい、煙草を吸って夜な夜なナイトクラブ通いをするようになった。

次回は、マーガレット王女の結婚や不倫についてお届けする。

Profile

わたなべみどり●ジャーナリスト。文化学園大学客員教授。東京都出身。早稲田大学卒業後、日本テレビ放送網入社。1980年「三つ子15年の成長記録」で日本民間放送連盟テレビ社会部門最優秀賞。昭和天皇崩御報道の総責任者。1995年『愛新覚羅浩の生涯』で第15回日本文芸大賞。『英国王冠をかけた恋』、『美智子さま「すべては微笑みとともに」』など著書多数。


『婦人画報』2013年3月号より