「私は彼に夢中に」 小野伸二の“妙技”に心を奪われた…英記者が目撃した25年前チェンマイでの光景【コラム】

小野伸二は日本代表として国際Aマッチに56試合出場【写真:徳原隆元】
小野伸二は日本代表として国際Aマッチに56試合出場【写真:徳原隆元】

1998年に初めて小野の名を聞いた

 北海道コンサドーレ札幌の元日本代表MF小野伸二は12月3日のJ1リーグ最終節、古巣の浦和レッズ戦を最後に現役を引退する。44歳の天才MFが迎えるラストマッチに向け、「FOOTBALL ZONE」では「小野伸二特集」を展開する。今回は、かつてアジアサッカー連盟の機関紙「フットボール・アジア」の編集長やPAスポーツ通信のアジア支局長を務め、ワールドカップ(W杯)を7大会連続で現地取材中の英国人記者マイケル・チャーチ氏が目撃した小野について――。(取材・文=マイケル・チャーチ)

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 1998年の3月、私は小野伸二という男が熱烈な言葉で称賛されるのを初めて聞いた。

 私は最後のダイナスティカップのために横浜と東京を訪れていた。ウルトラス・ニッポンの取材のため、日本対中国戦に足を運び、ゴール裏のファンから話を聞くために試合の数時間前に観客席のあたりを歩いていた。

 横断幕や試合中に鳴らす太鼓の準備が行われているなか、ある選手の名前が他の誰よりも鮮明に発せられた。

「小野伸二! 彼は日本最高の選手になる!」。世界が彼の名前を耳にする数か月前に、ある一人の熱烈な浦和レッズファンがそう高らかに宣言した。彼の周りにいた熱烈な日本代表ウォッチャー、12番ゲートの青年たちもそれに激しく同意していた。

 そこから小野の存在が世間に広まるのに時間は掛からなかった。その1か月後には日本代表に初招集され、さらに数か月後には岡田武史監督が率いるフランス・ワールドカップ(W杯)メンバーの最年少選手になっていた。

 その時点で、私は後に天才と呼ばれるこの若者の映像をいくつか目にしていた。彼のバランス感覚とボールコントロールは非常に精巧だったが、日本代表にはすでに中田英寿というプレーメーカーがいたため、彼がどのようにフィットするのかは未知数だった。

 だか、それでも興奮の高まりは止まらなかった。特に多くの人が日本の勝利を期待していたフランスW杯、グループステージ第3戦のジャマイカ戦。日本は後半9分までに2点のリードを許す展開になり、いよいよこの若者を解き放つ時だという感覚が大きなっていった。

 岡田監督が小野の投入を試合の残り10分まで待ったことは、この才能ある若者のプレーを見たいと思っていたファンを苛立たせた。おそらく岡田監督は過度な期待から彼を守っていたのだろうが、小野に違いを作り出す生むための時間が与えられなかったのは残念だった。

 日本は3戦全敗、わずか1ゴールで大会を終えたが、小野はわずかな出場時間の中で、その名を世界へ知らしめた。

 そこからしばらく、私たちの道は定期的に交じわることになる。1998年10月にタイのチェンマイで開催されたアジアユース(U-19)選手権で、小野は決勝に進出した日本の中心選手とした活躍していた。私はこの大会も現地で取材していたため、小野の才能を間近で見ることができた。

 小野の周囲では誇大広告が広がり続けていたが、幸運にも私はこのフレンドリーで礼儀正しい青年との1対1のインタビューを行うことができた。チームホテルでインタビューを行ったその2日後、彼は日本を韓国との決勝へ導くことになる。

 決勝戦の日、私は数時間前にスタジアムに足を運び、日本代表のウォーミングの様子を眺めていた。

 ピッチに出てきた小野は、稲本潤一の向かいに立つと、彼は後にも先にも他の誰もがやったことのないような技術を披露した。

 稲本が最初に左足、そして右足のインステップでボールを蹴り、ボールは小野は頭を越えた。小野はかかとを使ってそのボールを稲本に蹴り返した。

 小野はそれを何度も何度も、正確に繰り返した。小野は頭上を過ぎるボールを一切見ずに、かかとでチームメートへ蹴り返す。

 彼はそれを当たり前のようにこなした。何度も繰り返し、それがまぐれでないことを証明していた。彼はボールがどこにあるのかを感覚で理解していた。それを見た瞬間から私は彼に夢中になっていた。

 小野のボールを扱う能力の高さは驚異的だ。彼には日本サッカー界の第一人者になれるだけの才能と力があった。だが、そんな彼を悲劇が襲う。

小野伸二は3度のワールドカップに出場【写真:徳原隆元】
小野伸二は3度のワールドカップに出場【写真:徳原隆元】

小野が出場した国際Aマッチは“わずか”56試合…苦しんだ負傷

 2000年のシドニーオリンピックを目指す日本代表はアジア1次予選でマレーシア、ネパール、香港、フィリピンと同組だった。

 予選前半の香港ラウンドでフィリップ・トルシエ監督率いるチームはほとんど問題なく勝利を重ね、後半の日本ラウンドに向けて帰国した。しかし、そこで災難が降りかかる。

 予選最終戦のフィリピン戦で小野は膝を負傷した。この負傷は間違いなく、彼のその後の成長を妨げるものであり、これによって彼が真のポテンシャルを発揮することができなかったと後に語られることになる。

 この時の負傷が、彼の身体に何度も問題を引き起こす原因になったことは言うまでもない。彼が40歳を越えて、目覚ましいキャリアを築き上げたことは奇跡のようなものだ。

 彼は2002年にアジア年間最優秀選手賞(当時は今とは異なり価値のあるタイトルだった)を受賞し、フェイエノールトではUEFAカップを制した。そして2000年のアジアカップで優勝した輝かしい時代の日本代表メンバーの一員だった。

 W杯にも3回出場した。日本の偉大な選手について話す時、彼の名前は必ず挙げられる。

 彼ほどのインパクトを残した選手はほとんどいない。最近で彼ほどの期待を懸けられていたのは久保建英くらいだろうか。

 これだけの才能を持った選手が、日本代表では“わずか”56試合しか出場していないというのは今となっては信じられないことだ。アジアカップに一度も出場しておらず、30歳になる前に引退した中田英寿でさえ、77試合に出場しているというのに。

 時の流れは止められない。引退を表明した小野の短く刈り込まれた髪に白髪が混じっているのを見て、過ぎ去った年月の長さを思い知らされる。

 だが、私にとっての彼はチェンマイのピッチで頭の上を越えるボールをかかとで蹴り上げた少年のままであり、魔法使いのようにボールを扱うその姿はいつまでも私の記憶に残り続けるだろう。

(マイケル・チャーチ/Michael Church)



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マイケル・チャーチ

アジアサッカーを幅広くカバーし、25年以上ジャーナリストとして活動する英国人ジャーナリスト。アジアサッカー連盟の機関紙「フットボール・アジア」の編集長やPAスポーツ通信のアジア支局長を務め、ワールドカップ6大会連続で取材。日本代表や日本サッカー界の動向も長年追っている。現在はコラムニストとしても執筆。

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