タモリが1975年に30歳で東京へ出てきてタレントを目指したとき、マンガ家の赤塚不二夫が自分のマンションの部屋を貸し与えたという話はよく知られる。拙著『タモリと戦後ニッポン』でも、それについてはくわしく書いた。
赤塚は赤塚でタモリの才能に惚れこみ、マンガの枠をはみ出して笑いを追究していくことになる。
赤塚不二夫の「道を誤らせた」のはタモリだったのか「マンガをはみだした男 赤塚不二夫」
赤塚不二夫生誕80周年企画「マンガをはみだした男 赤塚不二夫」(2016年)
企画・プロデュース:坂本雅司/監督:冨永昌敬/製作:グリオグルーヴ/制作・宣伝・配給:シネグリーオ/特別協力:フジオ・プロダクション
映画チラシを飾るのは写真家の荒木経惟撮影による赤塚のポートレート

岐路に立った赤塚の前に現れたタモリ


その名も「マンガをはみだした男 赤塚不二夫」というドキュメンタリー映画がきょう4月30日(土)から公開されている。本作の企画・プロデュースの坂本雅司と監督の冨永昌敬のコンビは、これまでにも『パンドラの匣』などの劇映画、『アトムの足音が聞こえる』などのドキュメンタリー映画を手がけてきた。

この映画を観てあらためて気づかされたのは、タモリの上京前後、赤塚不二夫は公私ともに岐路に立っていたという事実だ。ある意味、危機といってもいいだろう。何しろ、妻との離婚、事務所の経理担当者による横領と事件があいつぎ、さらには全盛期を支えた担当編集者の異動に加え、優秀なアシスタントたちが次々と独立して巣立って行ったのだから。

肝心のマンガはといえば、このころ(70年代前半)発表した『レッツラゴン』は、赤塚の最高傑作として映画のなかに登場する多くの人たちが賞賛している。
しかしそれは同時に、赤塚がマンガでできることをやりきってしまったことを意味した。

映画には生前の赤塚を知る人ばかりでなく、彼から影響を受けた現役のクリエイターも何人か登場する。最近、赤塚作品をリメイクした「おそ松さん」が大ヒットとなったアニメーション監督・藤田陽一はそのひとり。映画のなかでは、映画監督の足立正生が親しかった赤塚から「おれはルールを壊すことにかけてはあんたらより数段プロだよ」と言われたことがあるとの証言を受けて、藤田が「ルールに対しての侵害、裏切り、逸脱がギャグ。そのルールというのは時代によって変わる」との趣旨の発言をしている。

マンガの内容にとどまらず、「天才バカボン」のライバル誌への移籍、ペンネームの改名(一時、山田一郎を名乗る)にいたるまでルール破りをし尽くした赤塚が、マンガの枠から逸脱していったのはある意味必然だったのかもしれない。


事実、作品が人気を集めるにしたがい、テレビ出演、レーシングチームの設立、雑誌発行などマンガ以外の仕事にも次々と手を広げていった赤塚だが、それをアシスタントたちはわりと冷ややかに見ていたようだ。映画のなかでは、元アシスタントの古谷三敏(北見けんいちと並んでインタビューに答えている)が、赤塚と雑誌「まんがNo.1」をめぐって大喧嘩したことを打ち明けている。「まんがNo.1」は、赤塚が責任編集を務め、横尾忠則が表紙を手がけるなど実験的な傾向の強かった雑誌だった。

アシスタントたちと赤塚の距離は、タモリとの出会いを境にさらに広がっていったところがある。実際、赤塚やタモリと「面白グループ」なるグループを結成した演出家の高平哲郎や滝大作は、うちの赤塚にマンガを描かせないと怒られたこともあったという。高平は映画のなかで「ぼくやタモリや滝さんが先生の道を誤らせたかもしれないけれど……」と、このあたりについて一つの見解を示しているのが興味深い。


坂本雅司・冨永昌敬による『アトムの足音が聞こえる』は、テレビアニメ「鉄腕アトム」など映像作品の音響デザイナーだった大野松雄という人物に取材したドキュメンタリーだったが、そこでは、借金を抱えて仲間たちの前から姿を消した大野のゆくえを突きとめるのが一つの山場となっていた(詳細はこちらを参照)。それと同様に、今回のドキュメンタリーの後半では、マンガから逸脱したあとの赤塚不二夫の“ゆくえ”をたどりながら、いよいよこの人物の核心へと迫っていく。

自分の居場所を探し続けた人生


「マンガをはみだした男」では、全体をいくつかのパートに分けて、関係者の証言に、生前の本人にインタビューした音声を交えながら赤塚不二夫の72年の生涯が多面的に描かれている。各パートの始まりではポップなアニメによって赤塚の足跡がまとめられ、これがわかりやすい。

赤塚不二夫は1935年に旧満州(現在の中国東北部)に生まれ、敗戦後、命からがら日本に引き揚げてきた経験を持つ。二人の妹のうち一人は帰国まもなく死んでしまった。最初は奈良の大和郡山の母の実家に身を寄せるが、シベリア抑留されていた父が復員するとその故郷の新潟に移る。
しかし親戚の家に身を寄せての暮らしは家族にとって必ずしも居心地のよいものではなかったらしい(赤塚の妹が作中で証言している)。中学卒業後は新潟の看板塗装店に就職、さらに上京して町工場に勤務しながらマンガを描き続け、やがて有名なトキワ荘に入居、60年代に入ると「おそ松くん」でブレイクを果たすことになる――

こうして見ていくと、赤塚は生まれたときより自分の居場所を探し続けた人生だったともいえそうだ。居場所を転々としながら生まれた人間関係はじつに多様だ。この映画でも、親族や仕事仲間だけでなく、なかには、行きつけの中華料理店の店主やら仕事場のあった東京・下落合の商店街の人たちまでが登場し、生前の赤塚について語っている。

赤塚の後半生は、アルコール中毒に苦しみ、さらにがんなどの病気で入退院を繰り返した。そのなかでも人々との交流は続き、けっして多くはないが、新たな仕事を手がけてもいる。
はたして赤塚がたどり着いたのはどんな居場所であり境地なのか。この映画のテーマはつまるところにそこにある。

タモリも主題曲に参加!


なお、この作品ではタモリにもインタビューを依頼したものの、赤塚への言葉は2008年の葬儀でのあの弔辞ですべては語りつくしたので難しいとの返事があったという。そこで制作側は、代わりに主題曲への参加をオファーし、快諾を得るにいたったとか。

じつは今回の映画では音楽を蓮沼執太とともに、フジテレビの「ヨルタモリ」にも出演していたタブラ奏者・U-zhaanが手がけている。主題曲「ラーガ・バカヴァット」(サンスクリット語で聖者、悟りを開いた人の意味だとか)は、U-zhaanとタモリがあの番組以来となるコンビを組み、U-zhaanと彼のインド楽器のチームの演奏にあわせて、タモリがカッワーリー(インドの宗教歌謡)のようなノリででたらめな歌詞を即興で歌い上げたものだ。
あの名弔辞に続き、またしてもタモリらしい赤塚へのメッセージにしびれる。

「マンガをはみだした男 赤塚不二夫」はポレポレ東中野、下北沢トリウッドなど東京周辺の劇場を手始めに、以後、順次全国でロードショーが予定されている。公開にあわせて各劇場では、U-zhaanと蓮沼執太やさまざまなクリエイターを招いてトークイベントも予定されているので、公式サイトで確認していただきたい。
(近藤正高)