記事で紹介した商品を購入すると、売上の一部がEsquireに還元されることがあります。
記事中に記載の価格は、記事公開当時の価格です。
マリリン・モンロー:歴史上最も有名な女優のほとんど知られていない13枚の写真
ハリウッドのミューズ、マリリン・モンローの人生をよく表している、あまり見たことのない写真をここでご覧ください。
マリリン・モンローは映画史上、最も偉大な俳優の1人です。「輝かしいスターになる」という夢と共に、世界的に知られる顔となった彼女。ですが、それが実現したがゆえに、その夢が壊れてしまう…そんな不条理な真実をこれほどまで体現できる人は他にいないでしょう。
本名Norma Jeane Baker(ノーマ・ジーン・ベイカー)である彼女は、1926年6月1日にロサンゼルスで生まれました。彼女は最初から、ハリウッドで成功する運命にあったのかもしれません。母親が妊娠中に父親が出て行ってしまった家庭に生まれ、幼少期から波乱万丈の生活をおくります。母親がノーマと名づけたのは、彼女の好きな女優がサイレント映画時代のハリウッドの大スター、ノーマ・タルマッジだったからだと言われています。これはすでに、彼女が映画の渦中の人となることを示していたとも捉ることができるでしょう。
彼女はデビュー前からカメラを虜にする魅力を擁し、そのキャリアはモデルからスタートさせます。そして1940年代半ばから映画界に入り、もちろん最初は小さな役からはじまります。ですが1953年には、映画『ナイアガラ』のローズ・ルーミス役で主演を獲得。以来、彼女のキャリアは止まることなく急上昇していきました。一方で私生活は、まさにジェットコースターのようなもの。何度か結婚に失敗し、50年代後半にはさまざまな健康問題に悩まされるようになります…。そうして彼女は、肉体的にも精神的にも疲弊していったのです。
そして“永遠のセックスシンボル”とも称されたマリリン・モンローは、ケネディ兄弟とも噂がありました。ジョン・F・ケネディ大統領と共に、その弟である司法長官であったロバート・ケネディとも“不倫関係”にあったことで知られています(新たに、末弟のエドワード・ケネディ上院議員とも関係があったことがわかったという報道も…)。さらには、プロデューサーや監督、同僚たちをも魅力し続けた彼女。火山のようなエキセントリックな性格であったことも有名ですが、それも彼女の魅力を際立たせる役目を担っていたのかもしれません。
そうしてマリリンの人生、いやノーマ・ジーンの人生における歪みはだんだんと拡大し続け、1962年にはついにバルビツール酸(睡眠薬)の過剰摂取によってなくなるのです。享年36歳という若さで…です。
映画界で最も崇拝された俳優の1人でありながも、非常に短いキャリアに終わった彼女ですが、大衆文化やファンの心に永遠の痕跡を残すには十分な存在でした。彼女がいなくなって何十年経った後も、史上最も印象的なブロンド女優として彼女の名は何度も話題になっています。現に、ここでも…。
そんなマリリンですが、実はアルベルティやロルカを読むような根っからの読書家でもありました。知性と共にユーモアも持ち合わせ、彼女の頭の回転の速さは記者とのやりとりで数々の名言を語ったことからもうかがい知れるでしょう。そこで、自分に何が求められているのかを敏感に察知する能力に長け、それを即伝達する言葉のセンスも持ち合わせていたのです。
このようにさまざまな顔を持ち、伝染するような奥深いバイタリティを持っていたというわけです。そして結局は、名声や最も才能のある人がただそれだけの理由で罰せられることの多い世界からの圧力に、彼女に屈してしまったと言えるのでしょう。
では、そろそろ本題へ。
ここに、マリリン・モンローのプライベートな部分が色濃く反映された写真たちをご紹介しましょう。もちろん、彼女の写真はこれまでたくさん残されています。ですが、あまり知られていない写真を集めました。家でくつろいだり、洋服を試着したり、本に夢中になっている写真をご堪能ください。
ジョー・ディマジオとヤンキースの試合で
1961年4月11日、当時の夫ジョー・ディマジオとヤンキースの試合で撮影された1枚。
生涯にわたり、恋多き女性として話題をふりまいたマリリン。1度目の結婚は、女優デビューする前の1942年だそう。そのとき彼女は16才でした。続いて2度目の結婚が、こちらの写真に写る男性。10才年上の元ニューヨーク・ヤンキースのスーパースター、ジョー・ディマジオだったのです。結婚したのは1954年1月です。
そんな二人がハネムーン先に選んだのは、なんと日本でした。もちろん滞在先の帝国ホテルにまで、ファンがつめかけたそうです。
しかしながらこの旅行中にマリリンは、夫を日本に残したまま韓国へ向かいます。それは、休戦中の朝鮮戦争で痛手を負った兵士たちを慰問にいくためでした。
俳優トニー・カーティスと雑談
1958年、俳優トニー・カーティスとセット上でお互いの演技について話し合っている様子が分かります。
こちらは『お熱いのがお好き』(1959年)の撮影時でしょう。数々のハリウッド名画に出演してきた俳優トニー・カーティスは、2009年に自身の自叙伝『ザ・メイキング・オブ・サム・ライク・イット・ホット』を発表。ここでマリリン・モンローとの不倫関係、そしてマリリンが自分の子を流産していたことを告白しています。
「マリリンとベッドにいるときは、いつも彼女が何を思っているのかわからなかった。彼女は女優だから、男が求める女性像を演じることができるんだ」、とも記しています。
二人は1950年に交際を始めて以来、別れたりくっついたりを繰り返していたそうです。1958年に『お熱いのがお好き』で共演した際には、愛が再び燃え上がったということ。まさに、その現場写真というわけですね。
国際映画祭に出席したマリリン
1952年1月26日、初めて国際映画祭に出席したときに撮影された1枚。ハリウッド外国人映画記者協会でのマリリンです。
アーサー・ミラーと抱き合う
1956年、当時の夫で作家のアーサー・ミラーと抱き合っているところを撮影。いかにも、「夫アーサーのことを愛しています」と言わんばかりの満面な笑顔を浮かべています。
この頃マリリンは、ニューヨークに移り住み、アクターズ・スタジオの生徒として他の新人無名女優と一緒に基礎から演技の勉強を始めたそうです。そして、「セクシーなマリリン」しか求めない映画会社とは手を切って、自らのプロダクションを設立したのもこの年、1956年でした。
そんな転換期のど真ん中で、マリリンはアーサー・ミラーと結婚したわけです。
衣装のチェック
1955年3月、衣裳のチェックをしているマリリン。
同年6月(日本では11月)に、彼女の代表先のひとつである『七年目の浮気』が公開されました。
ノーマ・ジーン・ベイカー時代
1941年頃に撮影された1枚。つまり、マリリンが15歳前後の頃のことで、まだノーマ・ジーン・ベイカー(洗礼名)で過ごしていた時代になります。
この翌年の1942年に、ノーマ(マリリン)は第二次世界大戦下、16歳で母の家の近所に住むジム・ドハティと最初の結婚をすることになります。ジムはロッキード航空機製造会社に整備工として勤務していましたが、その後徴兵に。独りになったノーマ(マリリン)は航空機部品工場で働き、自活の道を歩き始めたのでした。
ファンサービスに応じる
1954年2月、韓国で米軍人にサインをしています。
最初の写真でご紹介している元ニューヨーク・ヤンキースのスーパースター、ジョー・ディマジオとマリリンのツーショットのページでも少々触れていますが、1954年1月に結婚した二人が選んだ新婚旅行の地が日本であることは、もう既に述べています。
そして、その日本滞在中に夫を日本に残したまま出向いた先がここ韓国、休戦中の駐屯地でした。
マリリンはヘリコプターに乗り、ジープや戦車を乗り継いで駐屯地を回っては、多くの兵士たちの前で歌ったのです。
笑顔で応じるマリリン
1957年、モンローがコートを着るのを手伝うハリウッドのレストラン「Ciro's」のオーナー、ハーマン・ホーバー。
自宅の階段で
1956年3月3日、自宅で開かれたプレスパーティーにて、撮影された1枚。
レストランでリラックスするマリリン
1955年3月、ニューヨークのレストランでくつろぐマリリン・モンロー。おそらく、壁に描かれたカートゥーンのストーリーを追っているのでしょう。
笑顔で2ショット
1956年7月、当時の夫であるアーサー・ミラーとクルマに乗るマリリン・モンロー。しかしこの頃が、ジェットコースターでいうなら最初の山を登り切ったところだったのかもしれません。
マリリンはアーサーとの子どもを妊娠しましたが、残念ながら流産してしまいます。このことにマリリンはひどくショックを受け、精神科のカウンセリングを受けるまでに至っています。そうしてこの頃から、2人の関係の崩壊は表面化したと言われています。
マリリンは精神状態の悪化に伴い、睡眠薬の量が増えていき…それに対し、アーサーはつきっきりで薬の量を監視。そのような苦悩な日々を続けながらも、1958年に2度目の妊娠をします。しかしまた、流産してしまうのでした。マリリンの精神状態は、誰もが手に負えないほどの領域に達していたと言われています。
そこに追い打ちをかけるようにアーサー自身も、自身も仲の良かったイヴ・モンタンとマリリンが不倫騒動を起こしたこともあり、1960年11月11日ついにアーサーはマリリンとの離婚を発表します。そして1961年1月24日に、アーサー・ミラーと正式離婚。その後の2月5日にマリリンは、精神病院に入院することになります。
そして1962年8月5日、ロサンゼルス郊外のブレントウッドにある自宅の寝室で、全裸で死亡しているところをメイドに発見されるのでした。36歳という若さで亡くなったのです。
読書に没頭するマリリン
1950年8月、ロサンゼルスにて。エージェントのジョニー・ハイドの尽力により、『イヴの総て』に出演するなど注目され始めてきた時期になります。
マリリンにとって大好きな趣味の一つである読書を、アウトドアで堪能しているところです。
関連記事:マリリン・モンロー、幻の美写真11枚
20世紀を代表するスタイルアイコンとして、マリリン・モンローは今もなお、その数奇な運命、そして稀有な美貌により愛され続けています。そんなマリリンの秘蔵写真を再び入手しました!記事を読む
関連記事:ジョン・F・ケネディ・ジュニアの生涯を振り返る43枚
父ケネディ元大統領のデスクの下で遊ぶ姿やマンハッタンを自転車で移動する姿など...。ジョン・F・ケネディ・ジュニアの生活は常に人々の注目を集めました。記事を読む