萩原健一、「影武者」出演後に見せた狂気の演技、抱き続けた作品への意地とプライド

  • ブックマーク

Advertisement

 ペリー荻野が出会った時代劇の100人。第8回は、萩原健一(1950~2019年)の後編だ。

 ***

 萩原健一を「時代劇俳優」として見たとき、映画「影武者」の前と後では、まるで別人だ。

 1980年公開の「影武者」は、戦国乱世、もっとも天下人に近いとも言われた武将・武田信玄(仲代達矢)の死を秘すため、信玄の影武者として生きることになった瓜二つの盗賊の運命を描く。ここでショーケンは、信玄の息子・諏訪勝頼を演じた。勝頼は側室の子であるため嫡男として認められず、信玄として振る舞う盗人に頭を下げることになって不満を露わにする。やがて暴走気味の勝頼は、武田滅亡のきっかけとなるのである。

 監督・黒澤明。外国版プロデューサーに、フランシス・フォード・コッポラ、ジョージ・ルーカスが参加。俳優たちは3年近い撮影期間、仕事の掛け持ちは許されない。1万人以上のオーディション、2億2000万円かけたオープンセット、北海道での合戦シーン撮影はじめ、日本各地でのロケなど、さすが黒澤作品と思える超大作だ。後に私は萩原健一ご本人から「本当にみなさんがいいと言ってくださったもの、きわきわの美しさは、ある程度の財力がないとできない。黒澤映画やヴィスコンティの贅沢さです」という言葉を聞いた。これだけのスケールの作品を経験したら、俳優人生が変わるのも当たり前だろう。

 ただ、正直言えば、公開時、10代だった私にとって、この映画の勝頼は月代(さかやき)もヒゲもリアルでおやじっぽく、ブスっとしてばかりで「これが、あのショーケン!?」とちょっと腰が引けた。これまでのショーケンは、現代ドラマはもとより、黒駒勝蔵(「風の中のあいつ」73年・TBS)のように時代劇でも、スケベな愛すべき不良という印象だったのが、勝頼は葛藤を抱えて奥底に暗い炎を燃やしているような、どこか狂気じみて見えて怖かった。そして、この狂気をはらんだ演技は、この後のショーケンの時代劇に欠かせないものになった。

 87年の映画「竜馬を斬った男」。京都見廻組の佐々木只三郎(萩原)は、きちんとした身なり、礼儀正しさを持ちながら、「公儀に弓引く者はすべて斬ります」として容赦なく敵を斬る。対照的に坂本竜馬(根津甚八)は、「藩みたいなもん、くそくらえや」と言い放ち、土佐の輝く海に「ほいたら、グッドバイ」と身軽で明るい。中村錦之助の「関の弥太っぺ」(63年)などを撮った山下耕作監督作によるオーソドックスなタッチの作品だが、その中でがんじがらめの只三郎が、自由に時代を動かす竜馬に抱く愛憎、殺気は際立っていた。

 大河ドラマでも強い印象を残した。

 99年の「元禄繚乱」の徳川綱吉。勅使饗応役の赤穂藩主・浅野内匠頭(東山紀之)が殿中松の廊下で吉良上野介(石坂浩二)に刃傷に及んだと聞いた綱吉は激怒し、即刻切腹を命じる。

 ご本人によると、現場はかなり大変だったようだ。

「台本13本持ちなんだぜ。参ったね。それで自分なりにテーマを決めて、頂点に立ったときから孤独でマザコンの男だと。自分が戌年だから犬を殺しちゃいけないって、どうかしてるよ。一番覚えてるのは、綱吉の前に蚊がぶーんと飛んできて、横で書き物をしていたやつが手で叩き殺す。綱吉はカーッとなって、そいつをぶっ飛ばすんだよ。いくら生類憐みの令だからって、蚊も殺せないって、おかしいよな」

 常に母親の桂昌院(京マチ子)を気にし、落ち着きのない上様。エキセントリックな綱吉の裁きは、大石内蔵助(中村勘九郎、のちの勘三郎)はじめ、赤穂浪士の討ち入りのきっかけとなるのだ。

 もうひとつ強烈だったのが、02年の「利家とまつ」の明智光秀。初めは朝倉家や足利将軍家の側にいて、織田信長(反町隆史)から「明智光秀殿じゃ」などと呼ばれ、「天下布武」について語るような教養人光秀だが、武闘派の前田利家(唐沢寿明)や秀吉(香川照之)とは当然、気が合わない。信長の妹のお市(田中美里)も嫌な顔で「明智をヘビと見ました」とまさかのヘビ呼ばわり。他の家臣たちからも「いつも冷静で可愛げがない」「傍から見るとイライラする」などと言われ、光秀は織田家で浮いてしまう。

 やがて、本能寺へと向かうショーケン光秀の形相はすさまじい。顔は青白く、目は血走ってギラギラ、かすれた声が甲高く裏返って「天と神々に替わり成敗いたす!」「信長の首じゃ! 首をさらすのじゃ!!」。ひーっ。つい萩原主演の映画「八つ墓村」(77年)を思い出したりした。かなりの怪演だった。

 遺作となったのも大河ドラマ。19年「いだてん~東京オリムピック噺~」の高橋是清役だ。このときは狂気とは無縁で、東京五輪実現のために突っ走る主人公の田畑政治(阿部サダヲ)に押しかけられて困惑、苦笑しつつ応援する肝の据わった大人物を悠々と演じていた。本当は当時、すでに病でかなりつらい状況だったのだという。悠々と見えたのは渾身の演技だったのだ。

 二十数年前、初めて取材が決まったとき、編集者から「難しいから、気をつけてね」と言われたことを思い出す。確かにご本人は「こういう取材だと、ほとんど『傷だらけの天使』『前略おふくろ様』(共に)の話になって、偏ってくるんだよ」と不満げではあった。しかし、映画、大河ドラマなどの話になると、作品や現場への思いをしっかりと語ってくれた。

「今のテレビがつまらないのは、コンプレックスを忘れたからじゃないの。昔のテレビは映画に対するコンプレックスがあって、『負けるもんか』と思ってやってた。脚本家のプライドもすごかったですよ。僕は早坂暁さんに、どうして僕を使ってくれないんですかと聞いたら、『倉本(聰)が育てた俳優だから』と言われました」

 多くのトラブルも経験したが、意地とプライド、さまざまな力関係の中で自分が納得いく仕事をするために、戦い続けていた人なのだ。出演作がそれを物語っている。

ペリー荻野(ぺりー・おぎの)
1962年生まれ。コラムニスト。時代劇研究家として知られ、時代劇主題歌オムニバスCD「ちょんまげ天国」をプロデュースし、「チョンマゲ愛好女子部」部長を務める。著書に「ちょんまげだけが人生さ」(NHK出版)、共著に「このマゲがスゴい!! マゲ女的

デイリー新潮取材班編集

2021年3月3日掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。