2018年3月20日掲載
2018年3月20日掲載

五雲亭貞秀、貞秀「三都涼之図 東都両國ばし夏景色」(国立国会図書館蔵)

舟宿小松屋の佐藤さんご夫妻

Q : 舟宿小松屋さんは、当時からここ柳橋で舟宿を営まれていたのですか。
 
 昭和2年(1927)に、小松川から柳橋に移ってきまして、投網・釣り・納涼・花見・花火・観覧・屋形舟などの舟遊びを楽しんでいただいてきました。戦前戦中のそれどころではない時は、漁をして過ごしていました。戦後、町が復興していく中で、また戦前と同じように隅田川も賑わいを取り戻していき花火も復活しました。しかし、昭和43年(1968)頃には、高度経済成長期の川の悪臭や汚れの酷さのため、川から離れざるを得ない状況となってしまいました。
 その後、昭和51年(1976)10月、隅田川清洲橋付近で魚が跳ねていると、料亭(小安さん)から連絡をいただき、父母が見に行くとボラが飛び跳ねていました。その頃には、あのメタンガスの泡も汚臭も無くなり、かなり川がきれいになりつつありました。隅田川に思い入れのある多くの人々の願いや地道な努力が実り、法が整備されたためです。そして、再び大川に屋形舟を走らせたいと父母の思いや料亭の女将さんからの願いもあり、昭和52年(1977)6月17日に舟宿小松屋として屋形舟を復活させました。料亭や昔からのお客さんからはそれは大層喜ばれ、今度は墨堤(隅田川の堤)の花見、早慶レッガタ、花火を復活させようと、いろいろな所で人々が動き、それぞれの復活に繫がっていきました。
 往時の屋形舟の復活を望まれていた方が多かったのでしょう。数多くのマスコミにも取り上げられ、隅田川がきれいになったことの象徴のようになり、料亭も次第に賑やかになっていきました。舟宿小松屋でも屋形舟での墨堤の花見を復活させて、驚くほどの多くの方々が乗られたことを、はっきり覚えております。少しずつきれいになる隅田川に人々の眼が向き始め、昔ながらの勢いのある川を目指していくようになりました。(下段に続く)
 


昭和38年(1963)秋のハゼ釣り出船の朝(舟宿小松屋蔵) 

 
Q : 現在の隅田川花火大会が、どのように始まったのか、教えて下さいますか。
 
 昭和53年(1978)、「両国川開き花火」は名称を「隅田川花火大会」と変えて、花火が戻ってきました。長年、花火を打ち上げていた「両国花火組合」はその役目を終えて、台東区と墨田区が順番に担当して打ち上げる自治体が執り行う「隅田川花火大会実行委員会」が発足しました。
 当初の計画が持ち上がった時には、打ち上げ日時、打ち上げ台船、川の干満の影響、花火観覧船の数などを教えてほしいとの相談を受け、父が随分と役所に出向きました。両国川開き花火の船の責任者であり、誰よりも復活を願っていた父ですので、喜んで忙しく動き回っていました。各区、警察署、消防署の関連各所は、初めての大会で大変なご苦労があったことと思います。花火大会の復活を、大勢の方々が待っていたのでしょう。当時の新聞などで開催発表がされると、花火舟の問合せ予約が店に殺到しました。(右段に続く)

 復活した初めての隅田川花火大会では、舟宿小松屋で90隻の船を手配し、店、神田川内の2ヶ所、墨堤桟橋の4ヶ所でお客さまに乗船していただきました。当時、木造の小さな釣り船に小松屋の大弓張提灯とお客さまのお名前を書いた木札を高々と掲げ、次々と出船していきました。とにかく船が多いものですから、午後1時頃から15分間隔で出しておりました。2年間は墨堤桟橋が使えましたので、私ども夫婦は墨堤から向島の料亭のお客さまの乗り込み担当をしていました。墨堤では、1年目が15、16隻、2年目は30隻から40隻程もあったと覚えております。
 目の前の対岸が、打ち上げ場所(第1会場)ですから、花火師さんたちの動きが全て見え、夜空に拡がる大輪の花火にすっかり魅了されたものです。向島周辺の大勢の人々の打ち上がるまでの期待感がひしひしと感じられ、最初の花火が打ち上げられた時の歓声、次々と上がる花火に息を呑む様子、最後の花火の後に上がる大きな拍手と大歓声。多くの方が本当に待ち望み、心から楽しんだことが伝わる一時を過ごしました。花火の打ち上げのずんとくる轟音、観客のどよめき、花火の煙り、降りかかる火の粉や灰さえもうれしくてたまりませんでした。子供の時以来の花火に胸を打たれ、今でも昨日のことのように覚えております。(下段に続く)
 


隅田川には堤防やテラスが築かれ、船から見る景色はずいぶんと変わりました。
 

歌川貞房「東都両國夕涼之図」(国立国会図書館蔵) 

 
Q : 今日、隅田川花火大会は、東京の夏を知らせる一大イベントとなっていますが、テレビの実況中継も行われていますね。どこから中継していたのでしょうか。
 
 テレビ東京は、スポンサー企業として復活時から独占生中継を行っています。中継地点については、最初の頃はどこからだったとか、舟を出す事に追われてテレビも見る間もありませんでしたので、定かには思い出せません。 両国花火の浮世絵や錦絵を見ますと、両国橋は絵には描かれていますが、両国橋上流(両国橋から蔵前橋間)、浜町河岸(両国橋から今の新大橋手前)あたりから打ち上げられていたようです。江戸時代の大川端の料理茶屋が催して打ち上げていたのですから、料理茶屋に向けてかと思います。


舟宿小松屋の佐藤さんご夫妻