2018年3月20日掲載
2018年3月20日掲載

一立斎広重(安藤広重)「両國納涼花火之圖」(国立国会図書館蔵)

舟宿小松屋の佐藤純子さん

柳橋で船宿を営まれる舟宿小松屋の佐藤純子さんに、隅田川の花火大会の歴史について、お話しを伺いました。平成29年(2017)10月に取材しました。

 
隅田川花火大会の由来について

 
Q : 隅田川での花火の始まりについて伺えますか。
 
佐藤 : 享保17年(1732年)、飢饉と疫痢の流行による死者の慰霊と悪疫退散のために、八代将軍徳川吉宗が両国で花火を打ち上げたことが、両国川開き花火の始まりと言われています。元々、隅田川の川開きの日に水神祭が行われていて、それに併せていたようです。これは施餓鬼と言う催しと思われます。将軍吉宗が催した両国川開き花火以前から、江戸市中で花火が盛んになり、火災も多く発生したため禁止され、隅田川下流の右岸のみに制限されました。
 
Q : 両国の川開きが発祥だとの話ですが、浅草寺や浅草神社にも縁があるのでしょうか。
 
 浅草寺、浅草神社との繋がりは、あまり無いのではと思われます。その根拠としては、後の川納め(川仕舞い)の時には、隅田川神社の宮司さんや多くの神官が船に乗られたと聞いているためです。私どもも正月にお札をもらい受けるのは、昔から隅田川神社となっております。水神様として、なじみ深い神社です。(下段に続く)
 


屋形舟に使われた弓張提灯

 
Q : 昭和の時代まで、花火大会はどのように続いたのでしょうか。
 
 昭和11年(1936)に2・26事件が起こり、内外の情勢も激しく変わりつつある中、昭和16年(1941)の第二次世界大戦の開戦前から、両国川開き花火は中断されました。 昭和13年(1938)から昭和22年(1947)の間です。
 昭和20年(1945)1月と3月の空襲で隅田川周辺は広範囲に焼け出されました。
 戦後、昭和23年(1948)頃になると、料亭も徐々に復活してきて店の数も増えてきました。昭和23年3月初旬、柳橋料亭組合長(いな垣さん)から、父(秋元康信)が相談を受け、その年の8月1日に川開きを再開しようと、柳橋料亭組合、花火師、船宿等が動き、連日関係官庁に通い、ようやく戦後第一回目の花火は、潮の干満の少ない小潮の8月1日(土)に両国橋から蔵前橋の間で無事に打ち上げられました。
 
Q : 戦後に開催された花火は、とのような組織が運営されていたのですか。
 
 戦前戦後ともに、柳橋料亭組合が「両国花火組合」を運営していました。江戸時代に遡っても、江戸有数の盛り場であった両国広小路、大川沿岸の料理茶屋が協力しあって打ち上げていたようです。再開後に、全国花火コンクールが開催されるようになった時期には、打ち上げ場所が両国橋と新大橋の間になり、浜町河岸では、道路上に桟敷を組んだりもしたとのことです。また、その後の打ち上げの場所は、両国橋から総武線鉄橋間に戻ったようですが。(右段に続く)
 



両国花火資料館では、花火の仕掛けや江戸時代の江戸花火に関する古文書等が紹介されています。(両国花火資料館、墨田区両国二丁目10番8号)

Q : 花火大会と料亭はどのようなつながりがあったのですか。
 
「両国花火組合」は、柳橋料亭組合などが主体となった花火を打ち上げるための組合です。料亭は、大川に面した座敷から川床を張り出し、その前の川に舟を並べて舫い(もやい、舟を固定すること)、多くのお客さまに楽しんでもらう訳です。そのようにして、自治体の主催ではなくて「両国花火組合」が長い間、執り行ってきました。
 明治から昭和に掛けて活躍した江戸文化や風俗研究の江戸学の始祖と言われる三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)の著作には、かなり皮肉っぽく、旦那衆は表の花火を見て(料亭側)、庶民は両国橋を渡って裏側の花火を見たと書いています。これは、料亭に向けた仕掛け花火もあったからと思われます。(下段に続く)
 



三田村鳶魚「娯楽の江戸」の川開きの項(大正14年(1925)、恵風館)(国立国会図書館蔵)
柳橋の茶屋や料亭の両国花火組合が納涼のために花火大会を催し、年に3、4度もあったと書いています。

 
Q : その後の花火大会は、どのように続いたのでしょうか。
 
 その後の高度経済成長期に至り、隅田川は工場排水のため汚くなり、また交通量も増加したため、昭和36年(1961)の夏を最後に永らく続いた両国川開き花火は終わりを告げました。その当時の隅田川は、汚染とメタンガスの臭いで大変酷いものでした。また、同じ時期に堤防が築かれて、料亭の庭から見えていた大川(隅田川)も見えなくなり、料亭が設けていた張り出し桟橋も無くなり、川岸には高速道路が走り、料亭も次第に少なくなっていきました。(下段に続く)
 


両国花火組合の手書きの花火大会の「日ビラ」と呼ばれた張り紙。最初の一枚の墨が滲むと雨が降ると言われていました。(同組合の伊東繁次郎氏の書)

 

川納め(川仕舞い)について 

 
Q : 川開きの他にも、隅田川での船遊びの催しがあつたのでしょうか。
 
 毎年の大川(隅田川)の舟遊びの始まりは川開きと言いますが、始まりがあって納めがないのは、おかしいので、舟で灯籠流しをやって川納めをしようではないかと、柳橋料亭組合副組合長(小安さん)から父に相談があり、昔は行っていたので復活しようと「龍灯祭」を昭和29年(1954)9月10日に復活させました。龍を和紙でかたどった船を作り、名妓の踊りを船上で披露しました。灯籠舟70隻を集めて、お客様に思いを灯籠に書いてもらって隅田川に流し、隅田川神社の宮司を初め多くの神官に舟に乗って頂いてお清めをして、隅田川で亡くなられた方たちの霊を慰めました。おおよそ8月下旬か、9月初めに開催し、昭和46年(1971)8月24日まで行っていました。 (次ページに続く)
 


舟宿小松屋の佐藤純子さん