ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める偉人伝をお届け!
「ピリオドドラマ」と呼ばれる時代劇は、海外ドラマの定番。豪華なセットや美しい衣装が彩る映像美に加え、王侯貴族の数奇な人生は物語に重厚感を与えるもの。
そんなピリオドドラマのスターの一人と言えるのが、ヘンリー8世(1491~1547年)。15世紀に生きたイングランド王ですが、彼の人生はこれまで何度も映像化され、多くの歴史学者が今もなお、彼について研究を続けています。
ヘンリー8世には「残虐な暴君」のイメージがあり、また「6回結婚」などの超有名エピソードがある王様です。しかし「(結婚6回以外で)具体的に何をした王様なの?」と聞かれると「はて…?」となってしまう人も多いかもしれません。
そこで今回は、ドラマや映画を見る前に知っておきたい「ヘンリー8世の基礎知識」を解説します。
▲『THE TUDORS〜背徳の王冠〜』の予告編より。ヘンリー8世の後半生を4シーズンかけてじっくり描いたドラマ。
イギリス絶対王政を築いた「強き王」
ヘンリー8世は、1491年6月28日にチューダー王朝の初代王(イングランド王)であったヘンリー7世の次男として誕生。次男だったので本来なら王になる予定ではなく、「コーンウォール公爵」としてのんびり生きるはずでした。
しかし長兄アーサー(1486~1501年)が早世したため、突如「王太子(王位後継者の筆頭、プリンス・オブ・ウェールズ)」に繰り上がってしまいます。
1509年4月22日、父の死去に伴い17歳で即位、その2カ月後に亡兄の妻だったキャサリン・オブ・アラゴン(1487~1536年)と結婚しました。
即位後1年ほどは重臣に政治を代行させていたものの、1510年に父の重臣2名を処刑。以来、「自分の邪魔になる人物はバンバン処刑する」がヘンリー8世のやり方として定着します。また妻を2人処刑(後述)していることもあり、無慈悲な王として歴史に名を残しました。
彼の「王」としての政治的功績として語られているのが、絶対王政の確立です。イングランドでは1455~1485年に「薔薇戦争」と呼ばれる内乱がありました。この戦争に父・ヘンリー7世が勝利し、新王として「チューダー朝」を開きました。
その王朝を引き継ぎ、体制強化に貢献したのがヘンリー8世(以下「ヘンリー」と記述)でした。中央集権化を進め、「絶対王政(=国王が絶対権力を持ち、国を統治する)」を強化。つまり絶対権力者として君臨することに成功したのです。
“離婚王”の理由とイングランド国教会の成立
当時は、ローマ・カトリック教会がヨーロッパ中に絶大な権力を持っていた時代。しかし贖宥状(=免罪符)の販売など、腐敗した政策も行っていたため、1517年にドイツのマルティン・ルターが厳しく批判。これを皮切りにヨーロッパで宗教改革が始まり、プロテスタント(新教)諸派が誕生しました。
当時のヘンリーは、1521年に教皇レオ10世から「信仰の擁護者」の称号を授かるほど熱心なカトリック信仰者だったので、教義的な意味でローマ教会に対抗する気はさらさらなかったようです。
そんな彼でしたが、大きな悩みを抱えていました。薔薇戦争直後の、まだチューダー朝が不安定な時代に、王位に近い貴族たちからの横やりを避けるためにも「何としても直系男子の世継ぎがほしい!」と焦りまくっていたのです。
妻キャサリン・オブ・アラゴン(以下「キャサリン」と記述)との間に男子の跡取りがおらず、愛人はたくさんいたものの、正妻との間に生まれる「直系男子」にこだわっていました。次第に「何としてもキャサリンと離婚したい!」(後述)と考えはじめます。
カトリックは離婚を禁じているため、いくら王でもあっさり離婚はできません。1527年(キャサリン当時40歳、結婚18年後)、ヘンリーはローマ教皇に「離婚の許可(正しくは婚姻無効)」を願い出ます。しかしローマ教皇は、これをあえなく却下。
実はヘンリーは、キャサリンとの婚姻時にもローマ教皇に婚姻の許可を願い出ています。たった5カ月弱ではあったものの、実兄と夫婦であった過去を持つキャサリンと結婚することは、当時の教会法に反すること。教皇から特別な許しを得たうえで、キャサリンと結婚していたのです。しかし2度目の「特別なお願い」は聞き入れられなかったわけです。
この教皇の決定に激怒したヘンリーは、ローマ教会から離脱を決意。離婚可能なプロテスタント「イングランド国教会」を立ち上げます。これが「イングランドにおける宗教改革」と呼ばれるものですが、他のヨーロッパ国の宗教改革のように「聖書に立ち返ろう」的な理由ではなかったうえに、ヘンリーは「心はカトリック」のままだったため、イングランド国教会は教義的にはカトリック的な要素を多いに残したものになりました。
このカトリックからの分離は、イングランドの絶対王政をより強固なものにしました。1533年に「上訴禁止令」を発布し、国王の離婚問題はローマ教会にお伺いを立てずとも、王国内で処理することが可能に。また1534年の「国王至上法」により、王がイングランド国教会の首長であることが定められました。さらには修道院を解散し、没収した財産を軍備の補強に使用。
長年王より高い位置にあったローマ教皇でしたが、すべての意味でイングランド王が国内で「一番偉い人」となったのです。
とにかく世継ぎがほしかった…ヘンリーの6人の妻と愛人
キャサリンとの離婚成立後、5回も結婚したヘンリー。6人の妻と愛人を以下にざっと紹介します。
妻①キャサリン・オブ・アラゴン(1485年12月16日~1536年1月7日)
- 結婚:1509年6月11日(ヘンリー18歳、キャサリン24歳)
- 離婚:1533年5月23日(ヘンリー42歳、キャサリン48歳)
アラゴン王フェルナンド2世と、カスティーリャ女王イザベル1世の末娘。ヘンリーの兄アーサーと14歳のとき(1501年)に政略結婚するも、アーサーがあっという間に死亡。本来なら持参金付きで実家に戻るはずが、戦争続きでお金がなかったイングランドはこのお金を渋り、キャサリンは次男ヘンリーと婚約、1509年に結婚しました。
ヘンリーは婚約当時、キャサリンのことが大好きだったそうで、父崩御から1カ月半で結婚を強行したほどです。しかしキャサリンは、何度も流産と死産を繰り返しました。1511年、男児(ヘンリー)を出産するも52日で死去。この頃から二人の関係は冷え始めたと言われています。子どもは娘・メアリー(後の女王・メアリー1世)のみでした。
彼女が41歳頃の1527年に、ヘンリーは離婚を正式に決意し、1531年に別居。1533年5月23日に、イングランド国教会の大司教により「婚姻の無効」が宣言され、キャサリンは娘メアリーと会うことも許されなくなりました。1536年1月、失意のうちに死去。
愛人:エリザベス・ブラント
キャサリンの侍女。ヘンリーとの間に息子ヘンリー・フィッツロイをもうけました。ヘンリー・フィッツロイはヘンリーに認知された唯一の庶子(非摘出子)。
愛人:メアリー・ブーリン(1500年頃~1543年)
キャサリンの侍女であり、2番目の妻アン・ブーリンの姉とされています(姉か妹かについては諸説あり)。ヘンリーとの間に子どもが誕生している可能性があるものの、認知されていません。
妻②アン・ブーリン(1501/1507年頃?~1536年5月19日)
- 結婚:1533年1月25日頃(ヘンリー42歳、アン31歳頃?)
- 死刑:1536年5月19日(ヘンリー45歳、アン35歳頃?)
キャサリンの侍女であり、メアリー・ブーリンの妹。ヘンリーはアンと結婚するためにローマ教会と決別するほど、彼女に入れ揚げていました。
▲メアリーとアン・ブーリンの関係は、映画『ブーリン家の姉妹』にわかりやすく描かれています。
1533年9月に誕生した王女エリザベス(後の女王・エリザベス1世)は成長したものの、男児には恵まれず。聡明で野心家であったと言われ、浪費家なうえに政治にも口出しました。
次第に、ヘンリーは3番目の妻となるジェーン・シーモアに心変わりし、アンと離婚したいと考えるようになりました。結局、ヘンリーはアンにジョージ・ブーリン(アンの兄)を含む5人との姦通などの罪を着せ、1536年5月19日に彼女を処刑しました。
妻③ジェーン・シーモア(1509?~1537年10月24日)
- 結婚:1536年5月30日(ヘンリー45歳、ジェーン27歳頃?)
- 死別:1537年10月24日(ヘンリー47歳、ジェーン28歳頃?)
ヘンリーは、アン・ブーリン処刑の翌日、アンの侍女だったジェーン・シーモアと婚約し、10日後に結婚しました。1537年にヘンリー待望の男児・エドワード6世を出産するも、3カ月後に産褥死しました。
妻④アン・オブ・クレーヴズ(1515年9月22日~1557年7月16日)
- 結婚:1540年1月6日(ヘンリー49歳、アン24歳)
- 離婚:1540年7月9日(ヘンリー50歳、アン25歳)
ヘンリーの忠臣であったトマス・クロムウェルの提案により、プロテスタントを信仰するユーリヒ=クレーフェ=ベルク公国(現ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州周辺)ヨハン3世の次女、アン・オブ・グレーヴズと1540年1月6日に結婚。
しかし、すぐにヘンリーは離婚を決め、同年7月9日に離婚(婚姻無効)。この離婚は速やかに行われ、アンは離婚後も生き残りました。しかしクロムウェルはこの一件によりヘンリーから見限られ、大逆罪の罪で処刑されました。
妻⑤キャサリン・ハワード(1521?~1542年2月13日)
- 結婚:1540年7月28日(ヘンリー49歳、キャサリン19歳頃?)
- 処刑:1542年2月13日(ヘンリー50歳、キャサリン21歳頃?)
アン・オブ・グレーヴズと離婚して19日後に、ヘンリーはアンの侍女であり、2番目の妻アン・ブーリンの従妹であったキャサリン・ハワードと結婚。キャサリンはカトリック教徒だったものの、若く美しい彼女にヘンリーは夢中になりました。
彼女は独身時代から年上の男性と関係を持つなど、奔放な少女でした。当時すでにヘンリーは性的不能だったとの説もありますが、結婚後、アンはヘンリーの廷臣トマス・カルペパーと不貞関係になったとの嫌疑を掛けられます。プロテスタントの側近から敵視されていた彼女は、婚姻前の関係も含め告発され、姦通の罪で処刑されました。
妻⑥キャサリン・パー(1512~1548年9月5日)
- 婚姻日:1543年7月12日(ヘンリー52歳、キャサリン31歳頃)
- 死別:1547年1月28日(ヘンリー55歳、キャサリン35歳頃)
キャサリンはヘンリーとの結婚前に2度結婚歴があるものの、2度とも死別しています。その後、彼女はヘンリーの3番目の妻ジェーン・シーモアの兄トマスと交際していましたが、彼女を気に入ったヘンリーはトマスを海外に左遷。横取りして結婚しました。
晩年は病に侵され、気性がますます荒くなっていたヘンリー。そんな彼をキャサリンは献身的に看病し、ヘンリーもキャサリンに絶大な信頼を置いていました。
彼女は、庶子の身分に格下げされていたメアリー(後のメアリー1世、キャサリン・オブ・アラゴンの娘)と、エリザベス(後のエリザベス1世、アン・ブーリンの娘)を王女の地位に戻し、王位継承権を復活させた「優しき義母」でした。3年半の結婚生活の後、ヘンリーと死別。
インテリで病弱? ヘンリーの意外な一面
身長190センチ以上(所説あり)、体重約181キロの体躯を誇り、処刑エピソードに事欠かない残虐王のヘンリーでしたが、文武両道のインテリとしても知られています。スポーツだけでなく芸術もこよなく愛し、詩や文章を綴り、楽器を奏で、作曲をし、建築や医学への造詣も深く、英語以外にもラテン語、フランス語、スペイン語に堪能でした。
激高すると手が付けられなかったようですが、カリスマ性と知性を併せ持ち、人間的には魅力的な人物だったと言われています。
しかし堂々たる体型からは想像もできないほど、彼の人生は病気との戦いでした。天然痘(23歳頃)、マラリア(30歳頃)からは回復したものの、マラリアの発作は生涯続きました。
このほかにも、馬上槍試合中の事故の後遺症による片頭痛、テニスで痛めた脚、きついガーターベルトによる下肢静脈瘤を抱え、45歳のときの馬上槍試合中の落馬事故では、馬の鎧に押しつぶされて2時間意識不明になりました。この落馬による後遺症からは最後まで回復することなく、後年は暴飲暴食による肥満も加わり、高血圧や2型糖尿病を患っていた可能性を示唆する研究者もたくさんいます。
また妻たちが次々に死産・流産をしたこと、ヘンリーの息子エドワード6世が早世したこと(先天性梅毒?)から、ヘンリーは梅毒に罹患していた可能性も高いと言われています。
あんなに「直系男子!」を望んでいたけれど…歴史の皮肉
晩年は特に、足の痛みと頭痛に苦しんだと言われたヘンリー。1547年1月28日、55歳で息を引き取りました。
ヘンリーは自分の死後も最後の妻キャサリン・パーが宮廷に残ることを望み、安定した暮らしを保証していました。しかし彼女は義息のエドワード6世の即位を見届けた後、さっさと宮廷を去り、元恋人のトマス・シーモアと再婚しました。
また成長した4人の子ども(エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世、ヘンリー・フィッツロイ)は誰も子どもを残さなかったため、ヘンリーの直系筋は1603年、エリザベス1世の死去により途絶えました。
6度も結婚し、人生のほとんどを「直系男子が欲しい!」と絶叫し続けたヘンリーでしたが、後を継いだエドワード6世の治世は6年半で終わりました。結局のところヘンリーが確立した絶対王政は、自分が処刑した元妻が生み、疎まれて育った娘・エリザベス1世の時代に全盛期を迎えることになったのです。
▲映画『エリザベス』(1998年)より。ヘンリーが築いた礎を、より強固なものにして世界制覇に挑んだのはエリザベス1世でした。
いくら王とて、すべてが意のままにはならないもの。そして歴史は時に、皮肉な結果をもたらすものですね。
これからもドラマに映画に、「ヘンリー8世」は大活躍するはずです。中世を紐解くと、「ヘンリー」「キャサリン」「アン」「メアリー」「トマス」などの同じ名前の人物が多数登場します。「誰が誰だっけ?」と思ったときに、またこの記事を読み直していただけると幸いです。
参考文献・資料
- <The National Archives>
- <Britannica>
- <Historic Royal Palaces>
- <The History Press>
- <National Portrait Gallery>
- 『百年戦争-中世ヨーロッパ最後の戦い』(中央公論新社) 佐藤猛・著
- 『イギリス王室物語』(講談社)小林章夫・著
- 『物語イギリス史 上』(中央公論新社)君塚直隆・著
- 『薔薇の冠 イギリス王妃キャサリンの生涯』(朝日新聞社)石井美樹子・著
- 『英国王妃物語』(河出書房新社)森護・著
- 『旺文社世界史事典』(旺文社)
- <コトバンク>
- 『Henry Ⅷ』(ドキュメンタリー、Channel5, UK)他、多数。