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勝又清和教授のお~い戦観戦記(上) 将棋・王位戦第1局を解く

2023年7月13日 18時30分 (7月15日 00時40分更新)

王位戦第1局で初手を指す藤井聡太王位

 ●王位戦が開幕

 藤井聡太王位に佐々木大地七段が挑戦する「伊藤園お~いお茶杯第64期王位戦」の七番勝負が、7月7日に開幕した。第1局は中日新聞が主催、最近は愛知県での開催が通例となっている。本局の舞台は愛知県豊田市「豊田市能楽堂」。日本文化を凝縮した空間での対局はまさにタイトル戦にふさわしい。
 立会は私の師匠の石田和雄九段、副立会が弟弟子の高見泰地七段。石田は、藤井の大師匠である板谷進九段の弟弟子だ。現地の大盤解説を担当するのは、藤井の師匠杉本昌隆八段、聞き手は姉弟子の室田伊緒女流二段と、これまた石田門下の鎌田美礼女流2級という布陣である。ちなみに私も今回は初日から現地に入った。2日目には藤井の兄弟弟子の齊藤裕也四段も控室に顔を出して検討に加わった。

 ●佐々木が秘策を用意

 

(1)

振り駒により藤井が先手となる。佐々木は、4日前の7月3日に行われた棋聖戦五番勝負第3局でも後手番で、藤井得意の角換わりを受けたのだが、本局は秘策を用意していた。「横歩取り」に誘導し、自らの飛車先の交換をせずに△5二玉(1図)と上がったのだ。前例は、2023年5月19日に指された竜王戦1組での丸山忠久九段対松尾歩八段の1局しかない(非公式戦で1局あり)。
 佐々木の師匠深浦康市九段は、ABEMA中継の解説で「今日の将棋は練習でも指されたことがない。誰にも言わなかったのだろう。やってくれたな大地という感じ」と驚いている。藤井も局後に「横歩取りは想定していませんでした。5二玉型はもっと想定していませんでした」と、意表をつかれたことを認めた。佐々木自身は「松尾先生が指されていて、ひとつの変化球として有力かなと思っていました」と局後のインタビューで明かした。

(2)

 藤井が17手目にその前例から変化させ、さらに23手目、1日目午前中から63分の大長考で▲6六角(2図)と自陣角を打った。前例どころか類型もない将棋となり、両者時間を使って指し進める。

 ●2人の共通点

 ところで佐々木は棋聖戦から王位戦と、立て続けに藤井への挑戦、合わせて十二番勝負だ。海外も含めて各地を2人で転戦している。彼らは互いの将棋については徹底的に調べているだろうが、人間としてはどのくらい知っているのだろう。
 藤井聡太と佐々木大地。7歳違いの2人には共通点がある。小学校3年生のときに、全国小学生倉敷王将戦・低学年の部で優勝していること。熱烈な弟子思いの師匠がいること。2016年に棋士になっていて、棋士番号が1つ違いなこと(佐々木が半年早く、棋士番号306、藤井は307)。最多対局賞、最多勝利賞を受賞していること。2人とも2019年に、最初のタイトル挑戦のチャンスを逃していること(藤井は王将リーグ最終戦、勝てば挑戦権獲得だったが、広瀬章人八段に負けて逃す。佐々木は棋王戦挑戦者決定2番勝負第2局で本田奎六段に負けて逃す)。そして、最初のタイトル挑戦が棋聖戦で、次が王位戦というのもまったく一緒だ。
 また2人の共通点として、早くからトップ棋士との研究会に参加できたなど、人間関係に恵まれていることもある。藤井が四段時代から永瀬拓矢王座自ら名古屋まで出向いて練習将棋を指していることは有名だが、佐々木も修行時代に十八世名人有資格者の森内俊之九段との研究会に加わっていた。この研究会には、佐々木と親交が深い高見もいた。「森内さんからの年賀状に、佐々木大地さんを交えて研究会をやりましょう、というお誘いがあったのがきっかけです。当時、私が五段で、佐々木七段が奨励会三段だった頃です。」
このメンバーとなった理由の一つに、当時は全員が横浜在住だったことがある。「横浜に住んでいてよかったです」と高見は述懐する。
 そういう高見は、佐々木の初タイトル戦に向け、数人とお金を出し合って和服をプレゼントしたと聞いている。師匠や親族が送るのはよくあることだが、友人が高価な和服を贈ったとは聞いたことがない。

 ●苦労人の佐々木

 しかし、佐々木は藤井と違い、棋士となるまでの歩みは苦難の連続だった。
 奨励会入会は中学1年生。小学校3年で全国優勝なのに、なぜ遅れたのか。その理由は心臓の病気だ。佐々木は長崎県の離島対馬出身、島から長い時間をかけて将棋大会などにも通っていたが、9歳のときに拡張型心筋症という指定難病を発症する。師匠となる同県佐世保市出身の深浦康市九段と初めて出会ったのは、小学6年生のとき、佐々木は体に医療用チューブを巻いており、深浦は棋士として体が持つのかと心配したという。
「自分には将棋しかないって顔をしていて…」(深浦)
 佐々木の両親は、息子の夢を叶えるため一家で横浜に引っ越した。父親は52歳にして、まったく縁がない土地での転職である。
 中学1年生12歳で奨励会入会、18歳で2013年後期三段リーグに参加する。2期目には13勝5敗をとった。ところがこの期は13勝が6人という空前の大混戦で、順位12位の佐々木より上位の増田康宏七段・黒沢怜生六段が昇段、次点に終わる。(なお藤井は、三段リーグ初参加のとき同じく13勝5敗だった。ところが藤井の他に13勝した三段はおらず、順位27位から首位で昇段している。)5期目にも次点を取り、次点2回により四段昇段。2016年4月1日、規定によりフリークラスから棋士としてスタートした。
 棋士になってからは、すぐに勝ちまくった。2017年2月、NHK杯予選での勝利でデビューから20勝8敗となり、フリークラスからの昇級条件を満たし、プロ入りからわずか10カ月半でC級2組への昇級を決めた。フリークラスでのプロデビュー後1年以内にC級2組へ昇格したのは史上初だ。ちなみに筆者は佐々木と2016年9月に銀河戦本戦で対戦、軽く一蹴され、なんでこんなに強いのに三段リーグで2位以内に入れなかったんだと不思議に思った。その佐々木がついに今年、タイトル戦のひのき舞台に立った。しかも連続2タイトル挑戦だ。フリークラスから四段スタートとなった棋士は10人、タイトル挑戦者となったのは、これも初めてのことだ。
 さて、若けれど、それぞれの道を辿り来て本局である。
 

(3)

藤井は角の利きで飛車の動きを封じ、弱点の桂頭を狙おうとしたが、佐々木は巧みな対応を見せる。30手目△4四歩(3図)と突いたのが好手。角で取ることができるのだが、そうすると後手の飛車へのにらみがなくなり中段に浮かれて、要所に転進されてしまう。藤井は48分の長考で、歩を取らずに駒組みを進めたが、佐々木も金を玉頭へ盛り上がって、藤井の角の働きを半減させた。
藤井「歩を突かれてまずくしたかと。自陣角を打った構想がおかしかったかもしれません」
 序盤戦では佐々木が一本とった形である。
 私が王位戦での「横歩取り」で思い出すのは、50年以上前の1982年、中原誠王位(当時名人)に、内藤國雄九段が挑戦した第23期王位戦七番勝負第2局だ。
 内藤は横歩取りを武器にしてタイトルを取った初めての棋士で、飛車・角・桂の飛び道具を見事に操り「内藤流空中戦法」と呼ばれた。第2局では「横歩取り4五角戦法」を採用し、序盤から駒を取り合う激しい将棋となった。この対局は負けたが、シリーズは内藤が4勝2敗で制し王位を獲得した。私もアマチュア時代に4五角戦法を得意にしていたので思い入れがある。ちなみに翌年、私が受けた奨励会試験の筆記試験は、この将棋の棋譜のみが記されており、局面図を書けという問題だった。
 内藤は横歩取りで飛車・角・桂の飛び道具を操った。一方、本局の佐々木は金銀を全面に押し出して主導権を握った。当然のことながら将棋は進化し続ける。

 ●師弟は九州男児

 封じ手の時間が近くなり、17時42分に佐々木は指した。
 なるほど封じ手にしないつもりか。というか封じ手にしたくない…? まあ初めての2日制だしなあ。ところが藤井はすぐに次の手を指した。この手しかないと思っているから指しただけだろうが、結果的に微妙な駆け引きとなった。結局、佐々木が36手目を封じることに。ABEMAでは杉本と深浦とダブル師匠対決で盛り上がっていたが、深浦は2日制の戦い方について、アドバイスしていたようだ。
 深浦は王位戦に縁の深い棋士である。2007年、第48期王位戦で羽生善治王位に挑戦し、4勝3敗で制した。深浦の師匠の花村元司九段も1962年に挑戦しているが当時王位を持っていた大山康晴十五世名人に4連敗で敗退している。無冠に終わった師匠に代わり、35歳で初タイトルを獲得したのだ。翌年は羽生のリターンマッチを4勝3敗で初防衛。木村一基九段の挑戦を受けた七番勝負では3連敗から4連勝で防衛した。深浦と木村は親友だったが、この戦いの後1年半も会話がなかったという。しかし、4期目をかけた戦いは23歳の広瀬章人八段の勢いを止めることができず、2010年9月2日、3期保持した王位を失った。千日手指し直し、終了時刻が21時37分、投了時の「後手」の深浦玉が3七にいたと言えば、どれだけすごい戦いだったかわかるだろう。感想戦終了後、ベテランの担当記者が、打ち上げは出なくていいよと深浦に話しかけた。深浦は翌々日にも北海道で対局が控えており、そのことも配慮したのだ。
 実は私もそこにいて、深浦はすぐ帰るのだろうなと思っていた。22時過ぎてから打ち上げが始まりしばらくすると、なんと深浦が現れた。スーツに着替え、ネクタイもきちんと締めている。深浦は会釈して記者の隣りに座り、「にこっ」と笑って日本酒を記者に渡し、升を持った。記者は優雅な所作で酒をなみなみとつぎ、深浦はそれを一息で飲み干した。凄まじい勝負からほとんど食事も取らず、胃は弱っていたはずだが、深浦は顔色を変えず、記者に返杯の酒をついだ。記者も笑って飲み干す。そして少し話してから「今まで本当にお世話になりました」と深々とお辞儀し、深浦は去っていった。長年将棋界を支えたそのベテラン記者高林譲司は、このタイトル戦で定年を迎えた。高林さんのためだけにスーツに着替え、打ち上げに顔を出したのだ。私は驚きの余りずっと声が出せず、深浦がいなくなってから、ようやく「深浦さんってすごいね」と、声が出た。深浦の親友である野月浩貴八段がうなずきながら、「本物の九州男児とは彼のことを言うんですよ」と言った。
 私は対局の興奮とともに深浦の振る舞いが頭に焼き付いてその日は眠れなかった。どうすれば深浦康市のような人間になれるのだろうか? 

 勝又清和(かつまた・きよかず) 1969年生まれ、神奈川県座間市出身。プロ棋士、七段。石田和雄九段門下。戦法の解説などに通じ、「教授」のニックネームで知られる。

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