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第1部 校史編 「母校と私」 静岡県知事 石川嘉延氏

2000年5月16日 05時00分 (9月7日 17時13分更新)

◆「きまじめさ」共有 幅広い視野で自分を高めて

 「掛川西高出身で著名人は?」との問いに、どの世代の卒業生からも必ず名前が挙がる石川嘉延知事(昭33卒)。二人の兄も同校OBで、本人は百年の校史のほぼ中間点に在学した。静岡県行政のトップの立場から、母校への思いと後輩へのメッセージを語ってもらった。
 ――かつての掛川地区は純農村社会。村落ごとにあった報徳社が生活物資の共同購入や勤倹貯蓄の奨励など、地域コミュニティーの一つの中心だった。掛川西高の前史・冀北(きほく)学舎もその報徳精神がバックボーンとなった。
 堅実、質素、まじめ-掛川という地域社会が受け継いできたこうした気風は、確かに掛川西高の生徒たちに共通する一つのカラーといえますね。私自身、子どものころから、報徳というものへの意識は特になくても、生活の中にその精神だけは溶け込んでいました。
 ――掛川西高の往年の卒業生には海外雄飛組も多い。ブラジルで“日本移民の父”と呼ばれた故平野運平(明37卒)、南米植物を研究している植物学者の橋本梧郎(昭4卒=サンパウロ市在住)の両氏らは現地でも有名だ。
 戦後十年ほどたった私たちの時代、国内や海外の第一線で活躍する卒業生が数多くいたので、在校生にとって刺激になりました。母校や郷土に誇りを抱きながらも、活躍の舞台を外に求める傾向が強まった時期だったような気がします。
 ――昭和四十四年、伊東市で開かれたASPAC(アジア太平洋協議会閣僚会議=アスパック)に反対するデモが発端で、掛川西高では機動隊まで出動する事態が発生。全国に“掛西紛争”として知れ渡った。
 私たちが在学(昭和三十一~三年度)していたころも、早熟な生徒の一部は社会の動向に敏感で、新聞部にいた連中は当時から安保改定の前兆に反応して、記事に書いて町中でビラをまいていました。演劇活動を通じて同様の運動に傾斜していった者もいます。何事もいい加減に済ませられないきまじめさは既にありました。その点、私なんかは、奥手というか保守的というか関心を持っていなかったんです。
 きまじめさという点でもっと言えば、掛川西高のOBには一獲千金を夢見たり、他人を押しのけて自分だけが、というタイプはあまりいません。やはり質素、堅実というスタイルで日々の仕事をこなし、いろいろな分野で「目立たないけれどキーパーソン」という人材が多い。私の場合でいえば、県の財政において少しでも無駄な出費がないかどうか、常に自分に問いかけています。柔軟な発想で支出以上に大きな行政効果を生みだす行財政運営に取り組んでおり、その“静岡型システム”は全国の専門家から注目されていますが、一般には目立たなくて知られていませんね。
 ――掛川西高が位置する中東遠地域は東西交通の要所で、美しい自然も残るいわば静岡県の縮図的存在。
 中東遠、そして静岡県全体は自然や産業などあらゆる面で恵まれています。しゃにむに何かをやらないと生き延びられないというような困難さは少なく、地道に着実にやっていれば安定した生活が平均的に確保できると考えてしまいがち。また、そういう期待ができる地域です。
 しかし、恵まれていることに甘んじてしまえば、成長は止まってしまう。時代を受け継ぐ若者たちには狭い世界だけに気持ちを奪われず、広い視野で自分を高めていってほしい。
(文中敬称略)
 石川 嘉延(いしかわ・よしのぶ)氏 昭和15年大東町生まれ。同39年東大法学部卒後、自治省入省。官房審議官、行政局公務員部長などを歴任。平成5年静岡県知事に当選し、現在2期目。
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