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響き合う「詩の双生児」 生涯続いた友情 金沢で記念の企画展

2022年9月3日 05時05分 (9月3日 11時17分更新)
 大正から昭和にかけて日本の近代詩を牽引(けんいん)した2人の詩人、萩原朔太郎(1886〜1942年)と室生犀星(1889〜1962年)。犀星の没後60年と朔太郎没後80年を記念した企画展「詩の双生児 君は土、彼は硝子」が金沢市の室生犀星記念館で開かれている。互いの違いを認め合いながら、生涯にわたり強く結ばれた2人の友情の足跡をたどる。(松岡等)

室生犀星の肖像写真(大正8年、30歳ごろ)(室生犀星記念館提供)

▽室生犀星 没後60年

 二人の出会いは、ともに憧れた北原白秋(一八八五〜一九四二年)が主宰する詩誌「朱欒(ザンボア)」に犀星の詩が毎月のように掲載されたのがきっかけ。前橋の朔太郎から「非常に熱烈な、読んでいて極まりの悪い恋文のような手紙」を受け取った犀星だが「輝くような好意」で返事を返す。(犀星『卓上噴水の頃』)
 前橋駅で初めて会ったのは一九一四年。互いに第一印象は最悪だった。朔太郎は「ガッチリした肩を四角に怒らし、太い桜のステッキを振り廻(まわ)した現況な小男」(『詩壇に出た頃』)と、犀星も「トルコ帽をかむり、半コートを着用に及び愛煙のタバコを口に咥(くわ)えていた。第一印象は何て気障(きざ)な虫酸(むしず)のはしる男だろうと私は身ブルイを感じた」(『我が愛する詩人の伝記』)と書き残している。

室生犀星の第一詩集「愛の詩集」(室生犀星記念館提供)

 それでも二人は意気投合し、一五年に人魚詩社を立ち上げて詩誌「卓上噴水」、一六年には「感情」を創刊。朔太郎は第一詩集「月に吠(ほ)える」(一七年)、犀星も「愛の詩集」を出版し、二人は詩人として世に出ることになる。
 装丁を恩地孝四郎が手掛けたそれぞれの詩集に序文を寄せた白秋は、純情、朴訥(ぼくとつ)とした犀星を「土」、ハイカラと繊細さを併せ持つ朔太郎を「硝子(がらす)」と例えた。「愛の詩集」に収録された犀星の詩「萩原に与へたる詩」には既に、その後も続く朔太郎との友情の深さがあふれている。その一節。「君だけは知ってくれる/ほんとの私の芸術と私の不断の愛と/求めて得ざるシンセリテイを知ってくれる/君のいふように二魂一体だ」

萩原朔太郎の肖像写真(大正半ば、30代半ばごろ)(前橋文学館提供)

▽萩原朔太郎 没後80年

 記念館が、犀星と朔太郎に焦点を当てた本格的な展示をするのは二〇〇二年の開館以来。嶋田亜砂子学芸員は企画を通じ「初期の詩作から互いに影響し合っていたことを改めて感じた」という。
 犀星が暮らした東京・田端や馬込に、朔太郎も後を追うようにして住んだ時期がある。その間、二人は毎晩のように会っていた。度々、旅にも出かけ、展示ではその様子も紹介する。
 すべてを許し合った二人だが、時に文壇上で論争も繰り広げた。二七年、朔太郎が当時の犀星の詩を「老人心境」などと批判。これに犀星は「老成の心境でも風流韻事に淫する訳のものでもない」と反論した。当時は犀星が芥川龍之介の死に衝撃を受け、失意の中にいた時期でもあった。嶋田さんは「遠慮無くやり合うことで救われ、文学的な再起を決意するきっかけになった面もあったのではないか」と指摘する。

萩原朔太郎の第一詩集「月に吠える」の複製(室生犀星記念館提供)

 四二年、朔太郎が肺炎で五十五歳の生涯を終える。葬儀委員長も務めた犀星は、小説「我友」を書き、二十一編もの朔太郎をしのぶ詩を残した。この年、詩人の佐藤惣之助、白秋、おいで犀星を支えた郷里の詩人・小畠貞一も失い、戦時中でもあったが、犀星は朔太郎の全集刊行に尽くした。
      ◇       ◇       ◇
 企画展は、全国五十二カ所の文学館や美術館などが参加してそれぞれ朔太郎に関する展示を行う「萩原朔太郎大全2022」の関連展。金沢美術工芸大でも「萩原朔太郎×恩地孝四郎」展(十月三日〜十二月二十七日)が予定されている。
 十月一日午後二時からは、金沢市文化ホール(同市高岡町)大会議室で、朔太郎の孫で前橋文学館館長も務める映像作家、演出家の萩原朔美(さくみ)さんの講演会「言葉の素顔を見てみたい〜朔太郎、犀星の詩語について〜」がある。参加は無料だが要予約。(問)室生犀星記念館076(245)1108

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