2011年の星野仙一さんからの年賀状に想う…コロナ禍の困難な年だからこそ、その生き様をかみしめたい
2021年1月3日 11時21分
私が今でも宝ものとして手元に置く1枚の年賀状があります。
「自分らしく生きてこそ人生だ 杜の都で闘う」
2011年の元日に星野仙一さんから届いたものです。その数カ月前、星野さんは楽天からのオファーを受けて「ここ数年、野球がまた恋しくなった。私は、やっぱり野球人なんだなと思う」と、パ・リーグ最下位だった球団の監督に就任しました。
08年に日本代表監督として出場した北京五輪では、金メダルを期待されながら4位。そのショックから野球界からいったん身を引いた星野さんは、周囲に「もう野球が嫌になった」とこぼすほど落ち込んでいました。この賀状をいただいた時に「仙さんが闘いの場に戻ってきた」と再起を誓う言葉に興奮したことは、10年たった今でも覚えています。
3年前の1月4日に膵臓(すいぞう)がんのため70歳でこの世を去った星野さんには、中日スポーツのドラゴンズ担当記者だった時代から何度も怒鳴られましたが、助けられたことも多くありました。
例えばドラ番で横浜に遠征していた時のこと。その日の昼に親知らずが痛くてどうしようもなく、歯科医院に飛び込んで抜歯したことがありました。それでも激痛は治まらず、出血も止まらない。折しもその日は、ナイターの試合後に星野監督がドラ番記者たちを中華街に招待する食事会がありました。
食事にほとんど手を付けることができなかった私に、酔いがまわった当時のドラ番キャップが「監督がせっかくごちそうしてくださっているのに、情けないやつだな」と言った瞬間です。星野監督の怒声が店内に響き渡りました。
「○○(キャップの名前)、いいかげんにしろ!お前は部下の痛みが分からんのか!」
キャップはうつむき、食事会は静まり返ってしまいましたが、私は「監督、ありがとうございます」と心の中で何度も感謝していました。
今になってみれば監督との食事会という緊張と重圧の場で、キャップの気持ちも分からなくはない。ただ、星野さんは助けを求めている人、特に弱者には自分が何とかしてやろうと、その人が最も欲している言葉を全身から発していました。時には鉄拳も辞さなかった厳しさの中でも「情の監督」と言われ、選手の心をわしづかみにしたのは、このような気質があったからだと思います。
強い決意を込めた年賀状から2カ月余の3月11日、東北地方は大地震と津波に襲われ、多くの犠牲者を出しました。兵庫県明石市に滞在していた楽天の選手、スタッフに星野監督が真っ先に出した指令は「すぐに家族の安否を確認しろ」でした。それからは家族と連絡を取れない選手らを励まし、このままチームが野球を続けていいのか悩み、2週間延期して開幕してからは選手らと午前中はボランティア、夜は試合という日々を送りながら「東北の人たちを元気づけたい」と優勝を目指しました。
その年は5位、翌12年は勝率5割の4位、そして13年についにリーグ優勝、さらに巨人を倒して自身初の日本一に輝きます。中日、阪神の監督時代を通じてどん底のチームを再起に導き、さまざまな苦難を乗り越えて「夢は抱いてこそかなう」を身をもって示した星野さん。コロナ禍で迎えた困難な年だからこそ、その生き様をかみしめたいと思うのです。
◆ヘンリー鈴木(鈴木遍理) 東京中日スポーツ報道部長、東京新聞運動部長などを経て現東京中日スポーツ編集委員。これまでドラゴンズ、東京ヤクルトスワローズ、大リーグ、名古屋グランパス、ゴルフ、五輪などを担当。
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