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日航機墜落あす35年 御巣鷹の涙 使命学ぶ

2020年8月11日 05時00分 (8月11日 05時02分更新)
1985年8月、墜落現場で活動する隊員(静岡県警関係者提供)

1985年8月、墜落現場で活動する隊員(静岡県警関係者提供)

  • 1985年8月、墜落現場で活動する隊員(静岡県警関係者提供)
  • 原田享さん
  • 今泉雅宏さん
  • 夏目敏孝さん

◆県警隊員 遺体収容に奔走

 五百二十人が犠牲になった一九八五(昭和六十)年の日航ジャンボ機墜落事故から十二日、三十五年となる。静岡県警からも百五十四人が派遣され、墜落現場となった「御巣鷹(おすたか)の尾根」(群馬県上野村)で遺体の捜索に奔走した。当時活動した隊員は「警察官としての原点」と胸に刻み、過酷な事故現場の経験を後進に伝えている。(三宅千智)
 大隊長として静岡部隊を率いた原田享(すすむ)さん(78)=島田市=は「あれより苦しい体験はそうない」と当時を思い起こす。「指一本でも絶対見逃さない、という気持ちだった」
 部隊が入山したのは事故から五日後の十七日早朝。獣道を五時間かけて登った。足にまめができてはつぶれた。任務は遺体と遺品をひたすら捜し、身元確認班に渡すこと。五体がそろった遺体はほぼなかった。ちぎれた手足、顔の一部が散らばっていた。焼け焦げた枝に人間の腸が引っ掛かっていた。
 事故の二年前に開園した東京ディズニーランドのお土産だろうか、泥だらけのミッキーマウスを見つけた隊員は「つらいよな」と天を仰いで泣いた。死臭や焼けたジェット燃料など、強烈なにおいが服に染み付いた。下山後に洗ったが、数日は落ちなかった。
 第一小隊長として指揮を執った今泉雅宏さん(63)=静岡市駿河区=の長男は当時二歳。次男の出産も間近だった。小さな腕を見つけたときは「なんだよ、うちの長男坊より小さい手じゃねえか」と目頭が熱くなった。
 「痛み、苦しみを知り、人に尽くすことを学んだ」。御巣鷹の尾根にはその後、五回登った。
 当時二十四歳だった県警生活安全部長、夏目敏孝さん(59)は大隊長の指令を無線で伝える伝令担当だった。
 十七、十八日と二十、二十一日の二回に分けて活動した。二回目の捜索時、遺体を黙々と収容する隊員たちの表情は凜(りん)としていた。やり場のない怒りや涙を隠せなかった一回目とは明らかに違った。「亡くなった人、遺族のため、という無私の心が隊員を動かしていた」と振り返る。
 御巣鷹の尾根にはこれまで後輩の警察官らを連れて十回ほど登った。当時の活動を二〇〇七年に手記にまとめ同僚らに配っている。
 現役最後の今年、予定していた慰霊の登山は新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、断念した。「御巣鷹の尾根は警察官の誇りと使命感を教えてくれた。私の原点」。いつかまた、あの尾根に向かう。

<日航ジャンボ機墜落事故> 1985年8月12日午後6時56分ごろ、羽田発大阪行きの日本航空123便ジャンボ機が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落。乗客乗員524人のうち520人が死亡、4人が重傷を負った。単独機として世界の航空史上で最悪の事故となった。


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