2023年4月からアニメ第4期の放送再開が決まった『ゴールデンカムイ』は、明治末期の北海道を舞台にした金塊を巡るサバイバルもので、原作漫画は累計発行部数2300万部超の大ヒットを記録した。
「週刊ヤングジャンプ」誌上で2022年4月に約8年の連載に幕を下ろしたが、作者の野田サトル氏は早くも次回作の準備をしているという。それは、“10年前に打ち切られた”連載デビュー作『スピナマラダ!』の完全版だ。
同作は2011年〜2012年に連載していたアイスホッケーに挑む高校生たちの物語。野田氏は過去インタビューにおいて「絶対にうまくいくと信じていたが、反応が全くなくて落ち込んだ」と述べている(2017年1月8日・朝日新聞デジタル)。
一度完結した作品をイチから描きなおすことは出版業界の中でも珍しい事例だ。一体どのような理由で“再創生”に至ったのか。野田氏へのインタビューと担当編集の大熊八甲氏への取材を通じ、『スピナマラダ!』誕生経緯や『ゴールデンカムイ』を描き切ったことによる変化を探った。
『ゴールデンカムイ』完結の翌ページに掲載された告知。
「週刊ヤングジャンプ2022年22・23合併号」©野田サトル/集英社
「人生でやり残したこと」にケリをつける。
——野田先生にとって一度完結した『スピナマラダ!』はどのような作品なのでしょうか。
野田:『スピナマラダ!』は20代後半の貴重な時間を費やした作品でした。それが中途半端なまま終わりましたので「人生でやり残したこと」という感じです。
『ゴールデンカムイ』を描き終えて、いくらか成長できました。いまならもう少し面白くなるだろうという予感はあります。取材や資料の集め方のコツも掴めました。
設定の作り込みとか、どれくらいの準備をすれば質の高いものになるのかわかってきましたし、読者の方々が欲しいキャラクターの情報とかも理解しました。
それでもまあ、まったく売れない可能性も大いにありますけどね。面白くて質の高いものが必ずしも売れる業界ではないので。
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野田氏と担当の大熊氏は、野田氏の師である国友やすゆき氏の働きかけで出会った。『スピナマラダ!』はもともと他誌に向けて準備していたもので、序盤はすでにできていた。
その頃の作者表記は“野田智”と漢字表記だったが、当時のヤングジャンプ編集長が画数診断をし、「開いた方が売れる」と提案。野田氏がすんなり受け入れて“野田サトル”になったという。
編集長は野田氏の才能を評価し、区切りとなる6巻まで連載が続いた。作家はアスリートであり、1本の線を引くのも体力がいる。連載終了はそれほど成功していない作品を続けるのは「機会損失」という判断によるものだった。
一方で『ゴールデンカムイ』のヒットにより『スピナマラダ!』の電子版売上は伸び、紙でも3回重版がかかった。
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——なぜ次回作を『スピナマラダ!』の再創生に定めたのでしょうか。一度完結した作品を再び描くことについてどう考えていますか。
野田:『ゴールデンカムイ』を描いてる初期から担当編集さんに伝えていました。「『ゴールデンカムイ』が売れたら『スピナマラダ!』の完全版を描かせてください」と。
別に他に描きたいものが無いというわけではないのです。完全版にケリをつけてから本当の新作を描こうと思っています。
『ゴールデンカムイ』は週刊連載で無茶をして全力で走って8年間で31巻。逆算すると、残りの人生でどのくらいの作品が描けるのか見えてきたんです。集中力も体力も落ち続ける。発想力も消え、面白いものは描けなくなっていく。
ひとりの漫画家の人生で良いパフォーマンスで作品を生み出せる時間は短いです。僕は劣化していくだけの漫画家ですが、まだ走れるうちに、打ち切りになったデビュー作を描きなおそうと考えました。
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今回『スピナマラダ!』を描きなおす理由として、担当編集の大熊氏は4つのポイントを挙げた。
1:作者の矜持:不完全なものを世に残したくない。完全なものにしたい。
2:作者の実情:漫画家として旬の時期を逃したくない。
3:編集部の願い:実力派作家に早く戻ってきてほしい。野田さんは取材を重視しており、新しいテーマだと取材の時間がかなりかかる。アイスホッケーは既に一定の蓄積がある
4:編集部の信頼:いまの野田さんなら全く違うものになるだろう。
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——新たな『スピナマラダ!』は完全版とのことですが、旧『スピナマラダ!』は理想から離れていたものだったんでしょうか。完全版では内容や巻数、タイトル等も変わる可能性がありますか。
野田:キャラの描き分けも十分ではなく、アイスホッケーのヘルメットをかぶれば見分けがつきませんでした。
『ゴールデンカムイ』でさえキャラの見分けがつかないという声もあります。設定の作り込みも甘すぎました。
『ゴールデンカムイ』の連載の合間に、ふと思いついたら改善点をメモするようになっていました。もちろんタイトルも憶えやすいものに変えます。
巻数はわかりません。6巻で打ち切りになったので十数巻という感じです。でも全然ウケなくて2巻で終わる可能性もありますね。
『スピナマラダ!』はアイスホッケーの技“スピナラマ”と北海道弁の“なまら”を掛け合わせた造語だ。野田氏の父は何度も「スピナマダラ」と呼んでいたそうだ。
新作はイチから全部作り直し、今の野田氏ができる最大値に作り変えるという。何巻になるかは未定だが“しっかり描き切ること”だけは決めており、「完全なものを世に出すのが野田氏の主義」だと大熊氏は語る。
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「スピナラマ」:高速回転する技。
©野田サトル/集英社
野田サトル氏が『ゴールデンカムイ』で学んだこと。
——旧『スピナマラダ!』の執筆時には持っていなかったが、現在は持っている野田先生の“武器”とはどのようなものでしょうか。
野田:今の強みは気持ち的に楽なことです。旧作のときは「失敗すれば、またアシスタントに逆戻り」というプレッシャーがありました。
でも『ゴールデンカムイ』がある程度売れてくれて評価もされたので、少しの余裕と自信があります。
技術的な点で言いますと、『ゴールデンカムイ』で読者にできるだけ親切に伝える方法を試行錯誤してきました。
漫画が好きで読み込むタイプの読者は多少雑でも理解しようとしてくれるんです。
でもライトな読者はそうではない。一週間前のことでもすぐに忘れられてしまうし、パラパラっと読んでちょっとわかりにくいと感じたら、面白くないという評価を下され、静かに離れられる。
そしてそのライトな層が圧倒的に多いと思うんです。
可能な限り親切な描写にして、ライト層を置いていかない。でもよく読み込んでるファンも楽しめる遊び心も忘れずに描く。
その加減を『ゴールデンカムイ』で学んできた気がしています。
——野田先生が描きたいものを存分に描いて、読者がついてきた『ゴールデンカムイ』と、かたや連載終了となってしまったかつての『スピナマラダ!』。今だからこそわかる「差」はありますか。
野田:序盤のつかみですね。なんでもそうですけど、序盤でその作品が自分の時間を消費するのに見合っているのかシビアに判断される。
「だんだん面白くなってくる予定だから我慢して読んで欲しい」なんて作者の願いはものすごく甘いと思います。どんなヒット作を飛ばした作家でも。
そして『ゴールデンカムイ』は野田サトルという作家にファンがついているのではなく、作品にファンがついていただけというのを僕はよく理解しています。
『スピナマラダ!』が終わったあと、野田氏が真剣に読者のことを考えたからこそ『ゴールデンカムイ』ができた。
杉元とアシ(リ)パのバディは、従来の発想なら「おじさんとおじさん」で描いていたかもしれないという。ただ、読者を第一に考え、寄せられる部分は寄せてバランスをとった。
大熊氏は言う。藤子・F・不二雄氏は「人気まんがというのは、まんが家の表そうとしているものと読者の求めるものとが、幸運にも一致したケース」(1984年第8回藤子不二雄賞コメント)と述べていた。それを人為的に作るのが作家と編集の仕事だ、と。
ちなみに「ヤングジャンプ」では「一作家に一編集」が原則だが、『ゴールデンカムイ』ではレアなチーム制が採用されている。これはマンガ大賞に選ばれた頃、当時の編集長が「今後、大きく飛躍するから」と、制作において編集プロダクション(編プロ)のサポートを求めることを発案したもの。Vジャンプから異動してきた編プロに詳しい副編集長の協力もあり、新メンバーを加えてのチーム制がスタートした。
同じ頃、大熊氏は担当していた『ワンパンマン』『干物妹!うまるちゃん』のヒットで「左手がしびれる」ほどの激務となった。そこで、大熊氏の後輩・増田氏をサブ担当としてメディアミックス業務を一部担当してもらうことに。しばらくして、新人の水越氏もサブ担当に加わった。こうして読者に愛される『ゴールデンカムイ』の協力者の輪が広がっていった。
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旧『スピナマラダ!』2巻後半に二瓶監督が登場すると、ハードな部活指導で物語が加速していく。
©野田サトル/集英社
野田サトル氏の「新たな目標」とは。
——2017年のインタビューで「あの悔しさは、次作が売れなければ癒やせない」「『ゴールデンカムイ』を描いている苦労にまだ全然見合っていない」と語っていました。累計発行部数2300万部超を記録し、アニメ化もされ、大団円で完結を迎えたいま、その「悔しさ」は癒せましたか。
野田:欲深いもので、いまは『スピナマラダ!』の再創生がある程度売れてようやくリベンジできるという目標に変わっています。
それにケリをつけたら、またハードルを自分で作っていかないといけないですね。
——『ゴールデンカムイ』の連載開始前と完結後の変化で印象に残っていることはなんでしょう。
野田:圧倒的に取材がしやすくなったことですね。
昔は、やはり得体の知れない自称漫画家志望の人間だったので冷たくされたことも稀にありましたけど、いまは「ぜひ」という感じでご協力して頂けるので本当にありがたいです。
——『ゴールデンカムイ』を契機にアイヌ文化が注目されています。ラッコ鍋のネタ元である『コタン生物記』(著:更科源蔵、更科光)や、漫画『ハルコロ』(漫画:石坂啓 原作:本多勝一 監修:萱野茂)なども復刊されました。
野田:『ゴールデンカムイ』がその流れの一要素になったといわれるなら、それは嬉しいです。
いろんなことを学んで、『ゴールデンカムイ』の答え合わせをしてくれたらいいです。
ゴールデンカムイに納得がいかなかったとしても、ぜひご自身の名前、ご自身の方法で発信してもらうきっかけにして頂ければいいのではと思います。
——『ゴールデンカムイ』は雑誌掲載時の扉絵や煽り文が注目を集めた作品でもありました。『アイヌ神謡集』(知里幸恵)へのオマージュ「キミのまわりに、金の滴、降る降る。」を評価していましたが(読売新聞2022年5月)、他に印象に残っているものはありますか。
野田:「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」ですかね。ヤクザの中年カップルが死んだときのアオリですけど。
野田氏が挙げた煽り文(『ゴールデンカムイ』7巻収録)は、フジテレビのドラマのタイトルを用いたものだった。同じく7巻収録の「親分と姫」で描かれたハート型の雲にも、大熊氏も衝撃を受けたとふり返る。
第63話(同7巻収録)の冒頭で、「俺はアザラシ、海のパンサー 俺は泣かない 何があっても もしも俺が鳴くならば、それは別れの時だろう」と記したものが野田氏に褒められ、それが“調子乗るきっかけ”だったという。
漫画が面白いから何をいっても面白い。煽りが評価されているのは野田氏の功績だと、大熊氏は語る。
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第63話より。扉絵の一部は公式サイトで公開されている。
©野田サトル/集英社
上記の次ページ(第63話より)。
©野田サトル/集英社
——完全版『スピナマラダ!』でも大熊さんが並走予定とのこと。同じ担当編集と、同じ雑誌で10年以上週刊連載をすることをどう感じていますか。
野田:大熊さんと一緒に失敗した作品に、リベンジの機会を得られたので、僕はやる気に満ちています。またあちこち一緒に取材に行ってますけど、それも嬉しいです。
この10年以上の間に、公私でいろいろありまして僕は自分の妻のつぎに大熊さんと濃密な時間を過ごしているんですよね。
大熊さんも出世されてお忙しくなってしまっているんですけど、できれば僕が、この業界に必要とされなくなるまでは担当でいてほしいですね。
漫画編集者として経験値を積み、あまり慌てなくなった、と大熊氏は語る。協力者が増え、戦い方の選択肢も多くなった。一方で年齢とともに体力が落ち、徹夜はできなくなったそうだ。
成功体験はある種の枷でもあり、「わかった感」には警戒する必要がある、と大熊氏は言う。野球で「(ヒットのために)転がせ」と指導していたらフライボール革命が起きたように、ある物事について定石で一定範囲は理解できても、常にわからない部分がある。
「編集者とは、漫画家にとっての拡声器や靴みたいなもの」。今後も各作家にフィットするよう微調整していくという。
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