声優・藤原啓治がいたから「クレヨンしんちゃん」は国民的アニメになった

藤原啓治さんのプロフィール。

藤原啓治さんのプロフィール。

AIR AGENCY公式サイト

声優の藤原啓治(ふじわら・けいじ)さんが4月12日に死去した。55歳だった。4月16日に藤原さんが所属し、自ら代表取締役を務める「AIR AGENCY」が公式サイトで発表した。

本稿では、アニメ『クレヨンしんちゃん』が広く愛される背景となった藤原さんの功績について、書き残しておきたい。

「野原ひろし」を演じた24年間

藤原啓治さんが演じた野原ひろし。

藤原啓治さんが演じた野原ひろし。

YouTube/tvasahi

藤原さんといえば、真っ先に代表作としてあげられるのが『クレヨンしんちゃん』の野原ひろし役だろう。1992年の放送開始から病気療養に入る2016年8月までの24年間、野原一家の大黒柱を演じた。

原作コミックは全50巻、累計5400万部を超えるベストセラーになった。かくいう私も「クレヨンしんちゃん」が好きだ。その面白さを教えてくれたのは、シングルマザーの母だった。実家には母が買い揃えた原作の単行本が今も残っている。

いまでは国民的な漫画・アニメ作品となったが、もともとは双葉社の青年雑誌「漫画アクション」の連載作品。初期は“大人向け”のネタが多かった。

92年からテレビ朝日系列でテレビアニメ化されたが、主人公の幼稚園児・野原しんのすけが繰り出すギャグは「子どもが真似をする」と批判され、「子どもに見せたくないアニメ」の代表にあげられることが多かった。

一方で、アニメは放送開始から30年目の節目も近い今もなお続く長寿番組となっており、国民的アニメとして認識されるようになった。

賛否両論、毀誉褒貶はあるものの、世代を超えて愛されている作品に育ったことは間違いない。そのきっかけの一つが、2001年公開の劇場作品『嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』だと思う。

『オトナ帝国の逆襲』という名作

嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』は、『クレヨンしんちゃん』にとって9作目、21世紀最初の劇場作品だった。

あらすじはこうだ。舞台は埼玉・春日部に生まれたテーマパーク「20世紀博」。21世紀を迎えるにあたり、20世紀をふり返るもの。高度経済成長期のテレビ番組や流行などが再現され、1970年の大阪万博を彷彿とさせるものだった。

「20世紀博」には昭和のノスタルジーを想起させる「匂い」が満ちていた。藤原さん演じる野原ひろし、妻・みさえをはじめ、大人たちは懐かしい「匂い」に洗脳され、過去の良き思い出にしがみつこうと童心に帰ってしまう。

大人たちは仕事を捨て、家族を捨て、「20世紀博」の中にこもった。すべては秘密結社「イエスタディ・ワンス・モア」による陰謀だった。

事態を受けて、主人公・しんのすけをはじめとする子どもたち「かすかべ防衛隊」は、両親を奪還すべく「20世紀博」に突入。時の流れを巻き戻し、世界を20世紀のまま止めようとする「イエスタディ・ワンス・モア」と対峙する……というドラマだ。

お気づきのように、大人たちは20世紀という「過去」、子どもたちは21世紀という「未来」の象徴だ。そして子どもたちは、大人たちの洗脳を解き、未だ見ぬ「未来」を取り戻す……という構図になっている。

『オトナ帝国』屈指の名シーン「ひろしの回想」の意味

『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』

『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』

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『オトナ帝国の逆襲』の劇中で象徴的なシーンの一つが、ひろしが童心の記憶から我に返り、息子・しんのすけのことを思い出すシーンだ。

ひろしは、1970年の大阪万博を訪れた少年時代の記憶の中に囚われていた。そこでしんのすけは、ひろしの「父」としての記憶を取り戻すために一計を案じる。ひろしの「靴」の匂いを、ひろし自身に嗅がせたのだ。

『クレヨンしんちゃん』において「ひろしの靴」は、ひろしの強烈な「足の匂い」を象徴するギャグの装置としてたびたび登場してきた。だが、この『オトナ帝国の逆襲』において「ひろしの靴」の役割は、単なるギャグ装置にはとどまらなかった。

「父ちゃんは、父ちゃんなんだよ。この匂いわかるでしょ?」

しんのすけにこう言われ、ひろしは自らの靴の匂いを嗅がされる。そこから始まるのは、35年にわたる「野原ひろし」の半生を回想するシーンだ。

父の自転車の後ろに乗り、釣りに出かけた幼少期。高校を卒業して秋田から上京し就職。妻・みさえとの出会い。長男しんのすけ、長女ひまわりの誕生。

スーツに革靴、満員電車に揺られて毎日会社に向かい、外回りに汗を流す。家のローンを抱えながら愛する妻・息子・娘・ペットの犬(シロ)のため懸命に働く。靴には日々の汗と匂いが染み込んでいる。

最後に思い出すのは、家族そろって出かける回想だ。かつて自分が父にしてもらったように、釣り竿を片手に息子・しんのすけを自転車に乗せていた。

親から子へと人生はつながっている。ひろしは靴の匂いからそのことを思い出す。夫として、父として、「現在」の野原ひろしという人間を象徴するものが「ひろしの靴」であり「ひろしの足の匂い」だった。

回想の終わりに、しんのすけは問いかける。

「父ちゃん…オラがわかる?」

「あぁ…あぁ…!」

ひろしは嗚咽しながら、しんのすけを抱きしめた。こうして野原一家は、「現在」を取り戻し、「未来」という可能性を手に入れることができた。

約3分間にわたるひろしの回想は『クレヨンしんちゃん』の30年近い歴史の中でも屈指の名シーンだ。

藤原啓治がいたから『クレしん』国民的アニメになった

藤原さんの死去を受けて、テレビ朝日の公式サイトに掲載された追悼文。

藤原さんの死去を受けて、テレビ朝日の公式サイトに掲載された追悼文。

テレビ朝日「クレヨンしんちゃん」公式サイト

家族愛を描いた『オトナ帝国の逆襲』は、旧来のギャグアニメとしての『クレヨンしんちゃん』とは一線を画した作品だ。制作陣も、受け入れてもらえるか不安が大きかったという。

だが、それは杞憂だった。過去数作で落ち込み気味だった興行収入は14.5億円と健闘。「文化庁メディア芸術祭10周年企画展」(2007年)の「日本のメディア芸術100選」では、アニメ部門で『AKIRA』『機動戦士ガンダム』『新世紀エヴァンゲリオン』『もののけ姫』など名だたる作品とともに選出された。

藤原さんが演じた野原ひろしの回想と嗚咽は、子供たちの心をつかんだばかりか、かつて眉をひそめていた大人たちの心もみごとに射抜いた。

「子どもに見せたくないアニメ」として近年も名前があげられることもあるが、『オトナ帝国の逆襲』は『クレヨンしんちゃん』がより広く愛されるきっかけの一つとなった。

亡くなった藤原さんにとってもまた、『オトナ帝国の逆襲』は思い入れのある作品だった。

「父は無口な人でした。42歳の時にできた子だったこともあり、遊んでもらった記憶もほとんどない」。でも愛されている実感はあった。幼い頃、父が働く建設現場の宿舎に泊まった時、布団の中でしっかりと抱きしめられた記憶は鮮明に残っている。そんな父との記憶が、録音スタジオでオーバーラップしていった。

(朝日新聞・2013年4月20日朝刊)

『オトナ帝国の逆襲』のクライマックスで、藤原さん演じるひろしは秘密結社のリーダーに向かって、こんな啖呵を切る。

「オレの人生はつまらなくなんかない。家族がいる幸せをあんたたちにも分けてあげたいくらいだぜ!」

ひろしは決して英雄ではない。それでも家族を愛する夫として、父として、ひろしなりに懸命に生き、子供たちに未来のバトンをつなぐ道を選んだ。

藤原さんが残した数多の作品たちもまた、後世の子どもたちにアニメーションの素晴らしさを伝えてくれるバトンとなることを願っている。

(文・吉川慧)

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