私の人生、いつも音楽があった
第1回 海軍軍人の娘と生まれて

湯川れい子


湯川れい子(音楽評論家・作詞家)

東京都生まれ、小学生の4年間を山形県米沢で育つ。
昭和35年、ジャズ専門誌 『スウィング・ジャーナル』のジャズ評論家としてデビュー。
早くからエルヴィス・プレスリーやビートルズを日本に広め、作詞家としても活躍。
代表的なヒット曲に 「涙の太陽」、「ランナウェイ」、「センチメンタル・ジャーニー」、「六本木心中」、「恋におちて」など作品多数。
1972年頃より、音楽療法について関心を深め、音楽が人の成長期や命そのものとどう関わってきたか等、広く音楽療法の普及活動にも時間を割いている。
NPO法人日本子守唄協会会長・日本音楽療法学会理事。

聞き手・西舘好子

1940( 昭和15)年・東京生まれ。
劇団「こまつ座」・「みなと座」、株式会社「リブ・フレッシュ」を設立。
現在は、NPO法人「日本子守唄協会」の理事長、遠野市文化顧問などを勤め、講演会等を開催し‘子育て支援’などに資する為に活動中。
NPO法人日本子守唄協会ホームページ
http://www.komoriuta.jp


母と私の愛唱歌となった子守唄

西舘 湯川さんは私ども日本子守唄協会の会長であり、日本作詞家協会の会長をおやりになった方でもいらっしゃる。何より音楽評論家として著名ですけれど、音楽というものを意識されたのはおいくつの頃なのでしょうか。

湯川 やっぱり戦後ですね。私は小学校二年生から五年生いっぱいまで山形の米沢に疎開していたんですけど、戦争中ですから音楽なんてまったくない時代でした。運動会もなかったような時代です。そういう時にたった一つ、学校で習った子守唄があります。それだけは歌えたというか、私が三年生ぐらいの学芸会の時に、その子守唄の中の一番を独唱することになって、母が見にきてくれました。「げんげ草」という歌です。「お背戸のお背戸の げんげ草、ぽちぽち仔牛も 遊んでる」という、それが私と母にとって共通の好きな歌になりました。小学校時代の音楽の思い出というと、それくらいしかないんですね。 それで小学校六年生の時に東京に戻ってきますが、それから十四、五歳の思春期ころはしょっちゅう扁桃腺を腫らして、よく高熱を出して寝ていました。私は本が大好き、本の虫だったんですが、本を読んだりするとまた熱をぶり返すから駄目といわれて、全部本を取り上げられまして、枕元にラジオを置かれて、これで音楽でも探して聴きなさいと言う。でも、その頃音楽って、本当に無かったんです。浪曲の広沢虎造さんが大人気でしたが、あと歌謡曲がすごく暗かった。「ガード下の靴みがき」とか「星の流れに身を占って」とかいった暗い歌、それを聴いても子供ですから面白くないんですよ。
 それで一生懸命探してチューナーを動かしていたら、あふれるようないい匂いの音楽が突然わっと流れてきて、それが進駐軍放送だったんです。長兄は戦死しているし、二番目の兄は特攻隊で出撃したまま帰ってこないし、父は海軍の軍人で終戦の前の年に激務で死んでいますし、母にはとてもとても米軍放送を聴いているなんていうのは申し訳なくて。でも布団をかぶりながら聴いていると、本当に甘い匂いのいい音楽で、揺れながら聴いていると、どんどん気分が良くなっていくんです。多分それが、やがて音楽療法に目を向けるきっかけにもなったと思います。

西舘 お母さんはやはり明治のお生まれで。

湯川 明治二十七年です。

西舘 明治の女性は強いでしょうね。

湯川 はい。体は弱かったけれど、芯の強い人、それは美徳だったと思うんですね。仙台の高等裁判所の裁判官の娘で、仙台でちゃんと教育を受けたからだと思いますけれど、英語が話せましたよ。

西舘 軍人のご一家で、山本五十六元帥が親戚でいらっしゃるとか。

湯川 はい。父の従妹が山本夫人という関係でした。



戦死した兄が口笛を吹いていた曲

湯川 時代はちょっと前になりますが、十八歳上の長兄にいよいよ赤紙が来て、陸軍に取られて戦地に出ていくという前のこと、三日間かけて目黒の私どもの屋敷の庭に防空壕を掘っていってくれたんですね。その防空壕を掘っている間、母はすごく病弱な人でしたから、私はまだ六歳ぐらいだったのかな、母と一緒に梅の木の下にござを敷いて、おままごとをしながら、汗びっしょりになって上がってくる兄に、たらいで手拭いを絞ったり、梅干しとお茶を出したりしていました。その兄が、防空壕を掘っている間中ずっと口笛を吹いていたんです。
 「めえめえ 森のこやぎ」とか、それとは別のすごくきれいなメロディーの口笛を吹いていました。ですから兄に、その歌は何ですか? と聞いたら、僕が作った曲だよ、と。ああ、そうなのかと思って、でも三日間聴いていたのですっかり覚えてしまった。そして、あれは兄が最後に家を出ていった時だと思いますが、もう軍服を着てお風呂上がりのいい匂いがしていた、その兄の腰のサーベルに私の足がぶつかって、がちゃがちゃしたのを記憶しています。兄は私を抱いて宵の明星を指さして、「覚えていてね、あれが兄ちゃまだからね」と言って、それが最後でした。

西舘 十八歳というと、湯川さんとは年齢に相当開きがありますね。

湯川 はい。大学を卒業してすぐ召集令状がきて、そのまま戦死です。私にとっては本当に父親代わりの、とても優しい兄でした。その兄が残していった口笛の曲ですが、やがて中学一年ぐらいで進駐軍放送を聞くようになって、やっぱり熱を出して寝ていた時に放送を聞いていたら、突然その兄の口笛のメロディーが出てきたんです。初めて聞いたのに、私は歌えるんですよ、一緒に。覚えているんです。これは兄が、僕の曲だよと言ったのに、どうして? と思って。
 それから毎日、学校から飛んで帰ってくると、すぐに進駐軍放送をつけるようになった。またその曲が出てくるのを待って、結構放送されたんです、何回も何回も。それでだんだん聞き取れるようになって、ハリー・ジェームス・オーケストラの「スリーピー・ラグーン」だということが分かりました。辞書を引いて、スリーピー・ラグーン、眠たげな入り江。へえ、なんて思って。それが自分で調べられるようになったのは高校三年ぐらいだったでしょうか、調べたら、ハリー・ジェームス・オーケストラの一九四二年の曲で、日本のタイトルは「午後の入り江」。ちょうど真珠湾攻撃のあと、一九四二年ころにアメリカで大ヒットしていたんですね。

西舘 昭和十七年ぐらい。

湯川 そうですね。兄が戦地に行った年ぐらいにアメリカで大ヒットしていたんです。

西舘 それを、お兄さんはご存知だったんですね。

湯川 そうです、口笛で吹けるほど。

 家族と共に。中央が湯川

映画好きの長兄と軍国少年の次兄と

湯川 四年ぐらい前に国立の私の実家を壊した時、古い古い母の荷物の中から兄のその当時の日記が出てきました。大学最後の年の兄の日記で、それを読むと、毎週のように映画を見に行っています。それがアメリカ映画だったり、フランス映画だったり。戦争というのは本当に急激に状況が変るのだと、私は兄の動向から何となく察してはいたんですけど、その日記を読んであらためて思いました。
 だから、そのころどんな音楽を聴いていたか、その記述が出てこないかと探したんですが、それは書いてないんですね。ただ、兄が戦死した後、兄の遺品の中から絵が見つかって、私は今でも大事にしています。

西舘 どんな絵ですか。

湯川 A4ぐらいの大きさの絵で、水彩ですが、それが全部レコードのジャケット・デザインだったの。コロムビア・レコードとかビクター・レコードとか、ナンバーが書いてあって、そこに金髪のきれいな女の人が真っ赤なストローハットをかぶって、マイクロホンの前で歌っている姿だったり。
 それから一番衝撃的だったのは、アメリカの海兵隊の白い水兵服を着た金髪の兵隊さんが三人、バンジョーを持ってラインダンスをしていて、その後ろに大きく星条旗がたなびいている。そこに「スターズ・アンド・ストライプス・フォーエバー・マーチ」と書いてあるんです。「星条旗よ、永遠なれ」のマーチですよね。ビクター・レコードと書いてあって、明らかに兄のデザインなんです。かわいらしい絵、星条旗と兵隊さんのラインダンスと、その上でスズメが踊っているとか。絵の好きな兄が、わざわざレコードのジャケット・デザインをしていたんですね。そういう絵が十二枚ぐらいあるんです。
 その見つかった日記帳の中には三歳違いの次兄のことも書かれていて、こちらはやがて海軍兵学校を受け、特攻隊のパイロットになって、というバリバリの軍人を目指すんですが、その弟が、兄が金髪の女の人の絵を描いているのを見て、なんだ、これでも人間かと言ったという。

西舘 そんな極端に見方が違うものですか。

湯川 もう急激にそういう時代になっていたんですね。それでその日記には、モリ(というのは弟のことですが)が、僕が描いている絵を見て、なんだ、これは。これでも人間かと言いやがった(笑)、と書いてあるの。

西舘 異国文化の中に身を置くお兄さんと、軍国少年と。

湯川 そうなんです、愛国少年なんです。それがその当時は正しいと思っていたんでしょうね。

西舘 そうですか。じゃ三人きょうだいですか。

湯川 いえ。一回り上の姉がいます。

西舘 また年齢が随分離れている。

湯川 それは父がずっと駐在武官で、日本にいなかったんです。だから十三年ぶりに帰ってきて、なぜか私が生まれたの(笑)。

西舘 じゃあ、本当に末っ子。

湯川 はい。もう末っ子の末っ子です。

戦後の時代と明治生まれの母の願い

西舘 そうすると、上のお兄さんの影響が大きいですね、音楽というつながりは。

湯川 影響というか、それで強烈な遺言を残されたようなものです。それから私の母が、そうやって長男を亡くし、次男も特攻隊で行方不明になって、先ほど言ったように夫も亡くして、自分で働いたこともない人が、一生懸命焼け残った屋敷に下宿の学生さんを置いて、父が好きで集めた骨董品を売って私を育ててくれたんですね。それで口癖のように、私に白無垢の花嫁衣装を着せてちゃんとお嫁に送り出したら、自分はお父さまのところに行く約束をしたと言うんです。だから門限が、何が何でも九時なんです。しかも環七の上馬のあたり、三軒茶屋の先の上馬に住んでいまして、まだ玉電の時代です。

西舘 そのころは湯川さんはもう女優さんでしたでしょう。

湯川 そうですね、高校二年で、今井正先生とか山田五十鈴先生の独立プロの現代俳優協会の研究生になりました。そうすると、夜九時になると母がちゃんと玉電の駅まで迎えに来ているんですよ。寒かろうが、風が吹こうが、嵐だろうが。その母を待たせるのが本当につらかった。私は遊びたい盛りだし、誘惑はいっぱいある、でも母がそこでぽつんと待っていますからね、体の弱い人が。私はもう、何が何でも帰らなくちゃいけないと。
 とにかく高校を卒業したらお嫁に行ってほしいと、それはもう重圧でしたね。母は母で、戦後という本当に訳の分からない時代を迎えて、すごく苦しんだと思います。でもその母と、お風呂に入っている時だったかしら、二回ぐらい大議論をしたことがあるんです。母の時代というのは、恋愛なんて野合だといわれて、犬や猫のするようなものだという。結婚式で父と初めて会って、綿帽子の下から父の顔をそっと見て、こんな怖そうな人のところにお嫁に行くのかと思ったら、涙がこぼれたというんですね。
 その母にとって父は最愛の人で、父の思い出を話しては毎日のろけるんですよ。本当に父を愛して、父は全世界の正義なの。私がその時に、でも好きでもないのに親に決められて結婚するなんて、体のいい永久売春じゃない、と言ったら、母にいきなりほっぺたをひっぱたかれました。なんていうことを言うのって。それで、ごめんなさい、でも私は、そういう結婚は嫌よ、と。
 それから何年かたって、また母と話をした時に、何で夫を亡くして、そのあと自分の大事な長男が殺されて、次男まで行ってしまって、という時に涙ひとつこぼさないで、よく頭もおかしくならないで生きられましたね。といったら母は、だって周り中がそうなのよ、私一人が泣くわけにいかないじゃない、まして軍人の妻なんだし、と言うので、ああ、でも私は泣きわめく女になりますからね、私は絶対に泣きわめく女になりますと言ったら、そうよね、と、初めて母が泣きました。そうよね、それはそうよね、と。それが時代とか教育というものだったんでしょうね。

 湯川れい子18歳の頃