1943年、槍田は東京都に生まれる。父は生命保険会社に勤めるサラリーマン、幼い頃から父の転勤について日本中を転々とした。短いときには1年足らずで転校ということもあったが、1カ所に2年もいると「そろそろ転校にならないかなぁ」と考えるような、「何でも見てやろう」という思いの強い少年だった。
1963年、東大工学部に進学。アジアの留学生と交流する同好会に入るなど、「何でも見てやろう」という思いはますます加速していく。それが高じて「世界中に行きたい」という動機から1967年、三井物産に入社。電力機械部に配属され発電機などを扱うようになる。1977年ロンドン支店に転勤になり、アフリカ、中東地域に度々出張し、各地を飛び回る日々が続いた。
内戦中のアフリカのアンゴラや、バーレーン、ザンビアなど、多くの途上国へも出張し、銃弾が飛び交う中を駆け抜けるなど危険な目にも遭った。帰国後、しばらくして当時の相談役、水上達三氏の秘書を命ぜられる。水上氏は経済同友会代表幹事なども務めた財界の大人物。この時の出会いが後の槍田の経営哲学に大きな影響を与えることとなった。
1989年、電気機械部長室長だった槍田は大きな決断をする。カナダの石炭火力発電所の建設に関わる全てを三井物産で請け負おうとしたのだ。通常、こういったプラントの受注は発電機だけを納めて、発電所自体の建設は建設会社が担当するといった部分請負が普通だった。「大きな仕事がしたい」常にこういう想いを胸にしていた槍田は「この仕事の全てをうちで仕切りたい」と思った。
並み居る競合を退けて入札を勝ち取った槍田は意気揚々と仕事を進めていった。発電機の発注、燃料となる石炭の発注、発電所建設の為の資材の買い付け、それらを運ぶための運送業者への発注、山積する仕事を全てコーディネートしながら着々と完成へ向けて進んでいった。ところが、思わぬ所から次々にトラブルが発生した。鉄骨やコンクリートの必要量の見込み違い、使用する石炭の質が発電機と合わない。出来上がった発電所は約束の発電量を下回る能力しか発揮できなかった。
予定よりコストが嵩み下請け先との訴訟沙汰にまで発展してしまった。槍田は窮地に追い込まれた。一体どうすれば良いんだ。俺の決断は間違っていたのか!? トップの下した決断とは?! |