快晴の朝がたちまち地獄に……リトルボーイとファットマンの投下から75年

カルロス・セラーノ、BBCニュース・ムンド

Hiroshima Nagasaki

1945年夏。第2次世界大戦の主要戦場のひとつ、太平洋でのアメリカと日本の戦いは、もう4年も続いていた。

7月26日にはハリー・トルーマン米大統領が、日本に最後通告を出した。

「無条件降伏」をしなければ、「迅速かつ完全なる壊滅」が日本を待ち受けているという、「日本への降伏要求の最終宣言」。いわゆる「ポツダム宣言」だ。

最後通告は、核兵器の使用については言及していない。

しかし、アメリカはすでに戦争を終わらせる戦略を練り上げ、そのために必要な兵器を揃えていた。原子力爆弾も、その一部だった。

アメリカ政府は1945年7月16日、世界で初めて核兵器の爆発を成功させた。トリニティ実験だ。

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「核爆弾が使えると分かった途端、核爆弾はいつか使うものだという共通認識が生まれた」。米プリンストン大学のマイケル・ゴーディン教授(現代物理学史)はこう言う。

「広島の時代」という著作の共同編集者でもあるゴーディン教授は、「核兵器を使うかどうかではなく、どうやって使うかを、軍は議論していた」と話す。「最も効果的な使い方は、日本降伏を実現するものだった」。

ではなぜアメリカは、日本の中でも広島と長崎に原爆を投下することにしたのか。この理由については議論が続く。しかし、原爆投下の影響は、現在に至るまで続いている。

人類史上最初の、そして今のところ最後の、2つの核攻撃を振り返る。

広島:1945年8月6日午前8時15分

広島

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最初に選ばれた標的は広島市だった。それまで空襲を受けていなかった広島は、原爆の影響を観察するのに適していた。加えて、広島は軍都でもあった。

機長のポール・ティベッツ大佐が操縦するB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」は、広島の上空9500メートルを飛行中に、原爆「リトルボーイ」を投下した。原爆は地上約600メートルの空中で爆発した。

「8時14分には快晴の日。8時15分には地獄だった」。生存者の証言を収集する団体、「ヒバクシャ・ストーリーズ」のキャスリーン・サリヴァン代表は、米ディスカバリー・チャンネルのドキュメンタリーでこう話した。

Hiroshima

「リトルボーイ」は「ガンバレル(銃身)」式、つまりピストルのような仕組みの爆弾だった。臨界量以上のウラン235を2つに分け、片方を砲弾状にして火薬で発射し、同じウラン235の塊に撃ちこんだ。

ウラン235の砲弾とウラン235の塊が衝突すると、それぞれの原子核が破壊され、核分裂が起きた。

Little Boy

核分裂は連鎖する。連鎖反応によってエネルギーが放出され、「臨界」に達し、ついには爆発に至った。

リトルボーイは、ウラン235を64キロ積んでいた。核分裂反応を起こしたのは、そのうち約1.4%のみだろうと計算されている。

動画説明, 広島原爆投下の映像

それでも、爆発の威力はTNT火薬1万5000トンに相当した。ちなみに、TNT火薬が1キロあれば乗用車は大破する。

リトルボーイの爆発によって、4.5平方キロ圏内の温度は摂氏4000度を超えた。

Hiroshima impact area

「目の前にいきなり、巨大な火の玉が現れた(中略)続いて、とてつもない轟音(ごうおん)がした。宇宙が爆発する音だった」。生存者の美甘進示(みかも・しんじ)さんは、BBCにこう話した。

原爆投下のその日の内に、5万人から10万人が亡くなったと考えられている。

爆心地から10平方キロの圏内は壊滅した。爆発は60キロ以上離れた場所でも、体感された。

市内の建物の3分の2に当たる、約6万棟が瓦礫(がれき)と化した。

猛烈な熱線のためあちこちで火災が発生し、爆心地から7キロの距離の場所が3日にわたり燃え続けた。

Hiroshima

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Hiroshima

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Hiroshima

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しかし、日本政府はまだ降伏しなかった。

そして3日後、米軍は2つ目の原爆を投下した。

長崎:1945年8月9日午前11時2分

Nagasaki

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長崎は、原爆投下の有力候補地ではなかった。

坂の多い険しい地形に加え、近くには連合軍捕虜収容所があったため、候補地リストの上位にその名前はなかった。

米軍が主に検討していたのは、福岡県の小倉市だった。工業地帯と市街地が比較的なだらかな平地にあった。

Nagasaki

しかし、操縦士の報告によると、攻撃当日の小倉は「煙霧に覆われ」ていた。

乗務員は爆弾の爆発範囲を最大化できるターゲットを、目視で選ぶよう命令を受けていた。

そのため、予定航路を外れて長崎に向かったのだ。

チャールズ・スウィーニー少佐が操縦するB-29「ボックスカー」爆撃機は、「ファットマン爆弾」を投下。爆弾は、地上500メートルで爆発した。

Fatman

「ファットマン」は核物質にプルトニウム239を使っていた。

比較的入手しやすく、核分裂の効率が良いが、爆弾として使うには複雑な仕組みが必要だった。

プルトニウム239は同位体だ。

核分裂反応を起こしやすく、タイミングが早すぎると爆発力が失われてしまう。

そのため、核分裂反応が自発的に起きる前、最初の中性子線を出して核分裂を引き起こすため、「インプロージョン(爆縮)」装置を使った。

動画説明, 長崎原爆投下の映像

ファットマンは6キロのプルトニウムを積んでいたが、核分裂が起きたのはそのうちの1キロだけだったと計算されている。

それでも、TNT火薬2万1000トンに相当する威力だった。

爆発の規模は広島よりも大きかったが、平地の少ない山がちな長崎の地形が、破壊の範囲を限定した。

それでも、原爆投下当日には、2万8000人から4万9000人が亡くなったと推計されている。

Nagasaki impact

長崎では、7.7平方キロの面積が破壊された。市街地の約40%が廃墟となった。

学校、教会、家、病院が倒壊した。

「あたり一面、火の海になった。地獄です。焼けた遺体、倒れた建物から助けを求める声、内臓が体の外にはみ出てしまった人たち……」。長崎で被爆した谷口稜曄(たにぐち・すみてる)さんは、BBCにこう話した。

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広島と長崎で、原爆爆発そのものや、それから数カ月の内に負傷や放射線で亡くなった人数について、決定的な数字は得られていない。

最も慎重に少なめに計算した推定でも、1945年12月までに両方の都市で約11万人が死亡したとされる。

複数の研究によると、同年末までに犠牲者の総数は21万人を超えていたかもしれないという。

東京:1945年9月2日

USS Missouri

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広島と長崎の両方に原爆を落とされ、日本はついに降伏した。

天皇はいわゆる「玉音放送」で、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」と国民に語った。

正式な降伏調印式は1945年9月2日、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われた。

こうして、第2次世界大戦は終わった。

むごたらしい爆弾

survivor

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原爆が爆発すると、瞬時にガンマ線、中性子、X線が3キロ先まで放出される。

目に見えない粒子は人体を含め、あらゆるものに降りかかり、細胞を破壊する。

たとえば広島でリトルボーイが爆発した際には、爆心地から600メートル以内にいた人の92%が死亡した。

命を取り留めた被爆者も、強烈な熱線と放射線による深刻な被害を受けた。

爆発直後には、激しい火傷が被爆者の皮膚や皮下組織を引き裂いた。

広島で被爆した美甘さんは、「うずく激痛が全身に広がった。まるで熱湯の入ったバケツが落ちてきて、肌をこすっていったみたいだった」とBBCに話した。

放射性物質を浴びたことで、吐き気や嘔吐(おうと)、出血、脱毛などの症状が出た。

radiation effects

長崎で被爆した 山口仙二さんは、「治療を受けた後、ガーゼを1枚ずつはがされるのがあまりに痛くて、失神しかけた」と話す。

時間がたつと共に、白内障や悪性腫瘍を発症する人もいた。

攻撃からの5年間で、広島と長崎の住民の間で白血病の患者数は劇的に増えた。

原爆投下からの10年間では、被爆者の間の甲状腺がんや乳がん、肺がんの発症率も、通常を上回った。

さらに、あまりに恐ろしい経験をして、大切な人を失い、自分も放射線による病気になるのではと恐れる被爆者の多くは、心にも大きな傷を受けた。

一生を病院で過ごした人もいれば、大切な人を守れずに自分だけが生き延びたという罪悪感を抱え続ける人もいた。

多くの人は傷やケロイドのあとが残る外見や、健康への懸念や偏見から、差別を受けた。

現在の広島市と長崎市は、産業や商業の都市として復活している。

そのどちらにも、犠牲者を慰霊し記録する広場や資料館がある。

存命の被爆者の多くは、80歳を超えた。

核兵器の拡散に反対し、戦争の恐ろしさを語り継ぐ活動を続けてきた人も大勢いる。

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Shuntaro Hida

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肥田舜太郎さん(広島で被爆):約6000人の患者を診た。1万人かもしれない。それからは、もう医者を続けたくなかった。診察した人は全員、次々と死んでいった。誰も救えなかった。

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Yasuaki Yamashita

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山下泰昭さん(長崎で被爆): 自分が放射能の影響でいつ死ぬか分からないと、ずっと恐れている。

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Keiko Ogura

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小倉桂子さん(広島で被爆):大けがをした2人が近づいてきて「水、水」とだけ言った。飲ませてあげると、目の前で息を引き取った。自分が殺したような気になって、自分を責めるようになった。何十年も罪悪感を抱え続けた。

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Yoshiro Yamawaki

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山脇佳朗さん(長崎で被爆):自分を守ることができない罪のない一般市民に、アメリカが原爆を落としたことについて、まだ怒っている。

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広島と長崎に対する原爆投下は、一般市民に凄まじい犠牲をもたらした。これほどの犠牲が果たして必要だったのか、今に至るまで厳しい議論が続いている。

そしてあれから75年。その後、実戦であえて核兵器を使った国は、今のところない。

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出典:BBCニュース、アトミック・ヘリテッジ財団、Atomic Archive、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)、Nuke Map(アレックス・ウェラースタイン・スティーヴンズ工科大学准教授作成)、ルリ・ファンデルドース広島大学教授、山口響・長崎大学核兵器廃絶研究センター研究員、上手由香・広島大学准教授(教育心理学)、マイケル・ゴーディン・プリンストン大学教授(現代科学史)

広島と長崎の原爆爆発動画、米ロスアラモス国立研究所提供