中国の江沢民元主席が死去、96歳 高度経済成長をけん引
1989年の中国・天安門事件後に共産党総書記に就き、高度経済成長をけん引した江沢民元国家主席が11月30日正午すぎ、上海市内の病院で死去した。96歳だった。中国国営メディアが伝えた。
共産党は声明で、死因は白血病と多臓器不全だったと説明。江氏は「崇高な威信を持つ卓越した指導者」であり、「長い試練を経た共産主義戦士」として認められた存在だったと付け加えた。
環球時報や新華社通信などの国営メディアは、ウェブサイトを白色と黒色に設定し、追悼の意を表した。
国営放送局CCTVは1989年に北京の天安門広場とその周辺で起きた、抗議者に対する流血の取り締まり後に共産党トップに就いた江氏の役割を称賛した。
「1989年の春から夏にかけて中国で起きていた深刻な政治的混乱の中で、江沢民同志は騒乱に反対し、社会主義国家権力を守り、人民の基本的利益を保護するという党中央委員会の正しい決定を支持し実行した」
天安門事件は、中国を国際的に孤立させ、共産党内部の保守強硬派と改革派による激しい権力闘争を引き起こした。
この事件を経て、江氏は強硬派とリベラル派をまとめるリーダーに登用された。派閥争いの中での折衷案だった。
江氏の指揮のもと、圧倒的な市場経済が築かれ、共産党の支配力が強まった。そして中国は世界の大国になった。
1997年のイギリスからの平和的な香港返還や、中国を世界経済と結び付けることとなった2001年の世界貿易機関(WTO)加盟を実現したのも江氏だった。
一方で内部の異論を封じ込め、台湾に対して強硬姿勢を貫いた。1999年には共産党にとって脅威とされた気功集団「法輪功」を厳格に取り締まった。
また、党内での自身の立場を確保することに熱心で、独自の政治思想「三つの代表」を打ち出し、党の近代化を図った。
米中関係強化に尽力
江氏はアメリカとの関係強化に努め、アメリカを複数回訪問した。2001年9月11日の同時多発攻撃事件後には、当時のジョージ・W・ブッシュ米大統領に「テロとの戦い」への協力を申し出るなどした。
華々しい指導者がいないとされるこの国で、江氏は後継者たちよりも多彩な性格の持ち主だとみられていた。国際サミットの場でエルヴィス・プレスリーの曲を口ずさんだり、ハワイの海で泳ぐ姿は記憶に新しい。
晩年は政界から身を引き、公の場にほとんど姿を現さなかった。
しかし、インターネット上では写真や動画を面白おかしく加工した「ミーム」の対象となった。多くの中国人は江氏の象徴的な大きなメガネを風刺し、ヒキガエルになぞらえた。若いファンは自らを「ヒキガエル崇拝者」と呼んだ。
「政治的日和見主義者」との声も
しかし、江沢民時代を懐かしまないよう警告する人もいる。
1989年の学生運動のリーダーの1人で、現在は中国国外で暮らす男性は、江氏は「典型的な政治的日和見主義者」だと述べた。
「江沢民氏は心が広いように見えるが、実際は計画経済に戻そうとしていた。(中略)それを鄧小平氏に止められた。政治的には、常に保守的な人物だった」と、男性はツイート(中国語)した。
中国では現在、厳しい新型コロナウイルス対策をめぐり、天安門事件以来最も深刻な抗議行動が広がっている。
33年前に共産党元主席の胡耀邦氏の死が天安門事件を引き起こしたように、江氏の死が、さらなる抗議行動を引き起こすのではないかと考える人もいる。
しかし、香港浸会大学の閭丘露薇准教授は、その可能性は低いと考えている。
「彼は長い間、世間の目に触れずにいた」と、閭丘氏はBBCに語った。
環球時報が公開した書簡によると、江氏の後継者の胡錦濤氏と、習近平国家主席が江氏の葬儀に出席する予定という。
この書簡には外国の指導者や政府関係者は招待されないとある。葬儀委員会はこの決定は「中国の慣例」に沿ったものだとしている。