アントニオ猪木さん一周忌 直木賞作家の村松友視さん、40年の交友振り返る「『面白い』ことを探し続けた男」

 プロレスラーのアントニオ猪木さんが亡くなってから、10月1日で1年。直木賞作家の村松友視さん(83)=旧清水市出身=が、1980年のベストセラー「私、プロレスの味方です」を契機とした約40年の交友を振り返り、空前絶後の人物像に改めて思いをはせた。
直木賞作家の村松友視さん(写真部・坂本豊)
 ―「私、プロレスの味方です」をお書きになったのは、中央公論社の編集者だったころでした。猪木さんとの接点はどのように生まれたのでしょうか。
 「当時は、(プロレス評論家の)田鶴浜弘さんみたいな関係者以外で、プロレスについて書く人は皆無だったんです。『私、プロレスの味方です』はプロレスについて考えようという本なわけで、売れるわけがないと思ったので、無名の著者として書きたいように書きました。まだ(ジャイアント)馬場、(アントニオ)猪木の対立概念さえなく、漠然とプロレスを見ていたファン、プロレスラーには全く通じない文章だったと思います。そんな中、たった一人、アントニオ猪木だけが反応してくれた。巡業中に読んで、自分をこんなに理解している著者に会いたいと言ったと伝えられました」
 ―初対面はどこでしたか。
 「後楽園ホールだったと思うけれど、試合会場の控室でした。僕がぼんやり待っていると、猪木さんが『あ、どうも』と入ってきた。猪木さんは話をしながら『立った同士では見下ろしちゃってるなあ』と感じたんでしょうね。自分が丸椅子を引き寄せて座るんですよ。でも僕が立ったままでいるもんだから、『相手を立たせちゃっている』と思ったのか、また立ち上がった。お互いの目の高さがそこで元に戻ったり。そういう腰の浮き沈みにショックを感じましたね。『どうぞお座りください』といった礼儀のレベルじゃない。興味のある話を途切れさせないように、という猪木さんなりの心遣いだったんでしょう。相手が無名だろうが何だろうが待遇しようという構えを感じましたね」
 ―試合の印象とは違いましたか。
 「後で考えると、猪木さんの相手をしたレスラーは、常にこういう感触を受けたんじゃないかと。初めて日本に来て、初めて技を仕掛ける時って、こんな感じだったんじゃないかって。これが猪木さんだ、と思いましたね」
ポーズをとるアントニオ猪木さん=2016年5月、参院議員会館(共同)
 ―日本プロレスの時代からプロレスをご覧になっていますが、猪木さんのデビュー当時の印象は。
 「リングに上がる時に目にした、肉体の質感からして別物と思いました。力道山とは試合のスタイルが全く違うんですね。力道山は大ざっぱに言うと、外国人を退治する日本人、という戦い方。猪木さんは(実力が)6の相手を9に見せるようにして、自分が10で仕留めるという勧善懲悪型だった。相手レスラーの良さも引き出すわけです。敵討ちや血みどろのプロレスとは全く別のものを提出できるレスラーという印象でしたね」
 ―村松さんが猪木さんの試合スタイルを「過激なプロレス」と命名しました。この言葉は以後、猪木さんの代名詞として世間に浸透しました。言葉の発端は何だったんですか。
 「ルーツはどこかというと、過激派の学生なんです。ルールをはみ出した学生たちの蛮行に対する、世間からの悪口なんですよね。で、僕はどこか彼らに共感していた」

 ―猪木さんのプロレスラー像を表現する上で、きわめて的確な言葉でした。
 「僕は『過激』っていうものを別のアングルで捉えてもいました。例えば猪木さんのやっていたことと、当時の(唐十郎らの)テント芝居には、共通するものがあった。芝居は劇場でやるものと信じ込まれていた時代に、テントで芝居をやって翌日にはなくなるという幻想的ロマン。理屈を超えた、そこから先に行っちゃったものを応援する感覚ですね。イレギュラーで反王道的なもの。猪木さんのプロレスはまさにそれだったんです」
 ―「過激」という言葉は猪木さん自身のプロレス観にも影響を与えたのではないでしょうか。
 「力道山のもとで学んで体感したプロレス、修業で巡ったアメリカのプロレス。猪木さんはその両方を踏まえて『このジャンルはものを表現する上で、縦横無尽に使える方法論を内包している』と、本能的につかんでいたのでしょう。後に国会議員になったことも、個人的な事業も、そこに通じる素人的なロマンチシズムにあふれていました」
​​直木賞作家の村松友視さん(写真部・坂本豊)
 ―村松さんは著書「当然、プロレスの味方です」(80年)で、猪木さんにかなり長いインタビューを行っていらっしゃいます。どんな雰囲気だったのですか。
 「後にも先にもない取材でしたね。それ以降は、一緒に飲んだりバカ言ったりしていることが多かったですからね。場所は(富山県)高岡市の旅館でしたが、出版社の担当者は帰っちゃった。猪木さんの部屋で、ビールをチビリチビリ飲みながら机を挟んで二人でずっと話しました。トイレにもほとんど行かず、いつの間にか夜が明けていました。猪木さんは、僕を反響板みたいにして自分のプロレスを捉えなおしてみたら、どういう色が出てくるかに興味があったんじゃないでしょうか。なんでも答えてくれました」
 ―どんなことを話したのでしょうか。
 「例えば、ムハマド・アリ戦(76年)。僕が『反則負けでもファンは喜んだはず』と言ったら、『まあ、リングで戦った者同士しか分からないものがありましてね』って。これがね、40年以上たった今、ものすごい説得力を放つわけですよ」
 ―その後はどんなお付き合いだったんですか?
 「週刊プロレスの対談を口実に、(編集部の)ターザン山本さんと連れ立って、新日本プロレスの巡業先で猪木さんと飯を食って話をする。これを延々と続けていましたね。そのうち山本さんは姿を消して、(ヨシケイ横浜の)武元(誠)さんと3人でフグを食べに行ったり温泉に行ったり。80年代後半だったから、猪木さんが(新日本プロレス内で)浮いている時期なんですよ。永久電池を提唱していた頃ですね。そんな話を聞かせる相手がいなかった、とも言えるでしょう」
 ―村松さんは、そうした話をどう受け止めていたんですか?
 「額を突き合わせて真剣な聞き手になっていました。猪木さんの空想、夢想、幻想の面白さに引き付けられていました。当時、誰も耳を貸さなかった空理空論。でも、今になってみるとそれは豊かでぜいたくでうれしい体験でしたね」
 ―89年、猪木さんは参院選に出馬し当選を果たします。どのようにご覧になっていましたか?
 「ずっと『国会議員にだけはならないで』と言っていたんですが、気が付いたらそっと出馬していた(笑)。公示の時に(新日本プロレスの)坂口(征二)さんから電話をもらって『政見放送に出てくれませんか』って。どうせ大した役には立たないだろうと思って、居直り気分で引き受けました。政見放送を対談形式で行った最初の例じゃないかな」
 ―政治家としての功績で印象に残ることは。
 「やはり(90年のフセイン政権下のイラクでの)邦人人質解放でしょう。ものすごいことですよね。そのやり方がプロレス的、アリと戦う筋道をつくった方法論なんだから。人質の家族を連れていくっていう発想、連れて行って会わせるという第二段階。家族と会わせたら(人質を)帰さざるを得ないだろうという予感の的確さ、ダイナミズム。猪木さんらしい大胆さだとは思っていたが、まさかあんなに緻密に根回しして手を打っているとは思わなかった。うれしくなりました」
直木賞作家の村松友視さん(写真部・坂本豊)
 ―改めて、猪木さんはどんな人物だったと思いますか。
 「プロレスラーから国会議員になった上で、そのネームバリューでどんな面白いことができるかを探し続けた人でしたね。貪欲さをずっと失わなかった。『面白い』という言葉の『面』っていうのは顔ですよね。『白い』は目の前が真っ白になるショックらしいんですよ。そうした意味での『面白い』ことを探し続けた男だったんです」
 ―2022年10月1日に亡くなる直前、猪木さんから村松さんに電話があったとうかがいました。
 「亡くなる前、猪木さんは新しい詩集を出したかったんですね。ある日の夜中に電話がかかってきていきなり『〝馬鹿のひとり旅〟ってどうですかね』って。詩集の内容は分からなかったけれど『素晴らしいじゃないですか。猪木さんらしいタイトルだ』と答えました。そこで、電話が途切れてしまった。猪木さん、ベッドでしゃべっているうちに電話機を床に落としてしまい、拾えなかったようなんですね。それが(亡くなる)4、5日前です」
 ―猪木さんが亡くなった当日、村松さんはどう過ごされたんですか?
 「10月1日は盛岡を往復しなくてはいけなくて、(東京に)帰ってきたのが午後8時半ごろ。亡くなった場所に着いたのが9時半ごろだったかな。親族に断ってから、あの特徴的なあごに触らせてもらった。朝、顔をそったんだろうけれど、ひげがかすかに伸びていた。まだ生きている、とさえ思いました。猪木さんの破格の生命力を指の腹で感得したような気分。感動しました」
 ―亡くなって1年。猪木さんに対する思いに何か変化がありますか。
 「長く接していたけれど、改めてアントニオ猪木を書いてみようとは思わないですね。こんなに摩訶不思議な男と奇跡的に出会うことができて、間近で感じてきたことを折に触れて、自分なりに心の内でたどりなおしてはみたい。それを作品として書き綴りたくはないんです。もう少し、自分の財産にしておきたい。そういう時間は、結構ぜいたくかなと。アントニオ猪木という人と出会ったことは、とてつもない一大事だった。それをもっとかみしめていようと」
直木賞作家の村松友視さん(写真部・坂本豊)

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