海からみた被災地 海からみた被災地

東日本大震災10年

 東日本大震災による津波は、陸地だけでなく海の中にも大きな被害をもたらした。大量のがれき、失われた漁場……。豊かな海はこの10年でどう変わったのか。水深35メートルまで潜ってみた。

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あの日の岩手 沿岸部の陸前高田、大槌、大船渡などに押し寄せた津波は多数の人命を奪い、家屋を破壊した。警察庁によると、県全体の死者・行方不明者は5700人超、全壊建物は約2万戸に上った。津波によって建物などが流され、地上では残されたがれきなどから出火、市街地や山林を焼いた。

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あの日の宮城 石巻や気仙沼、南三陸など太平洋沿岸部の広い範囲が津波で被害を受けた。6キロ内陸まで到達した場所もあったほか、南三陸町では最大23メートル超の高さを観測。女川漁港(女川町)では34メートルを超える遡上(そじょう)高を記録し、沖合のホタテの養殖場は壊滅的な打撃を受けた。石巻市では市立大川小の児童と教職員84人が死亡・行方不明となった。

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あの日の福島 太平洋沿岸の南相馬市や相馬市、浪江町などで津波の被害が大きかった。警察庁によると、県内の死者は1600人超。福島第一原発で炉心溶融(メルトダウン)が起き、大気中や土壌、海洋、地下水へ大量の放射性物質が放出された。周辺地域の住民が最大で16万人以上避難した。

海に潜る

 震災後の2011年6月から2021年1月にかけて、朝日新聞のフォトグラファーたちが被災地沿岸を継続的に潜水取材してきた。その地点は約30カ所に上る。津波によって海中はどう変わったのか。まずは水深0メートルから報告する。

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福島県相馬市

0m

アサリ漁が復活

2016.4

 福島県内で唯一、潮干狩りができる松川浦では震災前、アサリの水揚げ量が年間80トンに上っていた。だが、福島第一原発の事故により漁は自粛に追い込まれた。漁師にとっては苦しい時期が続いたが、アサリから放射性物質が検出されない状態が続いたため、2016年に試験操業ができるようになった。

アサリ漁師、菊地寛さん

感無量。安全を確認したものだけ市場に出す

2016年の取材に

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東日本大震災後初めて、福島県相馬市の松川浦でアサリ漁が再開した=2016年4月20日

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福島県楢葉町

0.5m

サケの産地、漁中断で苦戦

2016.11

 町内を流れる木戸川は、本州で有数のサケの産地だったが、東日本大震災と福島第一原発の事故が原因で漁が中断。稚魚の人工孵化(ふか)や放流も停止した。漁は2015年に再開されたが、漁獲量は震災前に遠くおよばない。

漁協・鮭ふ化場長、鈴木謙太郎さん

サケの数が減り、改めて人工孵化の大切さを感じています。放流する稚魚を確保し、震災前以上の川にしていきたい

2016年の取材に

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成長したサケの遡上(そじょう)がピークを迎えた=2016年11月4日

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岩手県大船渡市

1.0m

藻場の再生にかける思い

2021.1

 津波が収まると、海中にはおびただしい数のがれきが浮遊し、それを撤去することが「海の復興」の第一歩となった。震災当時、タイでダイビングのインストラクターをしていた岩手県出身の佐藤寛志さんはふるさとの惨状を知って帰国。支援物資を被災者に届けながら海の清掃に取り組んだ。

 3年後には、津波で被害を受けた藻場の再生に乗り出す。藻場は魚が餌を食べたり、すみかとしたりする大切な場所だ。佐藤さんは今年1月、取材に応じ、そんな活動の後進を育てることに意欲を示した。

ダイビングショップ経営、佐藤寛志さん=岩手県大船渡市

自分自身もいつまで潜れるか分からない。ふるさとの海を、自分たちで耕す。そんな「海の活動家」を育てたい

2021年の取材に

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藻場の再生を目指す海に太陽光が降り注いだ=2021年1月21日

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宮城県南三陸町

3.0m

ウニが大量発生 津波がもたらした変化

2016.3

 町内の志津川湾は震災前、質のいいアワビやウニが取れることで知られていた。それを津波が一変させた。魚にとって産卵場所や稚魚の成育場所となる藻場が打撃を受け、生態系が崩れた。

 ウニが大量に発生し、回復しかかっていた藻を食べ尽くした。ウニにとってもえさは足りず、身入りは少ない。実態を調べようと、東北大の吾妻行雄名誉教授らが藻場の再生に取り組んでいた。

東北大名誉教授(取材当時は同教授)、吾妻行雄さん

津波によって表面の付着物がなくなった海底で藻類が繁殖し、初期のウニのえさになることで、ウニの生存率が大幅に上がったのではないか

2016年の取材に

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駆除されたウニは網で回収された=2016年2月4日

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岩手県大槌町

6.0m

津波の爪痕、海の底に

2021.1

 今年1月、吉里吉里(きりきり)漁港沖に潜った。海底には、巨大な金属板や製造中の船の一部などが散乱していた。いずれも港近くにあった造船所や工場にあったものだ。

 さらに潜水範囲を大槌、山田両町にまたがる船越湾にまで広げてみた。すると今度は漁具や自動車などが見つかった。海の中にも震災の爪痕が残っていることを実感した。

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造船所から流出したとみられる金属板が散乱していた=2021年1月20日

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岩手県山田町

7.0m

沈んだ家、かつてのままに

2011.6

 津波によって800人超が犠牲になった山田町。震災から約3カ月後、町が面する山田湾に潜った。

 津波で運ばれた泥の感触が残り、海底はねっとりとしていた。視界は悪く、数メートル先もぼやけて見えるが、布団や靴、柔道着などが漂っていた。

 まだ形をとどめたままの家屋も海底に沈んでいた。物干しざおに取り付けられたピンチハンガーが浮遊する。近くにはトラックもあった。漁業用の網が絡まっていた。

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津波で流された家が、原形をとどめた状態で残っていた=2011年6月4日

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宮城県石巻市

10.0m

ギンザケ養殖が復活

2021.1

 石巻市では津波による死者・行方不明者が約4千人にのぼった。雄勝湾ではギンザケなどの養殖が盛んだったが、津波によって大きな被害を受けた。震災後、阿部優一郎さん(50)は高校の英語教師を辞め、津波で亡くなった弟夫妻の後を継いでギンザケの養殖を始めた。

 中古船を買っていけすを作り直し、震災の年から養殖を再開することができた。今では震災前の倍ほどのギンザケを育てるまでになっている。

ギンザケ養殖漁師、阿部優一郎さん=宮城県石巻市

弟夫婦はもちろん、津波にのまれた私の母もおいっ子を心配しているはず。親のしていた仕事を伝えてやりたいという気持ちもあって続けてきました

2021年の取材に

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養殖いけすの中を泳ぐギンザケの群れ=2016年2月17日

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宮城県女川町

14.0m

ホタテのカーテン

2015.4

 女川町には遡上高34メートルを超える津波が押し寄せ、死者・行方不明者は800人を超えた。

 町の沖合ではホタテの養殖業が盛んだったが、津波によって養殖いかだが流されるなど、壊滅的な打撃を受けた。養殖漁師たちの懸命な努力のかいあって、震災の年にはほぼゼロだった水揚げ高(年間)が2年後には約2600トンを記録。震災前の7割にまで回復した。

 2015年、養殖場の海に潜ると、海面から10メートル以上あるロープがつり下げられ、そこに10センチ以上に生育したホタテがずらりと付着していた。それはまるでカーテンのようだった。

県漁協女川町支所運営委員(取材当時)、伊藤和幸さん

震災前と同じ量にもどし、いずれは息子にも後を継がせたい

2015年の取材に

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水揚げを前に大きく育ったホタテ=2020年11月19日

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岩手県大船渡市

15.0m

横たわる巨大建造物

2020.10

 2020年10月。越喜来(おきらい)湾の海中を15メートルほど潜ると、海底一帯に巨大なコンクリートの塊が折り重なっているのが見えた。湾の奥にある、越喜来漁港の防波堤の一部だ。津波によって破壊され、海の下に沈んだ。

 一方、大船渡市に面する大船渡湾には震災当時、別の湾口防波堤があったが、これも津波によって破壊された。この防波堤ができたのは、1960年のチリ地震がきっかけだった。1万7千キロも離れた場所で起きた地震の津波が日本にも到達、大船渡市でも死者・行方不明者が53人出た。国は津波対策として、巨費を投じて防波堤を建設した。

 後継の新しい防波堤が2017年に完成した。海面からの高さは県内で最も高い11.3メートル。震災前の2倍だ。だが、東日本大震災級の津波では壊れる恐れがあり、国土交通省釜石港湾事務所は「地震の際には高台への避難を徹底して欲しい」としている。

ダイビングショップ経営、佐藤寛志さん=岩手県大船渡市

震災直後から、がれきに生き物がすみ始める様子を見てきました。自然のたくましさ、強さを感じます

2020年の取材に

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海中には津波で倒された防波堤が残されていた=2020年10月6日

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岩手県大船渡市

16.0m

海底に車、がれきの浮遊今も

2021.1

 綾里漁港の沖合1キロを2021年1月に潜った。水深16メートルの海底にあったのは、1台の乗用車だった。

 天井が大きくへこみ、助手席にめり込んでいた。後部座席の天板は外れ、シートがむき出しになっている。

 津波によって家屋や養殖施設が破壊され、湾内はそれらのがれきで埋め尽くされていた。震災後、各地からボランティアが駆けつけ、ほとんどが撤去されたが、それでも船の残骸やロープなどが浮き上がってくることがある。

綾里漁協理事、亘理孝一さん

(当時)湾内は船が入っていく隙間も無いぐらい、びっしりとがれきで埋まっていた

2021年の取材に

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津波で流された車は大破したまま海底に沈んでいた=2016年1月19日

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岩手県大船渡市

20.0m

漁船、魚のすみかに

2017.1

 震災から6年になろうとしていた2017年1月、約400メートル沖合の越喜来湾を潜水取材した。海底には全長12メートルほどの漁船が、原形をとどめたまま沈んでいた。

 近づくと、船の回りにはホタテやホヤ、ウニなどが確認できた。ソイやアイナメが泳ぎ、タコもいた。船はまるで魚礁のようになっていた。

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海底に沈んだ船や車に魚が群れ、魚礁のようになっていた=2016年12月16日

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宮城県女川町

35.0m

行方不明者の捜索、今も

2021.1

 寒風吹きすさぶ2021年1月の女川湾。ダイビングスーツに身を包んだ高橋正祥さんは海へと飛び込んだ。

 30メートル先の海底を目指して潜る。水温10度。視界は悪い。浮上した高橋さんは、一つのカバンを抱えていた。港で開けると、中から真っ黒な水が出てきた。水道水で洗いながら調べたが、持ち主がわかるようなものはなかった。

 高橋さんは仲間と一緒にボランティアで行方不明者や所持品の捜索を続けている。

ボランティアダイバー、高橋正祥さん=宮城県女川町

昨年、今年と新たに海中に沈んでいる車を見つけました。まだまだ捜す場所はたくさんあります。地元のダイバーを育て、活動を続けていきたいと思います

2021年の取材に

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捜索するダイバーの吐きだした泡が、海底から浮き上がってきた=2021年1月27日

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海底に落ちていた写真=2011年6月5日 岩手・山田湾

 津波は海の中も大きく変えた。魚礁が失われ、養殖場が壊滅。生態系や人々の営みを奪った。それでも人々は立ち上がり、がれきを片付け、漁業を復活させた。自分たちの生活を取り戻そうと懸命に生きてきた。彼らを支える人たちの輪も広がった。

 一方で海の底には今も津波で破壊された建造物などが沈み、行方不明者の捜索が続く。震災から10年。だが、被災地に区切りはない。人々はこれからも海とともに生きる。私たちも伝え続ける。

「海からみた被災地 東日本大震災10年」

公開 2021/3/4

取材
諫山卓弥 加藤諒 恵原弘太郎 竹花徹朗 小林裕幸 橋本弦 細川卓 朝日新聞メディアプロダクション(関口聡)
動画撮影
映像報道部
編集
関根和弘
ウェブ制作・デザイン
朝日新聞メディアプロダクション
(白井政行、宇根真、寺島隆介)