ふたつの線が、ある町とその住民の運命を変えた。
日本の敗戦後の1945年9月、米国とソ連が占領地域をわけるために引いた38度線。そして朝鮮戦争での激しい攻防戦の末、53年7月に引かれた軍事境界線だ。最初は北側の、次に南側の国の一部となる。分断に運命を揺さぶられた町は今、どうなっているのか。私は韓国に向かった。
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その町は鉄原(チョルウォン)。朝鮮半島の「へそ」と言っていいほど、ちょうど真ん中にある。広大で豊かな平野部の中心にあり、古くから交通の要所だった。日本の植民地支配下にあった1914年、現在のソウルと東朝鮮湾に臨む元山(ウォンサン)を結ぶ京元(キョンウォン)線が鉄原を通ってできた。景勝地の金剛山(クムガンサン)まで延びる別の鉄路の出発地にもなった。鉄原駅前には銀行や商店が軒を連ね、町には病院や劇場もあり、上水道も整備された。約2万人が暮らす内陸の中心として栄えた。
にぎやかだっただろうその場所を、郷土史を調べている金栄圭(キム・ヨンギュ)さん(45)と回った。38度線から北に約30キロ。雪の残る農地と低木、枯れ草が広がり、タンチョウやマナヅルが羽を休めている。のどかな風景だが、韓国兵の立つ検問所と「地雷」と赤い看板のかかる鉄条網が、軍事境界線に近いことを教えてくれた。視界に入る数キロ先の北の山並みは北朝鮮である。
かつての駅前の目ぬき通りには、壁が黒く焼けただれ、無数の弾痕の穴があいた廃虚がぽつんと立っていた。金さんは「朝鮮戦争での激しい市街戦と爆撃で町は消えました。いまも民間人が自由に出入りできない区域にあるため、戦争の傷跡がそのまま残っているのです」と説明してくれた。
日本統治下に生まれ、朝鮮戦争まで駅前の繁華街に暮らした金松一(キム・ソンイル)さん(77)が語る半生は、ふたつの線に揺さぶられた人々の運命の悲哀を鮮やかに伝える。
45年の解放で日本兵が消えたと思ったのもつかの間、町にはソ連兵があらわれた。半島の中心部にあった町は住民の知らぬ間に大国が引いた線の北側に入り、両陣営がにらみ合う最前線の町になった。
翌年、住民を動員して北朝鮮の労働党の庁舎がつくられ、町のあちこちに金日成(キム・イルソン)の肖像画が掲げられた。38度線は北朝鮮の人民軍が警備し、南側との自由な往来もできなくなった。「日本語を覚えさせられたと思ったら、今度は共産思想。わたしたちはただ従うしかなかった」
50年6月、38度線に向かう兵士や戦車の姿が日ごとに増えているなと思っていたら、間もなく戦争が始まった。通っていた高等中学校の上級生や同級生が徴兵で連れていかれた。金さんは身を隠したが、父が監禁されたと聞いて自首。人民軍兵として戦車隊とともに南に進んだ。ソウルの漢江(ハンガン)をこえたが、米軍の反撃にあって後退。約100日ぶりに鉄原に戻ったとき、山を越えて脱走した。翌年、避難先の米空軍基地でバーテンダーの職を見つけた。
ある時、客の将校が誇らしげに戦果を語っていた。爆撃した場所を聞いて耳を疑った。「トライアングル」。激しい攻防戦の続く鉄原平野は当時、「鉄の三角地」と呼ばれていた。「わたしの仕事場の部隊が、わたしのふるさとを爆撃している。人生はなんて無常なのだと思いました」
米ソを後ろ盾に48年、半島に南北二つの政権ができた。大韓民国(韓国)の李承晩(イ・スンマン)大統領も朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金日成首相も、相手への侵攻を考えていた。38度線を挟んで双方の軍隊が向きあい、ときに武力衝突も起きた。「いずれ戦争は避けられなかった」。鉄原で会った戦争体験者は異口同音に当時の空気を語った。
■「北に協力」と連行、農民ら153人を銃殺
同じ民族同士の戦争は、米国のマッカーサー率いる国連軍と中国軍の参戦で大規模な国際戦となった。前線は南に北に行ったり来たりを繰り返し、民衆はそのたびに着の身着のままで避難し、あるいは生きるために時の占領者に従うしかなかった。
ソウル郊外の高陽市(コヤンシ)。幹線道沿いの小高い丘をあがると、井戸のような暗く深い穴がぽっかりと空いていた。95年、ここから153人分の遺骨が出てきた。
朝鮮戦争が始まって数日で一帯は北朝鮮の支配下に落ちたが、3カ月足らずで再び韓国が奪還した。「敵に協力した」として農民らが右翼団体や警察の手で連行され、穴の前で次々と銃殺された。犠牲者には少年少女もいた。遺族らの訴えで調査した国の独立機関「真実と和解のための過去事整理委員会」(真実・和解委員会)は昨年、「警察による不法な集団銃殺事件だった」と認め、国の公式謝罪を勧告した。
冷戦下の戦争はイデオロギー対立を背景に多くの惨劇を招いた。米軍による虐殺事件も起きた。市民団体は、朝鮮戦争前後の民間人虐殺の犠牲者は100万人に及ぶとみるが、90年代前半まで続いた軍人出身の大統領のもとでは、遺族は沈黙を強いられた。
真実・和解委員会の常任委員として集団虐殺の解明に取り組んだ金東椿(キム・ドンチュン)・聖公会大教授は、民衆にとっては虐殺こそが戦争だった、と指摘したうえでこう述べた。
「虐殺に加担した警察や右翼団体には日本の植民地支配への協力者が多かった。米ソが38度線を引いたのも日本軍の武装解除のためだった。分断と戦争の悲劇は植民地支配の遺産でもあるのです」
■「自分の土地守る」中国志願兵も戦地へ
朝鮮戦争では南北双方を支援した二十数万人の外国人兵士が命を落とした。なかでも中国の死者、行方不明者は約18万人に及ぶ。なぜ多くの兵を半島に出したのか。
北京から平壌(ピョンヤン)行き夜行列車で14時間。中朝国境に近い遼寧省の丹東駅から車で5分ほどの鴨緑江(ヤールーチアン)に出ると、対岸の北朝鮮が間近に見えた。川の真ん中が国境線だ。川にかかる「中朝友誼(ゆうぎ)橋」をトラックが次々と渡って行った。中朝貿易の約7割が丹東を経由しているという。橋はもともと、中国東北部に「満州国」があった43年に日本がかけた。並行して川の上で途切れた橋があった。朝鮮戦争での爆撃で北朝鮮寄りの部分が折れるように崩れ、「鴨緑江断橋」と呼ばれる。この橋も、日本が大韓帝国を併合した翌年、朝鮮半島を南北に貫く鉄道と大陸の鉄道を結ぶために日本がつくったものだ。かつて安東と呼ばれた辺境の町、丹東は日本軍の大陸侵略の拠点だったのだ。
市街地を見下ろす丘に立つ「抗米援朝記念館」を訪ねた。朝鮮戦争を伝える施設だ。館内には、さびた銃や手投げ弾、進軍ラッパ、撃墜した米軍機の破片が並んでいた。金日成が「朝鮮を米帝の植民地にはできない」と毛沢東(マオ・ツォートン)に支援を訴える手紙や、指導者の長男毛岸英(マオ・アンイン)ら朝鮮戦争で死んだ「英雄」の胸像もあった。
趙業君(チャオ・イエチュン)館長は「丹東は朝鮮の戦場に近いだけでなく、繰り返し町も爆撃を受けて犠牲者が出た。戦争は中国を、丹東を守るための戦いだった」と話した。韓国軍と国連軍が38度線を越えて北進した50年10月、中国の「人民志願軍」は鴨緑江を渡り、丹東は出撃と軍需補給の拠点になった。博物館の立つ丘には司令施設があったという。
参戦した元兵士に会った。84歳の孫景坤(スン・チンクン)さんは丹東生まれ。日本の敗戦で関東軍が去った後、中国共産党の土地改革で小作だった孫さんも土地を手にした。
鴨緑江を渡って戦地に向かうときの思いをたずねると、孫さんはこう答えた。「妻にずっと会えないのはつらかったが、米軍がいつ攻めてきてもおかしくなかった。せっかく手にした土地を守るためにも必死に戦おうと思った」。戦場では米軍と白兵戦を繰り返し、21人を殺したという。同じ部隊120人のうち生き残ったのは5人だけ。孫さんは腰に爆弾の破片がささり、肩にも銃弾を受けたが、妻と再会できた。
新中国は、参戦の前の年に成立したばかり。支配地域も全土に及ばず、国民党との内戦で荒廃した国土の再建も課題だった。何が参戦の決め手になったのか。冷戦期の中国外交を研究している牛軍(ニウチュン)・北京大教授はこう解説してくれた。
「中国は50年秋に台湾に兵を出す準備をしていたが、朝鮮戦争に伴い、米軍は第7艦隊で台湾海峡を封鎖し、緊張が増した。また、金日成が戦争に負けたら東北部に亡命政権を受け入れるようソ連から暗に要請されていた。そうなれば、鴨緑江を挟んで米軍と直接向き合うことになる」
大陸での「中米全面戦争」の危険性を避けたいとの思惑は、米国も同じだった。原爆の使用や台湾の国民党軍の派兵を主張したマッカーサーを、トルーマン大統領は解任。その3カ月後の51年7月には休戦交渉が始まった。朝鮮戦争で、中国は北朝鮮への、米国は韓国への影響力を増した。半島の運命が、大国の思惑を抜きにして考えられない構造は今も変わりはない。
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最後に再び鉄原の話を。
廃虚になった旧市街地に代わり、休戦後、十数キロ南に鉄原郡の新たな中心街ができた。住み着いたひとびとには、北朝鮮側に故郷がある「失郷民(シリャンミン)」や生き別れた家族をもつ離散家族が少なくない。京元線が開通して90周年の04年、そんな住民たちが鉄原駅の跡地に集い、朝鮮戦争で分断された鉄路の復元と平和統一を願った。
最近、うれしい知らせが住民に届いた。隣の郡までで途切れている鉄路を、鉄原郡内まで一部復元する工事が3月に始まるのだ。郡庁にたずねた鄭鎬祚(チョンホジョ)・郡守(郡の長)が夢を語ってくれた。「鉄原は南と北が接する町。統一が実現すれば、ここが新たな首都になる可能性もありますよ。それがいつになるかはまだわかりませんが」
◇戦後日本の歩み変える
朝鮮戦争は日本に何をもたらしたのか。
戦争の「特需」は戦後復興の起爆剤となった。警察予備隊(自衛隊)の創設、講和と日米安全保障条約。戦争中の一連の出来事は、日本を共産圏への「防波堤」と位置づける、米国の戦略の反映だった。
防波堤の重要な拠点となったのは沖縄だった。嘉手納基地には朝鮮戦争で原爆が運びこまれ、テストのため、模擬原爆や巨大爆弾を落とす爆撃機が北朝鮮に向けて何度も飛び立った、という米国人研究者の指摘もある。
当時、基地に近い恩納村に住んでいた大城保英さん(67)は毎夕、東シナ海をこえて北方から帰ってくるプロペラの爆撃機を目にした。休戦交渉が続く53年4月、米軍は土地収用令を出し、抵抗する民衆を追い出してブルドーザーで家や田畑をつぶし、新たな基地を増やしていった。
比屋根照夫・琉球大名誉教授は「朝鮮戦争を通じて米国は、沖縄の軍事拠点としての重要性を再認識した」と指摘する。のちのベトナム戦争で沖縄は最大規模の爆撃拠点となった。
(中野晃)
キーワード:朝鮮戦争
1950年6月25日に始まり、53年7月27日に休戦協定が成立。いまも「休戦」状態にある。
韓国では開戦日をとった「6・25戦争」や「韓国戦争」と、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼んでいる。参戦した中国は、米国の侵略に抵抗し、朝鮮を支援したという意味で「抗米援朝戦争」と呼ぶ。
48年に成立した韓国と北朝鮮はいずれも半島全土を領土とし、相手側を「非合法」とした。朝鮮戦争は当初、政権の正統性をめぐる内戦の性格が強かったが、米軍主体の国連軍と中国軍の参戦で国際戦争に様変わりした。ソ連も空軍パイロットが北側に参加。日本も米側の要請で秘密裏に掃海艇を出し、1人が亡くなっている。
キーワード:戦争の経過
50年6月25日、北朝鮮軍が38度線を越えて南へ侵攻し、3日後にソウルを占領した。米国は「侵略行為」と非難。50年7月、ソ連が欠席した国連安全保障理事会で「国連軍」派遣決議が採択され、米軍を主体に英仏など計16カ国が戦闘部隊を送った。
北朝鮮側は釜山に近い洛東江まで攻めたが、マッカーサー率いる国連軍の仁川上陸を機に9月、韓国側がソウルを奪還。10月には38度線を越えて平壌も占領し、一部は中朝国境沿いに達した。同じ月、中国が人民志願軍を派兵すると形勢は逆転。北朝鮮側は51年1月にソウルを再占領したが、2カ月後には再び韓国軍が奪い返した。その後、戦線は38度線付近で一進一退を繰り返した。
同年7月に停戦交渉が始まったが、境界線の位置や捕虜の扱いで難航。交渉を有利にするための激しい攻防戦が続いた。53年3月、ソ連のスターリンの死を境に交渉は本格化。7月、国連軍、北朝鮮軍、中国軍の3者が休戦協定に署名したが、韓国は加わらなかった。
休戦協定で、韓国と北朝鮮をわける新たな軍事境界線がひかれ、線から南北に各2キロが非武装地帯(DMZ)とされた。
◆人名の読み仮名は現地音です。日本語読みが定着している場合にはひらがなで補記しています。