沖縄が僕を動かす 分断の時代、つなげる力下地邦拓さん:朝日新聞DIALOG

沖縄が僕を動かす 分断の時代、つなげる力
下地邦拓さん

By 大谷津元(DIALOG学生記者)
写真=下地さん提供

 朝日新聞DIALOGでは「2030年の未来を考える」をコンセプトに、社会課題の解決を目指す若きソーシャルイノベーターの活動を継続的に紹介しています。今回注目したのは、沖縄科学技術大学院大学(OIST)で職員をしている下地邦拓さん(30)です。米シンクタンクやコンサルティング会社での経験を生かしながら、OISTと県内外の企業との連携と、地域コミュニティー向けの情報発信やプログラム構築に取り組んでいます。国内外の様々なコミュニティーを渡り歩きながらも、常に「沖縄のためになりたい」と行動を続けてきた下地さん。その原動力と情熱について聞きました。

イノベーション基盤 構築めざす

——沖縄科学技術大学院大学(OIST)とは、どんな大学ですか。

 沖縄県恩納村にあるOISTは、沖縄において世界最高水準の研究・教育を行うことにより「沖縄の振興と自立的発展」「世界の科学技術の発展」に寄与することをミッションとして掲げ、2012年9月に5年一貫制の博士課程を置く大学院大学として開学しました。

 教員は約80人で、その6割以上が外国人です。約200人の学生も8割以上が40以上の国・地域から集まっており、学内の公用語は英語です。2019年には英科学誌ネイチャーを発行するシュプリンガー・ネイチャー社が発表した「質の高い論文の割合を示すランキング」で、国内トップ、世界9位に評価されました。

——下地さんが取り組まれていることについて教えてください。

 OISTの学長室に所属し、戦略リレーションシップスペシャリストとして、地域のコミュニティーや県内外の企業との関係構築に努めています。

 OISTは、政府が沖縄県に交付している沖縄振興予算の一部を主な財源として運営しています。しかし、社会が目まぐるしく変化を遂げている今日、大学も公的資金に頼りきりになるのではなく、自主財源の比率を上げ、より運営の安定性を図る必要があります。そのために、地域コミュニティーや県内外の企業の方々との関係を構築し、相互に協働・競争を続けて改革や改善を誘発し合いながら互いを高め合うよう働くシステム(イノベーション・エコシステム)を形成し、公的資金以外のお金が沖縄に流れ込む仕組みを構築するための検討などを行っています。

 ほかにも、OISTの地域教育プログラムや講演、「Industry Affiliate Program」という企業連携のプラットフォーム構築などに取り組んでいます。沖縄の教育現場や科学技術を軸としたイノベーション・エコシステムの基盤を構築するべく、かなり幅広い領域で活動しています。

——様々な連携が大切なんですね。

 OISTが単独で成功すればいいということではないんです。沖縄全体を俯瞰(ふかん)してそれぞれの地域や組織の役割を考え、沖縄全体の繁栄につながる「なりたい姿」をどう実現させるかが重要だと考えています。まず、「沖縄のためになるOIST」にしないと、地域との信頼関係は生まれません。OISTだけが目立つのもダメです。

 沖縄には琉球大学をはじめとして様々な大学や研究機関がありますが、アカデミアとして連携を図りながら沖縄の未来にともに寄与するための対話や活動をさらに促進していきたい。固定観念にとらわれず、違う見方を取り入れることで、活動に本当の意味での価値が出ると私は思っています。SDGs推進やイノベーション・エコシステムの構築など、アカデミアが大きな役割を担える可能性が高い分野を含め、大学間の連携がさらに強くなるような機会づくりに取り組みたいと考えています。

サッカーに打ち込み 地元に誇り

——現職に就く前、大学での勉強やシンクタンクでの仕事をアメリカで経験しています。海外に関心を持つきっかけは何だったのでしょうか。

 サッカーがきっかけです。僕が生まれ育った沖縄市では、市内の小学生や米軍基地内のサッカーチームを集めて、PK戦をするイベントが年に一度ありました。PKの相手には、もちろんアメリカ人もいます。その時に、「沖縄と世界の国々とのつながりや関係」について探求したいなと思い、海外、特に米国に関心を持つようになりました。高校2年まではプロのサッカー選手になることを夢見ていたので、単純に「ワールドカップに出てみたい」というような海外への憧れもありましたね。

——そのほかに、サッカーを通して影響を受けたことは。

 小中高の約10年間を通してポジションはゴールキーパーで、中高の時はキャプテンも任されていました。だから試合では、チーム全体を俯瞰的に見ながら声かけをし、チームメンバーと連携を図りながら、いわゆる最後の砦(とりで)としてプレーしていたんです。「絶対に点を与えてはいけない」というプレッシャーを感じながら、思い切ったプレーをすることが好きでした。振り返ると、今の性格の基礎をつくってもらった気がします。

 あと、県選抜メンバーとしてだけでなく、所属していたクラブチームの一員として、当時通っていた学校だけではなく、沖縄県民の代表として九州や全国大会で戦う経験もしました。沖縄でともに練習に励んだ仲間たちと「沖縄ってこんなに強いんだ」と思わせるプレーをすることは、構図的に、沖縄にいながら「沖縄にこんなすごい研究機関があるんだ」ということを日本や世界に伝えていく、OISTでの今の活動に似ていると思います。

アメリカの大学へ 夢は外交官

——どうしてアメリカの大学に進んだのですか。

 大学進学では、国際関係論が学べる環境を探していました。国内大学も考えてはいましたが、関連する本を読みあさっていると、多くの学者がアメリカ人の学者の論文や学説を引用していることに気づいたんです。それで「国際関係論の本場はアメリカなのでは?」という仮説が自分の中で立って、アメリカに行こうという思いにつながりました。

——アメリカのシンクタンクではどのようなことをしていましたか。そこで何か得たことはありましたか。

 日米同盟と、災害救援やエネルギー安全保障などを含む日米関係に関連する調査や、沖縄の基地問題に関する調査、日米の産官学交流事業の企画や運営に携わっていました。当時の私は、沖縄、日本、そして世界をつなぎ、アジア地域における地政学的安定や地域経済の発展に寄与する外交官になりたかったんです。名前が「下地をつくりながら邦(くに)を拓(ひら)け」と読むことができるのも、動機の一つでもあるんですが。もちろん、沖縄の問題、特に基地問題に関する日・米・沖縄それぞれの目線での理解を深め、関係者との対話を通して、解決につなげたいという思いもありました。

 でも、実際にシンクタンクの仕事を通して外交官の方々とお話しさせていただくと、ポストの任期によって自身の関心のある領域に必ずしも関わり続けることができないケースが多かったり、政府の役人としての立場上、トピックによっては自身の考えを言いづらい立場にあったりするなど、好き勝手に意見を言ってしまう自分には合わないかもしれないと感じました。その結果、「民間外交」の側面から、国内外の様々なコミュニティーを行き来して様々な情報や知見に触れながら、自身の意見や考えを構築し伝えていく役割を担いたいと思うようになりました。

同僚と話す下地さん(右)=沖縄科学技術大学院大学提供

——下地さんのモチベーションは何でしょうか。

 学生時代から今に至るまで、各方面で「沖縄のためになりたい」「そのために教えてほしい、協力してほしい」と言い続けてきました。そして、本当に多くの土地で、たくさんの人たちにお世話になってきました。今の沖縄でのチャレンジも、その人たちの協力があって活動できているんです。その人たちに恩返しする気持ちで、沖縄をより良い場にするために頑張りたいと考えています。

——どうしてそんなに沖縄へ情熱を注げるのでしょうか。

 どうしてなんだろう……。私は「沖縄がそうさせている(=沖縄の魅力にとりつかれている)」と勝手に思っているんですけど。

 沖縄県出身者もそうですが、沖縄出身ではなくとも心から沖縄のことが好きで、より良い沖縄の未来づくりに貢献したいという信念を持って、おもしろい活動をしている仲間が本当にたくさんいます。そしてここ数年、東京から沖縄を見ていた時に、沖縄におもしろいヒトと活動の流れが集まっているような気がしていました。そんな中、コロナを機に沖縄へのUターンを心に決め、私のこれまでの経験や知見を最大限に生かすことができ、沖縄の未来のために寄与できる役割として、OISTでの活動に挑むことを決意しました。

基地問題・ハコモノ……対立超えて

——下地さんの今後の目標を教えてください。

 沖縄全体としてモノゴトに取り組めるようにする「株式会社沖縄」の実現です。社会は「世界的感染症の蔓延(まんえん)」をはじめ、「人口動態の変化」「経済のアジアシフト」「環境問題の深刻化」「テクノロジーの進歩」を含む大きな流れの影響を受け、人類がこれまでに経験したことがないスピードで変化を遂げています。そんな社会において、一組織や個人が単独で成功を収めることは極めて困難で、ビジョンなどを共有する仲間と連携することがこれまで以上に重要になると考えています。

 しかし、沖縄の現状を見てみると、例えば米軍基地問題を巡っては県民が「賛成」「反対」で二分されてしまう構図になっていますし、沖縄の開発・再開発を巡っては、沖縄の自然を切り売りしてしまう開発や各地域にアリーナやMICE(巨大ビジネスイベント)施設などの類似する箱物が建てられ、結果的に遊休資産になってしまい、不満を募らせる「県民」と「開発者」との間でやはり対立構造が生まれてしまっています。非常に残念です。

 忘れてはいけないのは、たとえ意見が異なっていても、沖縄は一つしかないということです。「株式会社沖縄」の一員として、会社(=沖縄県)全体としてどのような方向に進んでいきたいか、社員(=県民)にとって「本当に必要なこと」は何かを考えて、県が一体となって動いていく環境をつくっていきたいと考えています。そして、その動きを本格化していくにあたり、OISTが多くの利害関係者とともに、「株式会社沖縄」の社員としてどのように会社の未来に寄与していけるかを議論できる土壌を整備することが、私の目下のやるべきことだと考えています。

——2030年はどんな社会になってほしいですか。

 これからの未来を生きる若い世代の思いや考えが、政策やその取り組みに反映される社会になってほしいです。というのも、社会の変化は本当に速くて、2030年までには(1981〜1995年に生まれた)ミレニアル世代や(1996年以降に生まれた)ジェネレーションZ世代が全労働人口の7割を超えるといわれています。沖縄の労働人口も、これらの世代が2030年までに5割を超えるでしょう。当然、労働人口の構造が変われば、社会のあり方や価値観も変わります。その時に、社会を引っ張っているリーダーと若い人たちがフラットに議論を交わし、ともに未来に向けた政策や取り組みを作っていく場があればいいなと思っています。

多様性社会 実現するために
大谷津元(DIALOG学生記者)

 2年前、私は平和学習で沖縄県読谷村を訪れました。そこでガイドの方から、「県内の経済格差や貧困をなくさなければ、真の平和教育はできない」という話を聞きました。沖縄の課題は「米軍基地」や「観光振興」しかないと思っていた私。自分の視野の狭さを思い知らされました。同時に、東京に入ってくる沖縄の情報は、ごくわずかだということも感じました。

 下地さんはOISTについて「縦と横のつながりを強くし、議論を活発にしたい」と話していました。2030年はまさに、様々なコミュニティーの人たちと議論する場や、結束する力が求められるのではないでしょうか。多様性社会を実現するためには、いろんな属性の人たちが、様々な考えを共有することが大切だと、私も取材を通して感じました。


下地邦拓(しもじ・くにひろ)

1990年生まれ、沖縄県沖縄市出身。米セント・ジョーンズ大学にて国際関係を学ぶ。卒業後、2013年から2015年まで米シンクタンクのThe National Bureau of Asian Researchに所属 。2015年から2020年までは外資系コンサルティング会社のPwC Japanで勤務。現在は、沖縄科学技術大学院大学(OIST)の学長室に所属し、最年少管理職として県内外の民間企業・地域連携に従事しているほか、世界経済フォーラムが組織するGlobal Shapers Community の東京支部代表、沖縄の未来を考える勉強会を主催するBeyond Okinawaの共同代表を務める。

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