芥川賞作家の故吉行淳之介の妻文枝さん(80)が、没後10年を機に回想記「淳之介の背中」を6月8日に出版する。出会いから別離までの十数年の生活を淡々とつづった。これまで文枝さんが夫について公に語ることはほとんどなく、初めて明かされる初期作品の創作の背景なども盛り込まれている。素顔の吉行像を知る資料としても関心を呼びそうだ。
文枝さんと淳之介は共通の友人の紹介で知り合い、48年結婚、娘が生まれた。しかし60年ころ、淳之介は家を出て女優の宮城まり子さんと生活を始め、94年7月に亡くなった。
今回の出版について文枝さんは「もう私も年ですし、一人ぐらいは理解してくださるかもしれないと思って書きました」と話す。
本に書かれたのは、43年ころの出会いから別離まで。病弱だが好奇心旺盛な夫の作家的日常が活写されている。
作品誕生のエピソードも興味深い。
バラの苗を売りに来た男から有り金はたいて苗を全部買ってしまった文枝さんの失敗談から、短編「薔薇(ばら)販売人」が生まれた。夫婦で飲みに行った帰りの夜道でもらした文枝さんの言葉が、「星と月は天の穴」のヒントになった。
最終章で、61年、宮城さんとの「実生活の告白記」として騒がれた「闇のなかの祝祭」の発表時の夫婦のやりとりに短く触れた。作品について口を出したことのなかった文枝さんが初めて文句を言った。淳之介は「そんな読み方しかできないのか」と怒り、「悲しげな眼をして黙ってお茶を飲んでおりました」。
書き終えて、文枝さんは「単に性の作家というのは間違いです。夫は性を通して人間の本質をとらえようともがいた作家でした」と振り返る。
生前の淳之介を知る文芸評論家の種村季弘さん(71)は「この本は初期短編をよりよく知るための補助線になる。著者は、遠ざかっていく背中という視点から素顔の吉行像を明快に描いている。その書き方は情念を排除し、何も残したくなかった吉行にふさわしい」と語っている。
「港の人」発行、「新宿書房」発売。税込み1680円。
(05/29)
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