「伊賀越え」ルート、どうした家康 カギは伊賀衆、史料から動き探る

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亀岡龍太
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 戦国武将徳川家康の「伊賀越え」で、家康が三重県伊賀市のどこを通ったのか――。北隣の滋賀県甲賀市から入り、伊賀市北部を通過する甲賀経由ルートが有力とされてきたが、ここ数年、奈良県側から伊賀市南部に入り、市内を縦断する奈良経由ルートも注目されている。関連スポットを訪ねてみた。(亀岡龍太)

 「伊賀越え」で家康が通ったとされるルートは、4通りが知られている。

 3通りは、甲賀経由のルート(表〈1〉)だ。京都府宇治田原町から甲賀市信楽町を経て、伊賀入りは伊賀市丸柱の桜峠(標高320メートル)から▽甲賀市信楽町を経た後、伊賀市西山の御斎(おとぎ)峠(標高580メートル)を越える▽甲賀市内を大きく北東に回り込み、甲賀市油日周辺を通って伊賀市に入る。

 奈良県を経て伊賀に入る奈良経由ルート(表〈2〉)は、伊賀市鳳凰寺(ぼうじ)付近を通過したとされている。

 すべての進路に共通するのは伊賀市柘植町周辺だ。いずれの説も家康一行が通過したとしている。

 柘植地区には、家康が休憩したと伝わる徳永寺がある。本堂の軒瓦や鬼瓦には徳川家の家紋、葵(あおい)の文様があしらわれている。葵の文様は、使用が厳しく制限されていた江戸時代、寺では許されていたという。米2石などを寺に寄進するとした代々藩主の書状も残る。

 静永史範住職(72)は「寺は江戸時代に厚遇された。『伊賀越え』の際に休憩する家康公にお茶を献じたという伝承もある。一行は徳永寺で、その後の展望を含めた軍議をしたのではないか」と想像を膨らませる。

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「家康を助けた伊賀衆がほかにもいた」

 伊賀越えでは、服部半蔵も家臣として家康に同行し、活躍したという。半蔵自身は三河生まれだが、父が伊賀出身で伊賀衆との縁は深い。家康が伊賀を通る際には、半蔵の呼びかけに伊賀衆の一部が呼応し、家康の案内と警護を担ったとみられている。

 「家康を家臣として助けた伊賀衆がほかにもいた」と指摘するのは、奈良経由ルートを提唱する作家の上島(うえじま)秀友さん(68)=奈良県香芝市在住=だ。自著「本能寺の変 神君伊賀越えの真相―家康は大和を越えた」(2021年、奈良新聞社)で、服部保次という伊賀衆に注目する。

 江戸時代の資料の一部から、保次が半蔵と同様に旧知の伊賀の人たちを呼び、「薬師寺」付近で家康に合流し、伊賀越えを助けたと解せるという。現在の薬師寺は伊賀市鳳凰寺にあり、伊賀越えの後に創建。訪れてみると、境内には飛鳥時代の寺院跡が確認されたとある。現在は鳳凰寺跡として県史跡になっている。

 伊賀の地は当時、前年の信長側による侵攻で壊滅的な打撃を受けた。信長だけでなく、信長に仕える家康への反感が強い地域だったという見方もある。だが、上島さんは「家康は三河に逃れた伊賀衆を受け入れており、家康に恩義を感じる伊賀衆もいた」と指摘。保次については「半蔵以上に伊賀との縁があり、後に旗本に取り立てられてもいる。地元では歴史上のヒーローだ」と話す。上島さんは近く、保次に関する論文を発表する予定だ。

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