「死んでもいい」村民700人夜通し決死の座り込み 70年前の闘争

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小島弘之
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内灘闘争70年②

 1952年、日本海に面した石川県内灘村(現内灘町)で、米軍基地をめぐる反対運動が巻き起こった。「内灘闘争」と呼ばれ、戦後日本で起きた反基地運動の先駆けとされる。当時、何が起きていたのか、教訓がどのように伝わっているのか。闘争に参加した住民や、沖縄で反基地運動に関わる男性らを取り上げる。

 内灘闘争のあった1952年の内灘村(現内灘町)の人口は約7千人。働き盛りの男たちは遠方へ出稼ぎ漁に出かけ、村に残るのは主に、おかか(女性)、子ども、お年寄りだった。当時の参加者の脳裏には、鮮明な記憶が刻まれている。

 当時20歳で、村の青年団員だった杉村竹子さん(90)=同町=も参加していた1人。「みんな命は考えなんだ。もう死んでもいいわというような感じでやっとったわ。きれいな砂浜が穴ぼこになって無残やったね」と振り返る。

 住民の怒りが最高潮に達したのは53年6月。日本政府は当初、米軍砲弾試射場の使用を「53年1月~4月」の期間限定としていた。だが、試射が開始されたのは同年3月と遅れ、4月末をもって試射をいったん中止したものの、6月に継続使用を閣議決定。同月中の試射再開も決めた。

 村民らは試射場付近に座り込み小屋を設置。試射再開前、約700人の村民らが夜通し座り込んだ。

 そうしたなか、同月15日午前8時すぎ、試射が再開。砂浜には何度も砲弾が着弾した。付近で座り込む杉村さんやおかからの腹の底に轟音(ごうおん)が響き、前方に砂煙が上がったという。

 「金は一年 土地は万年」「接収絶対反対」

 小屋の上には、村民らが訴えをつづった「むしろ(イグサやわらで編んだ敷物)旗」が風になびいた。

 大丸文枝さん(84)=同町…

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