第1回柳家さん喬 お客さんの笑いと涙、高座上がって感じる喜び

有料記事柳家さん喬 ああいい噺聞いたね

聞き手・井上秀樹
写真・図版
[PR]

 《落語家の門をたたいて55年。寄席を掛け持ちし、独演会では長講を3席聴かせる。江戸落語の鉄人だ》

 受けなかったからつらいとか、そういうことはあんまりなかったですね。芸を認めさせたとか、俺がうまいだろとかじゃないんですね。お客さんが笑ってくれることが自分にとっての喜びであるっていうことを感じるんですね、高座に上がって。

落語家・柳家さん喬さんに半生を聞く連載「ああいい噺聞いたね」。全4回の初回です。

 前座のとき、新宿の末広亭で働いていて、楽屋から高座も客席も見えるんです。お客さんがもうゲラゲラ笑って、演者もそれに乗ってやりとりして。自分が受けてるわけじゃないんですよ。お客さんが喜んでる姿がとてもうれしくて、気がついたら泣いてました。

 そうそう。昔、千人以上の女子高校生の前で「心眼」をやったんです。

 《盲目の男が、願掛けの末に目が見えるようになる。自分はいい男で、やさしい女房お竹が実は醜いと聞かされ、美しい芸者と夫婦になろうとするが……》

 終わって控室にいたら、10人ぐらいの高校生が「私たちは、お竹さんは美人だと思いました」と、わざわざ言いに来たんです。噺(はなし)の中では、お竹って醜女(しこめ)なんです。でも聴いてる方は美人だと思っている。これは絶対、落語でしかありえない。

 彼女たちにこんな話をしました。きょうみなさんは、「心眼」を聴いて、やさしいお竹はきれいな人のはずだ、と同じ感情をもってくれた。そういうことって、ありますか? 彼女たちは、感情を共有したことに感動したんですね。落語もおかしさを共有するから笑える。ホントに、お客が教えてくれるんだなあ。

やなぎや・さんきょう 本名は稲葉稔。1948年、東京都生まれ。67年、五代目柳家小さんに入門。81年、真打ち。「替(かわ)り目」「初天神」といった滑稽噺から「文七元結(もっとい)」「牡丹(ぼたん)灯籠(どうろう)」のような人情噺、長講怪談噺など多様な落語を口演する。

商売人の父、裸電球光る年の瀬

 《実家は隅田川近くにあった》

 ご先祖様は茨城なんですね。忠臣蔵内匠頭で有名な浅野家が、笠間の領主だった頃の家臣だそうです。言い伝えでは、吉良邸へ討ち入りに誘われたけども、当主のお母様が「いない」って、居留守使ったそうで。歴史に名前を残せなかったおかげで、いまがあるわけです。

 おやじは戦争にとられて満州へ行ったんです。帰ってきてから軍事徴用で豊橋へ送られて、戦時中に母と結婚したんだそうですな。

 終戦直後、母方の祖父は、東京へ出てきて、あちらこちらの土地を買ったんですね。そのなかで、おやじはいまの本所吾妻橋の地下鉄の上に一軒借りた。商店街でいろいろ商売を始めたんですね。僕が生まれたときは乾物屋。父方の祖父も神楽坂の料亭に出す乾き物を商っていたんです。

 通り一つ隔てて、行商人が泊まる木賃宿、いわゆるドヤ街がありまして、そこにGI(米兵)さんがよく来てました。女性を伴って。そんな関係で、物心ついたときはコーラの存在を知ってたんです。売ってたんですね。

 父は暮れになると正月用の昆布(こぶ)や豆を煮たりしてましたですね。店の先に裸電球がコードのまま五つぐらいぶら下がってて、やたらまぶしく感じて。それが年の瀬の象徴みたいでしたよね。除夜の鐘が鳴るまで商売してましたから。近所の牛嶋神社が氏神様だったんで、みんなぶらっと初詣行って。つい1時間前に「お世話になったね来年もよろしく」って言ったお客さんが、帰りにまた「おめでとう、本年もよろしく」って。そんなことを言い合っている光景を見て、子ども心に面白いなと思ってました。

 うちの前を、都電が走ってました。夜中に、須田町の方から戦車がガラガラガラって線路の上を曲がって、茨城方向へ行くわけですね。鉄とこすれたキャタピラの下で、火花が線香花火みたいにバババババッと飛んでくんです。それは、僕の戦争の記憶ですね。

魚とりと花柳界、隅田川の記憶

 《昭和30年前後の、東京・本所一帯の記憶はいまも鮮明だ》

 小学校に上がるまで、正月になるとね、三河万歳が来ました。鼓を持って、なんだかよく訳のわかんない歌を歌ったりして、軒付をしてましたですね。定斎屋(じょさいや)も売りに来ました。大きな天秤(てんびん)の両側の箱には薬が入ってますかね、ガッチャガッチャって音を立てて売りに来てました。

 肥たご、肥おけの汲(く)み取りがまだ馬車でした。大きな荷台を馬に引かせて、その上に大きな肥おけが、だーっと積んである。わかるんですよ臭いがぷーんとするんで、ああ来た来たって。車ってのが珍しかった。運搬はほとんどがオート三輪。よく転んでました。

 近所に相撲部屋がありましてね。町内のお祭りや豆まきがあると、横綱の鏡里が顔を出しましたね。きれいなお相撲さんです。大きくて丸くてね、やさしそうな顔してました。

 隅田川まで歩いて2、3分でした。「佃育ちの白魚さえも花に浮かれて隅田川」という都々逸があるように、シラウオが取れました。子供の頃は四つ手網をもってよく魚とりに行ってましたね。「ウナギが取れた」とか騒いでる人もいました。ダボハゼとかあまり食べないものも。その頃はまだまだ浅草のりが有名だったんで、牛嶋神社の近く、枕橋のある桟橋の近所で干してるおうちが結構ありました。

 小学校は隅田川沿いでした。あの辺は枕橋とか、三囲(みめぐり)神社とか、長命寺とか、落語の「文七元結(もっとい)」や「おせつ徳三郎」に出てくる地名がありました。帰るころには、お化粧して髪結ったお姐(ねえ)さんがいました。奇異な格好でしたよ、下は洋服で上は日本髪。そういう人たちがお座敷の支度して、置屋さんに行って、座敷に出るんでしょうね。三味線の音が聞こえてきた。それが花柳界ということは子どもの頃はわからなかったですけど、そういう環境にいたことは、他の人とは違う生活をしてたんだなあ。

演芸番組で偶然「よくわかったね」

 《浅草が近いとあって、幼い頃から寄席演芸になじみがあった》

 まず連れてってもらったのは…

この記事は有料記事です。残り744文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【締め切り迫る】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら

人生の贈りもの

人生の贈りもの

あのときの出来事が、いまの私につながっている――様々な分野で確かな足跡を残してきた大家や名優に、その歩みを振り返ってもらいます。[もっと見る]