カンパの旅費で1人列車に 五木寛之さんに焼き付く70年前の闘争

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聞き手・構成 小島弘之
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内灘闘争70年①

 1952年、日本海に面した石川県内灘村(現内灘町)で、米軍基地をめぐる反対運動が巻き起こった。「内灘闘争」と言われ、戦後日本で起きた反基地運動の先駆けとされる。70年が経ち、当時、現地を訪れた作家・五木寛之さん(90)に振り返ってもらった。

 〈朝鮮戦争が膠着(こうちゃく)状態に陥っていた1952年、内灘村に米軍砲弾試射場の土地接収問題が降ってわいた。翌53年3月までに試射場が完成し、村民の生活の場だった砂丘に砲声が響いた。その年の夏、五木さんは現地を訪れた〉

 当時は二十歳過ぎの早大生でした。毎日働いて、合間を見ては大学に顔を出す。いよいよ困った時は製薬会社へ売血に行って、それで安い定食を食べるみたいな。運動に参加するという余裕はまったくなかったです。生活を維持するだけで精いっぱいの「プロレタリア学生」でしたから。

 前置きとして、僕は内灘闘争の当事者ではありません。応援者でも、組織的な参加者でもない。日本列島を揺るがした一つの闘争の時代を生きて、当時の空気を感じていた。そういう人間の1人に過ぎません。

 後世に文献は残るでしょう。でも、当時の空気というものはほとんど伝わらないものです。内灘闘争は、北陸の一漁村の問題というより、日本全体の大きな問題として新聞や雑誌に取り上げられていました。大げさに言えば、日本中が内灘を見守っていた。

 平和運動、反米思想といった、あらゆる問題と絡み合って、「広島」と同じくらいに「内灘」という言葉がシンボリックに拡大されていったわけです。これは本当にすごいものでした。

 当時、「進歩的文化人」と呼ばれた人がいました。例えば清水幾太郎。現地に駆けつけ、雑誌などに寄稿して内灘に共感を寄せる。彼らへの尊敬と信頼の厚い時代で、それらに鼓舞された若者の間には「内灘を応援しなければ人にあらず」といった空気さえあったのです。

 〈当時の村は、働き盛りの男性は出稼ぎ漁に出かけ、村に残ったのは、母親、子ども、お年寄りたち。政府は試射を53年4月までの「期間限定」としていたが、6月には一方的に継続使用を決定。母親らは試射場付近で抗議の座り込みを実施するなどし、全国から労働者や学生らが応援に駆けつけた〉

 当時、学部で新聞を出そうという話になりました。生き生きとしたルポルタージュをやろうと。「どうせ留年するつもりだろうから、内灘に行ってこい」と僕が引っ張り出されたんです。取材者であり、傍観者です。カンパしてもらった旅費と「大学報道」と書いた手作りの腕章を手に、1人で東京・上野駅から列車に乗りました。

記事後半では、五木さんが目にした現場の状況、日本海への思い入れ、戦後間もない当時と現在の日本の「空気感」を語っています。

 車内には、労働組合や学生団…

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