「ちむどんどん」優子が過去を語った 仲間由紀恵の台本に表れた覚悟

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伊藤宏樹
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 沖縄と東京、横浜。1500キロも離れた地で、同じ日にそれぞれ、思い起こすのもつらい体験を語る。先祖の霊をあの世へ送る夜に、空間を越えて人々の来し方が重なり合った。

 日本復帰前後からの沖縄が舞台のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」は物語が1978年まで進み、18日からの週では沖縄のお盆「ウークイ」の夜、登場人物たちが秘めてきた過去を語り出す。主人公の母、比嘉優子(ゆうこ)は、沖縄戦で両親と生き別れ、弟を腕の中で亡くした体験を4人の子どもたちに伝えた。

 「優子は沖縄戦の体験者。体験したことを結構具体的に演じていいんだ、ということに驚きました」。優子を演じる、沖縄出身の仲間由紀恵さんにとって、思い入れの強い場面だった。

 子どもたちが「やりたい」と言うことを受け止め、背中を押し続けてきた優子。それは自身の体験から、我が子の幸せを思うゆえだったことが、ここで明かされた。これまで口にも出来なかった、忘れたくとも忘れられない戦争の記憶。

 「ある意味、私が語り部のような役割を担わせていただくので、とても光栄だなぁ、と」

 優子は横浜・鶴見から沖縄の実家に帰省した暢子(のぶこ)(黒島結菜)ら4人の子を前に、戦時中の体験や夫賢三(けんぞう)(大森南朋)とのなれそめを少しずつ語り出す。賢三は4人が幼少のころ、農作業中に急逝している。

 「長い話になるけど、聞いてくれるねえ?お父ちゃんとお母ちゃんの昔の話……」

「うちが死なしたようなものだから」

 優子の実家は戦前、那覇市で食堂を営み、賢三は住み込みで働いていた。賢三は開戦後まもなく中国方面に出征。1944年には那覇の大半が焼け野原になった「10・10空襲」で優子は実家を失い、祖父母を亡くした。

 翌45年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸し、地上戦が始まる。日米合わせて20万人あまり、県民の4人に1人が犠牲になった。

 優子は目をじんわり赤くして、静かに語り続けた。

 「うちは山の中をさまよっているうちに、お父さんとお母さん、ネーネー(姉)ともはぐれて、弟と2人きりになってしまった」

 「うちと弟はアメリカ兵に見つかって、収容所で終戦を迎えた。あちこちの収容所を転々とさせられて……」

 終戦の翌年、優子がいた収容所に、復員して家族を捜していた賢三が現れた。「運命の再会だと思った」と優子。

記事の後半では、仲間さんがドラマに携わって感じたこと、スタッフが見た仲間さんの思い入れがにじむエピソードなどを紹介します。

 もう一つ、子どもたちに言え…

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